プロローグ
甲高く長い笛が聞こえた。精も根も尽き果てた俺は息も絶え絶えになりながらスコアボードを見る。
104対0
惨敗。と言うにも甚だしいほどの点差による敗北だった。
三重県U15ラグビースクール選抜は今年できたばかりでチームメイト揃っての練習は数回しかしていないし三年生や二年だけでは足りずに一年生まで試合に出ているような。
そんな矮小なチームだった。
対するは愛知県。
この年の愛知県選抜は過去前例がないほど強力なチームであり全国でも三本指に入ると言われていたチームだ。
勝てるだなんて思ってはいない。
だがそれでも一矢報いることすらできずに、窮鼠ほどの活躍もできずに惨敗したのはあまりにも情けなく、悔しかった。
試合後の礼を済ましベンチに戻る。観客やコーチからは「よく頑張った」「よく諦めなかった」「ありがとう」など優しくも甘ったるい言葉をかけられた。
だがチームメイト達は違う言葉を発した
「しょうがない」
ああ……こいつらはそんな気持ちだったのか。
こんな気持ちじゃ猫を噛む窮鼠にもなれるわけがない。
チームで泣いていたのは俺一人だった。
惨敗一週間後。
進路について悩み始めた俺はぬるま湯のような学校生活を送っていたが突然校長室に呼び出された。
ノックをして校長室に入るとハゲた校長の隣に見覚えのない男が一人座っていた。
座っているからわからないが恐らく身長180センチほど。体格もがっしりとしている。顔は強面だが年をとっているふうには見えない。
呆気にとられていると「座っていいぞ」校長から声がかけられたので俺は二人の正面に座る。
俺が座って約二秒後。
その強面の男は「佐藤です。よろしく」と言い俺に名刺を渡した。名刺には「朝野高校社会科教師 ラグビー部監督 佐藤孝明」と書いてあった。
朝野高校……。三重県でも屈指のラグビー強豪校であるその高校は四日市農林高校、四日市北工業高校、車木高校と並んで四強と呼ばれ三重県のトップに君臨している。
その中でも四日市農林と朝野は頭一つ抜けている。
そんな高校の監督がなぜ俺なんかのところに?
「単刀直入に言おう」
必死で考えている俺のことなどお構いなしに佐藤監督は言う。
「君に朝野高校に来てほしい。私のラグビー部に入って欲しいんだ」
横でニヤニヤしている校長とは反対に俺の体に鳥肌が立った。
あまりのショックに呆然としている俺なんて知ったことではないと言うかの如く佐藤監督は続ける。
「君みたいな選手が欲しい、うちは他県かの引き抜いた選手が多くチームとしてまとまりが悪い。
君はずば抜けてうまいわけでもない、しかし104対0で負けたあの試合で最後まで試合を投げ出さなかったのは君だけだ。
そのメンタリティをうちのチームで生かしてほしい。うちのチームに来てくれ」
過大評価だと素直に思った。そして茹で上がっていた頭も急速に冷えた。完璧な急速冷凍。うちの冷蔵庫も真っ青だろう。
「佐藤監督。」
「ん?なんだ?もしかして他からも誘いを受けているのか?誰も目をつけていないと思ったのだが……」
少し気に障ったが問題はそこじゃない。
「お言葉ですが過大評価です。僕には朝野高校の選手のような綺麗なラグビーをできるほどのセンスはありません」
「そんなことは知っている」
食い気味の返事だった。さすがにちょっとは否定して褒めてほしかったが本当のことだから仕方がない。
「私が評価しているのはスキルでも経験でも身体能力でもない。君くらいの選手は少なくないからね」
なかなかに歯に衣着せぬ物言いで悲しくなる。
「私が評価しているのはメンタリティだよ。君のその強靭なね」
何を言っているんだと。馬鹿じゃないのかと。そう思った。だが監督は続ける。
「U15ラグビースクール選抜東海大会。私も見ていたんだよ。なかなか派手に負けていたじゃないか」
なんて容赦ない人なんだこの人。こちらとらガラスの十代なんだぞ。
「まともな試合と呼べるようなものじゃない。野球なら十回連続コールド負け。サッカーなら一面を飾るだろう」
さすがにつらくなってきて下を向く。かさぶたを剥がされたなんてものじゃない、生傷に塩を塗り込まれたみたいな気分だ。
「でもね。君は諦めなかった」
俺は上を向き監督の顔を見る。そうさせるには十分なほどその声と言葉には賞賛が詰まっていた。
「驚天動地だよ。あんな馬鹿みたいな点差の試合で最後まで諦めずに走り続ける中学生がいるなんて」
「い、いやでも試合を諦めないことくらいスポーツ選手なら当然じゃ……」
やっとの思いで声を絞り出す。
「それは普通の試合の場合だ」
その言葉には確かな圧力があった。俺を黙らせる程度の。
「いいかい?さっきも言った通りこの試合は野球ならコールド負けを十回連続でしているようなものなんだ。
こんなものは試合とは呼ばないし呼べない。負け戦だ。最初からどっちが勝つかなんてわかっている。前評判は10:0だ。
しかし君は最後まで諦めなかった。それこそ少年漫画の主人公のようにね。そんな精神力は中学生が持っているものじゃないんだよ」
監督は少し息を吸う。
俺はその権幕に圧倒されピクリとも動けない。
「だから」
「だから君にはぜひうちの高校、朝野高校のラグビー部に入って欲しいんだ。いずれチームを引っ張っていってほしいとも考えている」
残ったのは感動と謙遜だった。
自分を認めてくれてた人が今までいなかったわけじゃない。でもここまではっきり言われたのは初めてで。恥ずかしながら目頭が熱くなってしまった。
だがそれと同時に「俺はそこまでの人物じゃない」という気持ちもあった。
ここで浮ついて朝野高校に行くことを決めてもそこでこの人の期待に応えられる自信がなかったのだ。
「監督……俺は……」
そこまで言ったところで監督が「いやいいんだ」と口を挟んだ。
「今日答えが聞きたいわけじゃない。しばらく考えてもらっていい。と言ってもこちらにも事情があるから二週間ほどでは答えを出してほしいがね」
胸を撫で下ろす。今この場で決めるには少し荷が重い問題だった。期待に応えたいという気持ちと期待に応えられないかもしれないという不安。相反した感情による葛藤はすぐに終わりそうなものではなかった。
「それに今日の目的は勧誘だけじゃないんだ」
「え?それはどういう……」
それはどういうこですか?と言おうとするが言葉を被せられる。
「私は君のその異常なメンタルの根源が知りたくてね。君とおしゃべりに来たんだよ」
「はい……?」
あまりに予想から外れた言葉を投げかけられ頭が混乱する。大丈夫か俺の頭。今日だけで相当脳細胞死んでるんじゃないか?
「ラグビー歴、家族関係、友人関係、学校生活、恋愛について聞いてみるのもいいかもしれないね。いいルックスしてるんだし彼女くらいいそうだ」
何を言い出すんだこの人は。ラグビー全然関係ねえじゃねえか。それに恋人はいねえよ大きなお世話だ。
そんな思いを押し殺して俺は話す。
「じゃあまずは、ラグビーを始めたきっかけから……」
……
そこから監督はほとんど口を挟まなかった。俺がしゃべり、監督が相槌をつき、たまにどうでもいい質問をする。校長は俺が話し始めて三分ほどしたら出ていった。暇じゃないのだろう。
しかし「あるワード」に監督が過敏に反応した。
それは家族関係について話している時。自分の父親が元白球磨高校ラグビーだったということを話した時である。
「ちょっと待ってくれ」
「はい」
「西神君。お父さんの名前は?」
またも圧力を感じる言葉だった。
「西神大和ですけど」
瞬間。監督は目を見開いて口角を釣り上げた。
そして
「はっはっははっはっははっは!!!!そうか!君は西神さんの息子か!!!なるほど、確かに外見にもプレースタイルにも面影がある。
いやー迂闊だった。珍しい苗字だからそこを繋げても良かったんだが気づかなかったよ……」
監督は途端に上機嫌になって笑いだしたかと思えば今度はぶつぶつと独り言を言い始めた。
俺は俺で、親父を知っているのか?でもなんでだ?歳も離れているのに。と次々に浮かんでくる疑問を処理していくのに手一杯だった。
「あーすまないね。嬉しくてついね。しかし困ったな」
困った?なにがだ?と思うが監督が話を続けたの考えるのを一旦止める。
「私は昔君のお父さん。西神さんと試合をしたことがあるんだよ。手ひどくやられたがね。文字通り手も足も出ずだ。
私はまだ若かったからね。試合後に詰め寄って言ってやったよ。今度は絶対に勝ってやると」
あの親父名門の監督と試合してたのかよ。何者だ。
「結局、そのあと私の方も仕事が忙しくなったりして再戦は実現しなかったけどね」
なるほど。でも「困った」というのはどの部分だ?
「来年。朝野高校には私の息子が入学する。勿論ラグビー部に入る。息子はU15の中学生選抜のキャプテンだ。君と同じで三重県を代表して戦った選手だよ。」
スクールじゃなくて部活の方の選抜か。確かにキャプテンの名前が佐藤だった。
「私はね。監督として是非とも君が欲しい。だが同時に男として君と戦いたいんだよ」
そういうことかと納得がいく。
「つまり監督は監督と親父の代理戦争、仇討を自分たちの息子でしたいということですよね?」
正直。面白そうだと思ったが顔には出さなかった。
監督は笑いをこらえているかのような声で応える。
「そういうことだよ。だから君がもし朝野高校に来ないつもりならぜひ白球磨高校に入って欲しいね。西神さんの母校であるクマコーにいる君を倒してこそ……」
監督は立ち上がる。そして俺の顔に自分の顔を近づけた。
「意味がある」
それはこの日一番圧力のある重い言葉だった。