一話
肩口の凍てつく感覚が、意識を現実に引き戻した。
ふと見ると、右腕……フレームとシリンダで構成された義手に、霜が張っている。
ここは上空七百メートル。雲の中。俺は機械仕掛けの魚に乗り込み、空を飛んでいた。飛甲空魚と名付けられたそれは、鱗状の装甲の間から蒸気を吐き出し、夜空を泳ぐように進む。耳に入ってくるのは、噛み合うギアの駆動音と圧縮蒸気の噴射音。そして風音。熱機関を持たないステルス航空機の中は静かで、想像以上に寒い。蒸気バイク一台積み込むのがやっとのサイズのため、保温能力は皆無だ。気温計曰く、氷点下七度。義手のオイルを寒冷地対応のものにしておいて正解だった。
『ああ! 素晴らしきかな音子文明! 千八百五十一年一月十七日! 第二アンティキティラ島にて発掘された十一台のオルゴールは、人類を新たなるステージへ導いた!』
床に放り出した携帯共鳴機から中年男性、グレゴリオ博士の声がする。音質の悪い秘匿波長でも、博士の声はやたらと通る。
『神造オルゴールと呼ばれたそれらは、人類にとって未知の力を持っていた。演奏により、オーロラ状のエネルギーを操るのだ。それは時に演奏に合わせて明滅し、時に高度な演算処理を行い、時に物理的な力を生み出す。かの発明王トマス=エジソンはそのエネルギーを音子と名づけた。彼が模造した神造オルゴールは、瞬く間に人類の工業史を塗り替えることとなる。そう、第二次産業革命だ!』
飛甲空魚が雲を抜ける。窓の外に極彩色のパノラマが広がった。光の半分はガス灯、もう半分は発光演奏器による音子のオーロラ光だ。
第二アンティキティラ島演算技術特区。太平洋上、小笠原諸島から北七百キロほどに位置する島。公表人口百十七万。蒸気とゼンマイ、シリンダーと歯車で構成された街。
多少の凹凸はあるものの、島は中心部を起点としたなだらかな円錐状になっている。島の南半分ではブラザー・ハドソン川が蛇行していて、川を下って海に差し掛かったあたりには、煤けた蒸気機関工場群とパーソンズ港がある。隣接する繁華街は七色に光り輝き、昼夜問わず呑んだくれの生産に勤しんでいる。
反対に島の中心部には文明を誇示するかの如く立ち上がる巨大なグノモンタワー。よく観察すると、一日一回のペースで回転している。その付近には金勘定好き御用達の高層ビル群が生えていて、首のない巨人……建築用オルゴールが、新たな一本を積み木のように組み立てている。
機体の行く手に立ち並んでいるのは石造りのゴシック建築群。ただし、蒸気管と巨大な歯車、そして音子オーロラ光に思う様食い荒らされている。世界最先端の音子研究機関、アンティキティラ学園だ。
きっと、これは幻想的な光景なのだと思う。少なくとも、”彼女”は気球に乗って街を見下ろした経験を、何度も俺に語っていたから。
『見たまえ、眠ることのない街並みを。夜を克服した人々を。あれこそ、あまねく人々を照らす音子の光だ。オルゴールの光だ。音子文明の威力だ!』
第二アンティキティラ島どころか世界の常識ではあるが、それでも博士は補講の学生に語りかけるように話を続ける。科学者というのは得てしてそういうモノなのだろうが、グレゴリオ博士にはどうも自己陶酔の傾向があった。
『……で、時に三机クン。君は人類に叡智を与えた、これからも与え続けるだろう神々のオルゴールを、一体全体どうするつもりだね?』
「壊して、黙らせる」
『世界中の人々があまねく音子の威光を待ち望んでいるわけだが?』
「知った事か」
『天国の幼馴染が今の君を見たらどう思うかね。悲しむだろうな、怒るかもしれない』
「死人は悲しめないし、怒れない。だから復讐に意味がある」
『ふふ、そうだな、その通りだ! ふふ、ふふ、ははははは……!』
哄笑が機体中に響く。実に愉快げで、反射的に通信を切ってしまいそうだ。
『だからこそキミなのだ! 三机詰クン、我らが一人! 人類の行く末など何一つ考えず、合理性など欠片もない。思うがまま、自殺的、かつ衝動的な愛! やはり歴史を変えるのは愚か者の愛でなくては! ……お、それは歓喜の顔だね?』
携帯共鳴器上のカメラが駆動音を立て、俺の顔にピントをあわせる。
「不愉快の顔だが」
『それは失敬。どうも君の表情筋は固いな。知り合いに腕の立つ整形外科医がいるのだが、紹介しようか。専門は遺体だが』
「いい加減本題に入れ、博士。時間がない」
『うむ。またも失敬。二度失敬。今度良い豆を贈ろう』
喋り過ぎて喉が乾いたのか、共鳴器ごしに何か(恐らくはやたらと酸味の強いコーヒー)を飲む音がする。何かにつけ贈られてくる良い豆とやらを、俺は全て金に換えていた。
『君の任務は破壊。標的はアンティキティラ学園大時計塔に眠る神造オルゴール《令嬢の棺》だ。学園の警備は第三装甲合奏団。資料の通り、最新鋭の軍事用オルゴールの詰め合わせと骨董が一つ。一個師団に相当する戦力だ。指揮者の力も含めれば、後進小国程度は攻め落とせる戦力と言えるな』
とっくに頭に入っている話を聞き流しつつ、装備一式を確認する。防弾コート。圧縮蒸気手榴弾四つ。折りたたみ式サブマシンガン。内ポケットに予備弾倉が二つ。剥き出しのオルゴールシリンダー三本。証拠隠滅用の小型ナパーム弾。鉛色の義手。小型酸素ボンベ付きのガスマスクを被って、準備は万全だ。
『さて、その機体はとある地下工房製の最新鋭ステルス機ではあるが、敵の音熱複合探知機も最新鋭だ。計算ではあと三十秒で発見される。備えたまえ』
目をつむり、もう一度、あの日の記憶を脳裏に映す。汗に濡れた髪。弾ける炎。広がり続ける血溜り。鳴り響く街の唄。弱々しい笑み。
『……八……七……六……五……』
博士が四を数えるよりも早く、機体が軽く振動した。機体前部……飛甲空魚の頭にあたる部分が、滑るようにズレていく。飛甲空魚の首が切り落とされたのだ。猛烈な風が機体内に吹き荒び、銀色の液体が義手に付着する。
『フライングか。感心しないな』
「計算ミスの次にな」
制御を失った機体がゆっくりと傾き、汽笛に似た甲高い断末魔をあげる。豆粒同然だった街路樹が見る間に巨大化し、石畳のモザイクの粒度が見る間に荒くなっていく。
積み込んであったオーニス工房製の圧縮蒸気バイクに跨がる。溜め込んだ圧縮蒸気が化石燃料によって加熱され、膨張する。足回りのペダルを蹴りこみ、圧力弁を開放。V型十二気筒高圧エンジンが重いトルクを響かせる。
『では、電子的再征服を始めよう』
グレゴリオ博士の声を背に、俺は薄暗い夜空へ走り出す。数拍おいて、飛甲空魚が蒸気爆発を起こした。