いのちのうた —ユスリカのだ腺染色体の観察—
あわれみをものにほどこす心より
外に仏のすがたやはある
覚如上人
——まぶしい。
目を開けると、真っ白な天を見上げて仰臥していた。背中に直に触れる床は滑らかで硬く、ひんやりしている。わたしは何も身に纏っていない。
首を回して周囲を見渡すと、果てさえ見えぬ白い空間が、緑がかった床の上に延々と続いている。全身が気怠く、身を起こす気にはなれない。真上から降り注ぐ光は、青みがかったような白で、日の光にしては冷たい。風はない。
影が、天に現れた。
小さな丸いの影が一つ、少し離れて、わたしの足の先へ向かって伸びる細長い影が一つ。それらは徐々に大きくなり、輪郭がはっきりしてくる。
細長い影は真ん中から縦に裂けて、二つになった。さらに近づき、ぎらりと光を反射したそれは硬質な金属性のようだ。わたしの足から頭の方へ向かってやや細くなっており、鉄の箸を思わせる。
一方、丸い一つの影と見えていたものは、天に向かって斜めに伸びる鉄の柱の一端だった。電柱ほどの太さでどこまでも高い柱で、こちらから見える先端はロケットのように丸みを帯びて尖っている。
巨大な箸のお化けが、ぶつかりそうな勢いで迫ってくる。身が竦む。しかし一瞬の後、箸の間にわたしの体が入ったようで視界から外れた。
とりあえず潰されなかったことに安堵の息を吐いた、のもつかの間、体の両側から急速に近づいてきた鉄の箸——というより黒々とした一対の壁——に両腕を外側から、骨が軋むほどがっちりと押さえ込まれる。次いで天高く聳える柱の先が迫り、思わず顔を背けると米神を押さえつけられ、床との間に固定された。
冷たい床、冷たい壁と箸に、身動き一つできぬよう拘束された自分。
閃いた。そのときようやく、ようやく、巨大な壁と柱の正体を理解した。——ピンセットと柄付き針だ。
ぞっと背筋が冷たくなり、力の限り身を捩って逃れようとするが、びくともしない。
壁はわたしの体の感触を確かめるように何度か力加減を変え、やがてわたしの体をがっちりと挟み込んで静止した。柱は具合の良い場所を探すように何度か押さえつける場所を変え、わたしが首をめいいっぱい回して抗うのをものともせず、やがてわたしの顎の下に落ち着いた。喉が潰されて息ができない。
何かがそっと呼吸を整えているかのような一拍の時間。動けない、逃げられない。
そして、鉄の柱がゆっくりと、わたしの頭を床に押しつけながら、床と平行な方向へ引く。ゆっくりと、しかし抗えない力で。
——この頭を固定されたままの胴体から、引きちぎるために。
「シューコちゃん、呪われてんじゃないの?」
昼休みの教室の喧噪の中、言葉に反して楽しげな口調で紗英は言った。修子は無意識に首の後ろに手をやり、かすかに眉間にしわを寄せた。
「単なる記憶の継ぎ接ぎだよ。SF映画にありそうなシーンだ」
「けど、明らかに昨日の実験と関連してるでしょ」
紗英はにやにやしながら、びしりと水色のピックの先を修子へ向ける。それを下ろさせて、修子は軽く息をついた。どうも上の空だと紗英に指摘され、首を引き抜かれる夢を見たと答えただけだが、第三者視点でも容易にかの実験と関連づけられるらしい。
一八六五年、オーストリアの司祭グレゴール・ヨハン・メンデルは、エンドウ豆の遺伝に関するある仮説を発表した。この仮説が当時異端だったのは、二親の液体のような形質が混じり合って子の形質として現れるのではなく、二親がそれぞれにもつ形質をあらわす単位粒子が存在し、その粒子が子に受け継がれるという前提をもつためである。
後に細胞核内で染色液に染まる繊維がこのメンデルの仮説に合致した挙動を取ることがわかり、この染色体が形質遺伝に重要な役割を果たすことが分かった。現代では遺伝の単位粒子は遺伝子と呼ばれ、その存在を広く受け入れられている。
DNAの二重らせん構造の発見やヒトゲノムの解析へと続く、遺伝学史におけるひとつのパラダイムシフトがここにあった。
ユスリカの幼虫のだ腺染色体は巨大であり、光学顕微鏡で容易に観察できる。ゆえに高校生物で遺伝学の一端に触れる定番の実験となっており、その例に漏れず、修子たちも昨日の午後にその実験を行った。体長五ミリ、径一ミリほどの、赤いゼリーのような体をもつユスリカの幼虫を、スライドガラスに載せて頭を引っこ抜き、頭に付いて出てきただ腺を染色して顕微鏡で観察する実験だ。
蠢く虫、スプラッタというグロテスク要素に尻込みする班のメンバーを差し置いて、修子はテキストに忠実に、十数本ほどの赤い糸くずのような屍体を積み上げて、納得いく染色体のスケッチを描き上げたのだった。
「……なら、わたしにも組織液や内臓を嫌悪する正常な反応が残ってたってことでしょう」
「まぁ、鋼鉄の乙女にもそんな繊細な心が残っていたなんて!」
紗英は大袈裟に感嘆して見せて、そののちけらけらと笑った。手にしていた白いサンドウィッチの残りを二口ほどで片付け、お茶を飲んでから、また修子を見つめて、ねぇ、と粘つくような声を出す。真っ黒な瞳がぬらりと水気を帯びて光った。
「あなたがうれしいと、わたしもうれしい。あなたがかなしいと、わたしもかなしい。あなたが怒っているとき、わたしは居心地が悪いと思うし、あなたがわたしを嫌いなら、わたしもあなたを好きにはなれない。
わたしがあなたを呪っているとき、あなたが悪い夢を見る。これはそんなに不思議なことかしら?」
呪いという言葉は、対象者が気付く気付かないにかかわらず対象者に悪影響を与える儀式を想起させる。大気中に感情を伝える媒質があり、生きものの感情や思念が何らかの形で周囲に伝搬し、受容者の意識にかかわらず伝わるとでもいうのか。修子はまだ、ニュータイプの出現を信じるほど現実を悲観していなかった。
「君がわたしを呪ったがゆえに、わたしが悪夢を見たのだとすれば、それはわたしが君の視線や仕草から害意を感じ取り、恐怖したからだよ。わたしはあいにくと、無脊椎動物の思考を読み取る能力は持ち合わせていないし、わたしの顔も覚えられない体長五ミリの虫けらが、わたしに報復できるとも、その攻撃が脅威たり得るとも考えていない。
ひとえに、眼前の光景を自らの身に置き換えてしまう、忌々しい想像力の産物だよ」
「本当に? 虫けらを殺して悪夢を見たシューコちゃんは、何かに怯えているんじゃないの?」
紗英は口元に緩く笑みを刷いて、底知れない闇色の瞳で修子を見ていた。修子はその質問には既に答えたと考えた。修子が紗英さん、と静かに呼びかけると、紗英はきょとんと首を傾げた。彼女の瞳も、よく見れば濃い焦げ茶だ。
「口元にマヨネーズ、ついてる」
「え、嘘」
紗英は咄嗟に唇を親指でぬぐった。紗英には占い師かカルトの教祖の素養があるようだったが、今ひとつ詰めが甘いところがある。
「夢がないなぁ、シューコちゃん。生き物と心が通じるなんて、ロマンじゃない。わたしだって、ポチとおしゃべりしてみたいのに」
ポチというのは紗英の家で飼っている犬だ。殺した虫と飼い犬とでは、心が通じる意味が違うようにも思ったが、修子はこれ以上この話題を掘り下げるつもりはなかった。
修子はちっとも進まない手元の弁当箱を見下ろした。今日のメインのミニハンバーグは、まるで生まれたときからその姿だったかのように粛々と、にんじんとスイートコーンの間に収まっている。
——誰もいない。
濃灰色のざらついた表面をもつ実験台と白い陶器の洗い場が整然と並ぶ教室に、南向きの窓から日の光が差し込んでいる。覚えず、あるべきものがあるべき縮尺で存在することに安堵した。同時に、またかと思う。
黒板の前に据え付けられた教師用の横に長い実験台と、その前に三行三列で並んだ学生用の実験台の内八つまでは、試験管一つ残さず片付いている。ただ一つ、二行二列目——今わたしの目の前にある実験台だけが、違っている。
光学顕微鏡、赤い糸くずのようなユスリカの幼虫が散らばるA4版の藁半紙、スライドガラス、カバーガラス、ピンセット、柄付き針、紙製ウエス。すべてそろっている。しかし、ここまでお膳立てされても実験に取りかかろうとは思えない。すでにレポートは書き上げた。
気を逸らす対象を求めて、もう一度周囲を見回す。黒板消しの跡が残る黒板、きれいに片付いた実験台、艶やかな光沢を放つ洗い場、整然と実験器具が納められた棚、窓越しに望む快晴の空と家々の屋根。何の変哲もない、わたしが知るとおりの理科実験室だ。物音一つしない。
諦めてもう一度、眼前の作業台を見下ろして——ぞっと、視線が藁半紙の上に釘付けになった。
『こんにちは』
灰色の藁半紙の上で、赤い糸くずが行儀良く整列して、歪な文字を形作っていた。金縛りにあったようにそれを凝視していると、文字がぞわりと崩れ、また新たに秩序を整える。
『また あえたね』
また、会えたね。
わたしは全身を強張らせたまま、息を止めていた。指先が冷たくなり、思考は止まり、そして、視線は縫い止められたように動かせない。
『十二人』
『おぼえてる?』
苦しくなって、腹の底の澱をさらうように、息を吐き出した。これは夢だ。虫が人語を解するはずはなく、よってそれに答える必要もない。
『ね はなそうよ』
だのに、未だ目をそらすことあたわず、やけになれなれしい言葉遣いに、うなじを逆撫でされる思いがする。赤い糸くずたちがざわざわと、秩序を無くして震えた。——なにが、可笑しい。睨み付けていると、また文字が現れ、一定のリズムで次々と形を変えていく。
『にんげんはだいじ』
『いぬはしもべ』
『ねずみはどれい』
『ぶたはにく』
『むしはむし』
『ぼくたちは?』
そもそもこの糸くずは集団でひとつの言葉を形作っているが、これは誰の言葉だ。どれか一匹か、あるいは集団意識が存在するのか? ——考えるな、これは夢だ。これを言わせているのは、忌々しいことに、わたし自身だ。
『ね くじらは?』
——そう、夢だ。
藁半紙の隣に置かれていたピンセットを取り、「じ」の濁点を形作る糸くずを一本つまみ上げる。右上の点の長さが半分になった。
『やめて!』
ひとりでに身をよじる糸くずをスライドガラスにのせ、胴体を挟み込んでいるピンセットを左手に持ち替える。右手に柄付き針を持ち、頭から二つ目の節あたりを押さえる。
『こんどけっこん』
『するんだよ』
「けっこん」が「結婚」だとして、幼虫は交尾できないし、数日中に成虫になるのだとしても、一ミリリットルもない虫けらの脳みそに、高度な契約を交わす社会性が備わるわけもない。
ゆっくりと息を吐き、糸くずの頭を押さえつけている柄付き針を、そっと右へ平行移動させる。少し糸くずの首が伸びて、ふと、音もなくちぎれた。そのまま動かし続けると、頭に付いて細い筋が引き出される。筋が切れたところで、ピンセットを離し、肩の力を抜いた。
半紙の上で、赤い糸くずたちが無秩序に震えていた。
『ひとごろし』
よしんば、そのような社会性がこれらに備わっていたとして、だから何だというのだ。
これは、人間ではない。
蛍光灯の色のない明かりと、足下を這う冷気、見渡す限りに陳列された、赤い精肉。これがかつては食い鳴き眠る、温かな生き物だったなどと、修子には到底想像が及ばない。彼女は少しそこで立ち止まり、目を背けてまた歩き出した。
茜色に染まった空の下、修子が三角川の堤防の上を歩いていると、川辺に墨色の法衣が蹲っていた。修子が堤防を下りて背後まで近づいても、まるで気付く様子がない。田野さん、と声を掛けられてようやく、蹲ったまま修子を振り向いた。
「やあ、修子ちゃん」
にっこりと笑んで挨拶した田野は、修子が堤防の上に置いてきた自転車の籠から、長ネギの先が飛び出しているのを見やって、目を細めた。
「今日の夕ご飯は何だい?」
「豆腐ハンバーグです」
おや、とおどけて言って、田野は笑った。
「君は若いのに、健康志向だねぇ。弟くんに恨まれるよ?」
「良いんです。わたしが作るんですから」
「違いない。しかし、料理上手で結構なことだ」
この冴えない男は北の山にある小さな寺の住職だが、齢四十を超えて未だ細君がない。自炊もあまり上手くないらしく、毎日ふもとの食堂に通っている——と、女衆の噂で町中に知られていた。不憫ともいえるが、何かにつけ煮物だの漬け物だのを差し入れてもらうのがありがたいらしく、本人は気にしていないようだ。
「何をしてるんです?」
田野の手元には、新しく土をかぶせたような山があった。
「子犬を埋めたんだ。他の犬の縄張りに入り込んだんだろうね、かわいそうなことだ」
田野は土で汚れた手を合わせ、目を閉じた。
——かわいそう、そうだろうか。修子は自問した。その子犬は、人に見つかれば紐に繋がれて飼われることになったかもしれないし、あるいは、ガス室で眠るように死んだかもしれない。
そういえば、最近昔のように野犬を見かけなくなった、と修子は思い至った。わずかな危険性があれば、人はそれを排除するために命を奪うことをためらわない。わたしたちは、無数の屍の上に立っている。
しばらくすると、田野はさてと言って、立ち上がろうとしたが、すぐ崩れ落ちて四つん這いになった。
「ひ、膝が……」
年ではないのか、などと茶化すことはせず、修子は彼が落ち着くのを待って、一緒に堤防の上まで戻り、そこで別れた。暮れなずむ空の下、自転車を押して歩きながら、ただ考える。
田野は死んだ子犬に土をかけ、手を合わせる。その行為に何の意味があるのか、修子にははかりかねた。しかし、少なくとも田野にとっては、意味があるはずだ、と。
また、この教室だ。南向きの窓から日差しが差し込む、無人の理科室。中央の作業台の上には、また、顕微鏡が置かれている。しかし、その隣の藁半紙の上にも、スライドガラスの上にも、何もいない。ぐるりと何の変哲もない理科室を見回してから、入り口の引き戸を開けて、外へ出る。
急に、ざわざわと意味のとれない喧噪が頭に流れ込んでくる。眩しいほどの日差しが照りつける、校門前の石畳の上だ。校庭にも校舎にも、人影は見えない。にもかかわらず、おぞましいほどの気配が、辺り一帯に満ちている。それを振り払うように、一歩を踏み出した。
「ちょっと、あんた!」
か細く高い声が聞こえて、思わず、出しかけた足を戻し、周囲を見渡した。しかし、誰もいない。
「危ないじゃないの、ちゃんと足下見なさいよね!」
足下を見た。当然、誰もいない。ただ、一匹の蟻が、石畳の合間を縫うように歩いている。
わたしは家の玄関の外に立っていた。無造作に葉を伸ばすサボテンの植木鉢も、庇の隅に大きく張った蜘蛛の巣も、なにもかもがいつも通りだ。ただ、肌にうるさいほどの喧噪だけが異様だった。
玄関のノブに手を掛けようとしたそのとき、中からまた、か細い声が聞こえた。
「お前に分かるか、仲間たちが一人減り、二人減っていくなかで戦場に赴く男の覚悟が! 数々の危険をかいくぐって届けた食料を口にした妻が、子供たちが、次々に動かなくなっていく絶望が! お前たちは悪魔だ! お前たちがゴミとして捨てるものを集めて細々と生きる俺たちを、正義もなく圧倒的な力で蹂躙する! もうたくさんだ! いつまでも俺たちがお前らに屈服していると思うな! 娘に手を出すなら、俺の屍を越え——」
ぱん、と軽い音が響いた。扉を開けると、弟が丸めた新聞紙を手にしゃがみこんでいる。
「ねーちゃん、おかえりー」
弟が新聞紙が持ち上げると、その下で黒光りする物体が二つ、白い中身をぶちまけて沈黙していた。中に入って扉を閉めると、ほんの少し、外の喧噪が遠ざかった。
「しゅーちゃんおかえりー、今日はとんかつだよ」
テーブルについたわたしの前に、父が白いプレートを置いた。でんとプレートの半分を占拠するかつと、山盛りのキャベツ、彩りのプチトマト。今日は豪華だ。
これは、地鳴りだろうか。音が近づくにつれ、それが無数の足音だと分かる。さらに、鼻が詰まったような息づかいも聞こえる。そう気付いた数秒後には、庭へ続くガラス窓を割って、大型犬よりさらにでっぷりと貫禄のある肌色の塊がリビングへと躍り込んだ。足音は止んだが、群れの荒い息づかいが聞こえている。茶色と緑のはずの庭が肌色に埋め尽くされているのが見えた。
「傲慢で愚かな人間共よ!」
突如張り上げられただみ声が耳朶を打った。その声の主であろう、躍り込んだ豚の黒くつぶらな瞳からは表情が読み取れないが、その声は震えるような怒りに満ちている。
「貴様らは我らの誇りを奪い、自由を、命を、そして心さえ奪い、生を不当に蹂躙した! ここに、我ら最後の一頭が息絶えるまで、貴様ら人間に報復することを宣言する! 手始めに貴様らを蹴散らし、そこな同胞の骸を取り返させてもらおう!」
思わず目下のかつを見た。見事にからりと揚がっている。
硬い蹄の音に我に返って椅子から立ち上がった。突進してきた先頭の一頭を父が黒いフライパンで叩きのめし、もんどり打ったそれが勢い余ってテーブルに突っ込んだ。間近で見ると本当に大きい。こんなものに突進されたら、人間一人など簡単につぶれてしまうだろう。庭からは続々と肌色の塊が入ってきていた。
「しゅーちゃんは行きなさい」
「え、まじ、薄情者!」
颯爽とフライパンを振り下ろす父の勇姿と、竹刀を構える弟の剣道部らしくないへっぴり腰を尻目に、わたしはさっさと玄関を出た。
この場面に限っていえば、弟に何度もみせられたアニメ映画の影響としか思えない。責任を取らせることに何ら罪悪感はなかった。
また、得体の知れない気配たちが世界に満ちる。
「シューコちゃん、走ったの?」
三角川の堤防の上だ。まだ日が高い。振り向くと、紗英がいつもの胡散臭い笑みを浮かべていた。隣に犬を連れている。彼女の家で飼っている、ドーベルマンだ。吠えたりはしないが、いつもわたしに無言のプレッシャーをかけてくる。額の汗をぬぐうと、シャツが透けるほど濡れた。
「ちょっとね。紗英さんは散歩?」
「いーえ、デートです」
紗英はますますにっこりと笑った。傍らの犬をもう一度みる。今日は、リードをしていない。無言でこちらを睨み付けていた犬が、皮肉気に牙をむいた。
「文句あるのか、小娘」
地獄の底から響くような恐ろしく低い声に、不覚にも身が竦んだ。無手で殺気だった犬に勝てると思うほど、無知ではない。しかし、ここで尻尾を巻いて逃げ出していいものだろうか。紗英は、あまりにも無防備すぎる。
「どーしたのシューコちゃん、怖い顔して」
怖いのは、君の隣の犬の方だ。紗英はわたしに向かってこれ見よがしにため息をついた。
「シューコちゃん、どうしていつまでもポチに警戒されてるかわかる?
シューコちゃんがポチを警戒してるからだよ。威嚇には威嚇、敵意には敵意を返すもんなの。当然でしょ? ポチは害意のない人間を傷つけたりしないよ。今まで一度だって、ポチがシューコちゃんに吠えたり噛みついたことなんかないでしょ?
一体、なにを怖がってるの?」
犬が何を考えているかなんて、理解しようがないからだ。分からないから、恐れる。犬が人語を話すようになれば、恐怖は消えるだろうか。言葉を交わし、互いを理解すれば。わたしは紗英に背を向けた。こちらを射竦める黒い眼光を振り払うように、駆けだした。
喧噪がますます大きくなる。ああ、うるさい。
がむしゃらに、木立が日の光を遮る、長く曲がりくねった石段を駆け上がっていた。とうとう息が切れて、先を歩いて登った。ようやく天辺にたどりつくと、見覚えのある寂れた門があった。寺だ。瓦も柱もあちこち傷んだ門をくぐって境内に足を踏み入れると、潮が引くようにかしましい喧噪が遠ざかっていった。
薄暗い境内を少し進むと正面が本堂で、これも屋根瓦に苔が生すような時代がかった建物だ。ここは下界とはまるで別世界のように静かだった。覚えず、深く息を吐いた。
「おや修子ちゃん、いらっしゃい」
寺務所の方から、どこか浮世離れした法衣姿の男が歩いてくる。いつもと変わらぬ恵比寿顔だった。
「お茶くらい出すよ、座って座って」
本堂の縁側に二人で腰掛けて、冷たい麦茶を飲んだ。
「一寸の虫にも五分の魂、というでしょう?」
男の声は、この場所のゆったりとした空気になじむように穏やかだった。
「人間の人間たる所以は、他者に慈しみをもつことじゃないかな。慈悲ってやつだよ。
人間を特別視して他の生物と区別する宗教もあるけど、仏教ではダーウィンの進化論なんて無い時代から、人も動物も虫も、同じ命として敬うべきとされてきた。宇宙から見れば人はちっぽけな存在で、他の生き物と大差ないとね。
皆等しく尊いんだ。単純明快だろう?」
なるほど、その理念は単純明快だ。しかしそれこそが、人に矛盾を与える呪いで、わたしを葛藤させる元凶だ。
「平等なんかじゃないでしょう」
人は食べるために家畜を殺し、知るためにマウスを殺し、目障りだからと虫を殺しておきながら、命を哀れむふりをして自らに酔い痴れている。
虫が豚に劣り、豚が人に劣るのは、人に似ていないからだ。命が大事なんじゃない。人は自分が大事で、自分に似ているものに同情するのだ。その同情さえ、自らの欲望の前に吹けば飛ぶ。
——当然だ、当たり前じゃないか。
厳格なジャイナ教徒は、不害の教えを守るため、肉を食さず、湯を沸かさず、常に布で口を覆い、ほうきを手にしているという。その禁欲的な生活の末、断食によって死に至るのが理想的な死に方なのだという。
世の中の全ての生き物を哀れんで、一匹も殺さずにいる方法は、生まれてこないことだけだ。今、罪をこれ以上重ねたくないというなら、死ぬしかないのだ。
心底、馬鹿げている。わたしは食べたいものを食べ、風邪を引けば薬を飲む。蚊が飛んでいれば殺すし、油虫が出ればホウ酸団子を置く。
いのちを大切に、と口にするのは簡単だが、それは耳に心地良いだけの、欲深き人の身には果たし得ない世迷い言だ。霞を食べて生きることができないなら、最初からそんなことは口にしない方が良い。
「じゃあ、君は何を恐れてるの?」
簡単なことだ。わたしは死にたくないから、殺すことが恐ろしい。
当たり前のように歩いて来た道の上で、ある日ふと足下を見下ろす。その道が、幾万幾億の屍を踏み固めてつくられていたことに気付く。そんなのは当たり前で、取るに足らないことだ。ただ、その日から、足裏の感触を生々しく感じるようになる。折に触れて、悩むようになる。なぜわたしは、これほどの死の上に立っているのか。彼らとわたしの間を隔てるものは何か。
だから、こんな夢を見ている。
「悩みたまえ、少年よ。君自身の葛藤の先にしか答えはないのだから」
無責任な励ましを聞き流して、ふと足下に視線を落とすと、また、糸くずが蠢いていた。わたしの視線を待っていたかのように、また、秩序を形作る。
『こんにちは』
『おはか たてたの』
お墓。
隣の田野を見ると、相変わらずにこにこしている。その指先は、土で汚れていた。この男なら、つくるだろう。小さな、十二の塚を。そしてまた、静かに手を合わせるのだろう。
手を合わせて、どうすれば良いのだろう。経を念じるのか。意味も分からないまま。
『げんきないね』
何より、この夢の腹立たしいことは。
『うた うたう?』
この虫たちが、わたしに語りかけてくることだ。これらを一方的に蹂躙したわたしと、何かをわかり合おうとしている。これがわたしの赦しへの渇望のあらわれだというなら、あまりに不毛ではないか。
『ぼーくらはみんなー』
『いーきているー』
そのうえお前たちは、わたしの葛藤をあざ笑って、生への讃歌を謳うのか。その声なき声で。
「うるさいよ」
ため息のように、言葉が零れた。
糸くずたちはぴたりと動きを止めてから、無秩序にさざめくように震えた。
木々の間から差す日の光は茜色に変わり、どこか遠くから軽やかな子供たちの笑い声が聞こえる。
引用元:「手のひらを太陽に」やなせたかし作詞・いずみたく作曲