一話
不本意な転入から二週間。
島は日に日に暑さを増していく。曰く、今日の内陸部の最高気温は36度もあるそうだ。四方を海に囲まれた島ではあるが、海風の恩恵を受けられるのは島の外縁部だけで、内側はただひたすらに蒸し暑い。
アンティキティラ島で夏を最も憎んでいるのは誰かと問えば、まず返ってくるのは蒸気機関技師、という答えだろう。ただでさえ、人工の「熱くてじめじめ」を取り扱う仕事であるのに、夏はそれに自然の「暑くてじめじめ」が加わってくる。
理由はそれだけではない。大概の場合、彼らは一つの仕事をこなすと(例えば各家庭に内蔵される蒸気再圧器の修復などだ)動作確認の時間に携帯水たばこを一服やる。しかしこの時期は、気温のせいで圧力の立ち上がりが早い。そのため、ささくれ立った神経を癒やす時間がないのだ。
まあ、彼らは結露を理由に冬も憎んでいるので、根本的に四季が嫌いなのだが。四季折々とか、季節感とかいった単語を口にするだけで5%増しの金額を提示してくる業者もある。
そういう意味では、今朝我がアパートの再圧器の修理をしていた業者は、非常に良心的だったと言える。
二号が部屋中に取り付けた風鈴を見ても勘定を変えなかったし、不機嫌な雰囲気を放ちまくることで、二号を朝食のパンの買い出しに向かわせることに成功した。唯一の不満点は、代金徴収のついでに一台の遠隔共鳴器と、超高圧蒸気缶3本をおいていったことだ。
超高圧蒸気缶は一般規格とかけ離れた圧力を持っており、一本で再圧器が十回新調出来る値がつくものだ。普通のオルゴール人形につなげば爆発して終わりだが、《ウォーデンクリフの塔》を起動するにはぴったりだ。遠隔共鳴器は、一見何の変哲もないオルゴール箱だが、内部を開けば“電波”による通信機構を持っている。
つまりは、そういうことだ。仕方なく、全くもって嫌々ながら、俺は秘匿回線に波長を合わせた。
『いやいやいやいや。大活躍だそうじゃないか、三机クン』
どこか鼻にかかった男の声がした。テスラの怨霊幹部の一人、グレゴリオ博士だ。アンティキティら学園にほど近い、アパートの自室。蒸気管蠢く閉めきった部屋で、俺は嫌味のミルフィーユを浴びることになったのだ。
『二週間前の学園新聞号外、読ませて頂いたよ。単身超大型オルゴールの暴走を食い止め、七百人の命を救ったそうじゃないか。涙が出るね。アソシエート級に階位も上げたとか』
「……ああ」
『アンティキティラ学園を救った英雄が、一介のテロリスト風情に共鳴機通信をかけて下さるなんて。いやはや、光栄だよ』
お前がかけさせたんだろうが、と言う言葉を飲み込む。
「手違いがあった」
『そうだね。手違いだろうね。それも相当に愉快痛快な』
「元はと言えば博士の持ってきた《令嬢の棺》の情報が……」
『解っているよ。お互い不測の事態だった。だからこそ、適当な死体をでっち上げてまで君を庇ったのだ。しかしまあ、奥ゆかしき細君のような我が気遣いに、二週間も返礼なしともなれば、嫌みの一つも喉を突くものさ』
「それは……悪かった。《令嬢の棺》とマルティナにマークされて自由に身動きがとれなかった」
本当に、何処に行っても二号が付きまとってくるのだ。二週間前の逃走劇が奴の警戒心を高めたのか、夜になれば隣で寝る。風呂やトイレに入れば前で待つ。食事は必ず二人でとる。俺の癖や行動パターンを読んでくるので、とにかく逃げられない。加えて、外ではマルティナの目が光る。本人か、奴が放った犬が常時俺を監視している。他にやることないのかと思うほどに。テスラの怨霊の工作員にとって、その目を誤魔化すのは容易いことだが、「巻いたら殺す」と教室で宣言されている。
そういう訳で、夕食の買い出しという名目で二号が出かけ、監視の目のない自宅に俺一人、という状況を生み出せたのは、ほとんど奇跡と言ってよかった。
さておき、俺は博士に事のあらましを一通り話した。二号とよう姉の関係を除いて。博士がまず放ったのは、嘆息だった。
『やれやれ。鉄橋渡りのジョール=オイラーにまで目をつけられたか。キミもほとほと巡り合わせの悪い男だね。祈祷師を紹介してあげたいところだが、生憎私も怨霊の身だ』
「情報が足りない。オイラーについて何か知っていることはあるか」
『噂程度ならいくらでも。曰く、お家の復興を狙っている。曰く、甘いマスクで女生徒を誘惑し、夜な夜な人体実験を行っている……』
「事実にしても弱いネタだな」
天才の頭脳にかける枷はない。それが、第二アンティキティラ島の基本だ。
学園交響曲演奏者は一種の治外法権を認められている。個別の研究施設が与えられており、そこには警備隊であっても許可なく立ち入ることは禁じられている。人体実験の噂一つで揺るぐ権力ではない。無論、証明出来れば檻の中だろうが。
『だが、面白い噂も一つあってね。どうも、彼、かのエジソン郷の研究を完結させようとしているのだそうだよ。オイラーの血がエジソンを上回ることを証明するためにね』
声色から察するに、単なる噂ではない。何かしらの確信があるようだ。
「完結? 何の話だ。特許権裁判の必勝法でも見つけるのか?」
『さて。想像は出来るが、想像にしかならないからね。いずれにせよ、テスラの怨霊としては見過ごすわけにもいくまい。……三机君、動けるかね?』
「学園の英雄で良ければな」
正直に言うと、俺は少し驚いた。いくら学園生の身分を持っているとはいえ、俺はオイラーにマークされている。この腹黒中年が種の割れたカードを素直に切るとは思えなかった。まあ、オイラーがよう姉の楽譜を持っている以上、何を言われても首を突っ込むつもりだったので、説得の手間が減って楽ではあったが。
『英雄で結構。工作員は陰に潜むことこそ至上だが、地位を得たのならばそれはそれで使いようはある』
「……何をさせる気だ。作戦内容は明確に伝えてくれ」
『余裕がないな? 今を楽しみたまえ。テロリズムとはショービジネスだよ。センセーショナルにやろうじゃないか』
俺は眉間を抑えた。頭が痛い。博士と話していると、時折感じる痛みだ。この痛みを感じたときは、大概これ以上話しても何の利益もでない。
「《令嬢の棺》が帰ってくる頃合いだ。詳細な作戦内容は次で頼む」
『うむ。……あ、それはそれとして君、声が柔らかくなったね』
「なってない。切るぞ」
『まあ待ちたまえ。愛に生きる科学者として、親心から一つ忠告をしたいだけなのだよ』
「何を……」
『本物か、偽りか。試されているのは君の愛だ』
「……!」
背筋が凍りつく。体感気温が数度下がり、冷たい汗が頬を流れる。蛇に睨まれた蛙だ。
気付かれている。二号の“意味”を。俺と奴の関係を。痛感せずにいられない。相手は怪物だ。ニコラ=テスラ研究の第一人者。テスラ手帳断章を読み解いた狂気の科学者。テスラの怨霊創設者の一人だ。真実を嗅ぎとる嗅覚が違う。
『君は誰よりも鮮烈な愛を持ち、誰よりも愚かな男だ。失望させないでくれよ。三机詰君』
「…………」
通信を切る。シャツは油のような汗に濡れていて、体温は冷え切っていた。