雪降りの村
「いやな臭いだね」
しゃがれた低い声が女の耳に入った。ちゃぷり、と温泉に浸していた足を動かす。首を半分ほど振り向かせ、声の主を見つめた。咥えたイカの脚を千切った。
眉間のしわを寄せ、何ともいやそうな様子を臆面もなく出した老人がいた。車椅子に座り、両手でホイールを掴んでいる様子には驚いた。連れがいる様子はなかった。
「ひとりなの?」
女は不躾に言った。
「ふん、まったく。人の顔見ると誰もが、その事ばかり」
老人は、露骨に軽蔑するような目を向けて、ぽつりと唾でも吐くように言った。そして、ゴロゴロと車椅子を動かし、女の隣のスペースへとやってきて小さく息を吐いたかと思うと、一人で車椅子から設置されている長椅子へと移ってきた。その様子を女は片目で見ながら、関心をしていた。
「危なっかしいわね。それに浸けれもしないのに足湯なんて可笑しいわね」
「片方あれば十分じゃ」
皿の上に乗ったイカの脚を一本、手に取り、幾度か噛み千切って食べた。じんわり広がる焼いたイカの味を確かめ、足を動かした。蹴った波面が、湯気を揺らがせながら広がり、反対側にぶつかり反射する。雲海のように漂い、風が吹けばその流れに儚く揺れて僅かな感触とともに足に当たり消えていく。その様子をじっと眺めて女は、ぽつりため息を付いた。
「……。お前さん、隣で溜息なんぞ吐かんといてくれるか」
隣に座り、片方だけの足をつけていた老人が咎めるように言った。
「いやよ。おじいちゃんの説教は嫌いよ」
「っ、生意気な女だ」
「片っぽ、どうしたの?」
老人の口調に意を介さず尋ねた。ぴくりと眉を動くのを見たが、反応は示さなかった。ぐるりと足湯の周りの風景を見た。寂しい所に作ったものだと思う。辺りをぐるりと森が囲い、開けた風景は、空を見るしかなく、その空さえ、大きく立派な瓦屋根が覆い隠している。誰にも見つからず、ひっそりと浸かりに来るにはこれ以上の場所はないだろう。しかし、誰かと浸かるのならば別だ。景色は鬱蒼とした森であり、空の様子さえうまくつかめない。見知らぬ人間と出会うことは稀だが、こうして出会ってしまうと、どうも居心地の悪いものだった。
「女、名前は?」
「あさみ、雨に、さんずいの沙に美しいで、あさみ」
「そうか。この足は、わしの償いじゃ。疾うの昔のな」
先ほどまでの不機嫌そうな感じはなくなり、老人はぽつりぽつりと自分のことを話はじめた。その様子は、少し気違いじみて雨沙美を戸惑わせた。昏い森が老人を責め立てているようであった。静かな景色に僅かに響く鳥の声。その声が森の暗さを森の静けさを一層引き立てる。雨沙美は、滔々と流れだす老人の口から出る言葉に耳を傾けた。ひしひしと後悔と苦難の日々を語って聞かせた。途中、咳込み話を中断しても、幾らか経つとまた語り始め、しゃがれた出しにくそうな声で一心に紡いでいった。慟哭を感じ、ちゃぷりと足を動かし、音を立てる水に驚きを感じる。何が起きたか分かるはずなく、老人の嘆きを聞いた。
「――はあぁぁぁ……」
死人を見た思いだった。長い吐息だった。自分の中で溢れ出すものに蓋を締めることが出来たのだろうか。鳥の声が風に揺れる木々の雑踏の中に一際うるさく聞こえた。その声だけが、足湯に届き消えていく。どこか詰まってしまったような様子で老人は、足湯から立ち上る湯気の一点を見つめ続けていた。雨沙美は静かに老人の様子を眺めていた。堰を切る勢いは消え失せ、ここへ現れた時と同様な雰囲気を醸し出す老人に郷愁やどこか風変わりな愛情を感じた。
「……悪かった。戯けた爺がボケただけじゃ。忘れてくれ」
高圧的であった態度がなくなり、歳相応のこぢんまりと丸まった印象を与えた。膝に置かれた手はシワが目立ち、シミも覗けた。そこから片方だけとなった足を見る。片方しか無い足は、僅かな波紋を受け小さく揺れて、白雲の湯気を浴びた。毛も落ちた足の表面を小さな数滴が垂れて湯船へ入っていった。
「コチラこそ、生意気だったわね。謝るわ」
「……雪、が見れると、ここへ来たのだが、どうもまだ早かったようだな」
森の木々を眺め、老人は誰に聞くにでもなく呟いた。針葉樹の森は、冬間近なこの季節でも少しも枯れず、青々とした細長い葉を伸ばしている。
「そうね。……新聞では、今週はまだらしかったわね」
「……」
「でも、夜はしっかり冷えるわ。この季節だもの」
老人は僅かに頷いた。雨沙美は手を動かし皿の上にある烏賊の足を手にとった。口に含み、噛み締めた。妙に味が濃かった。ふと、皿へと目を向ける。最後の一足だったらしい。もう皿の上には何もなく、カスが残っているだけであった。冬を孕んだ風が吹いた。腰ほどまである髪が攫われる。雨沙美はすぐにそれを手で抑えた。
「綺麗だ……」と隣で老人が呟いたのを聞いて、振り返る。老人の目尻には涙があった。目尻から伸びるように何本もシワがあり、年齢を感じさせる。涙を浮かべた様子に雨沙美はただただ驚いた。
「……あなたは、お祭り出るの?」
「祭り?」
「そう、昨日辺りからこの足湯の麓の神社の参道沿いに街道の方まででお神輿担いだり、出店が出たりするのよ」
「この季節にか」
「そうよ。この村じゃ、冬の雪が降るぐらいの季節にやるのよ。まぁでも若い子たちはみんな都会へ出て行っちゃって、お神輿だってほとんど担がないで、タイヤ轢いてゴロゴロ引いていくだけの寂しいものだけど」
「ふん……。寂しいものだな」
「私、これでも踊り子さんなのよ」
「……そうかい」と、応えた老人は静かに頷いて、
「なら、踊ってくれるか――?」
畳にぽたりと大粒の汗が流れた。それを気にせず、老人は小さな宿の一室で片脚しか無い足で支えながら、細い腕で懸命に腕立て伏せを行なっていた。速度はあまり早くなく、ゆっくりと、けれどしっかりと両腕で体を持ち上げる。これは老人が片脚を失ってからの日課であった。毎日行なっているが、年々と辛くなり最近ではあまり回数を重ねることはなくなっていた。そして今朝は特に疲れがあった。
隣で雨沙美が、くつろいで座り老人の様子を眺めていた。
「毎日やっているの」
「そうだ……、」と切れ切れとした疲れた声色で老人が応える。
「それにしては、細いわね」
「……」
「どうして、いつもひとりなの」
「死んだからな」
「子供は?」
「出来なかっ、た……はぁっ」
「そう……。お祭り行くわよね」
「押してくれればな」
「はいね」と、雨沙美が答えると老人は、ゆっくりと腕立て伏せをやめて起き上がった。雨沙美も襟や裾を正して、崩れた帯を結び直した。化粧は、老人が腕立て伏せをしている最中に終わらせていた。外を窓から眺めると、のっぺりとした雲が覆い、日差しを白く乱反射させて、ひやりとした冷たさを感じさせた。今にも雪が降りそうだと雨沙美は思った。窓の左半分から上部にかけて覆う結露が一筋、視線の先を流れた。
「行こう」
老人は雨沙美に声をかけ、部屋の外へと促した。雨沙美は、ふっと薄ら白い寒空を見つめたあと、立ち上がり車椅子に座った老人へと向かった。二人は、宿に付いている温泉へと向かった。小さな宿だ。古く床は軋む。天井は黒く木が染まり、年月を感じさせる。そのため、車椅子では、行動のしにくさが目立つ。どうして老人は、大きな宿ではなく、こんな小さな宿を選んだかは知れなかった。右手に曲がれば、男湯と女湯と大きく別れた廊下に続く待合所まで少々手こずりながらも二人はたどり着いた。隅で古びた自動販売機が云々、唸っている。寂れた宿だ。待合所からは、谷間の村の様子が見える。右手に祭りが行われる神社があり、左手には、最近改装したあちらも老舗の大きな宿が見える。この宿は少し、神社に近いのだろう。神社の方で、ひゅるりと白雲の筋が伸びる。軽い天候悪化でも祭りは開催するとの合図の花火だ。その合図をみた雨沙美は、汗を流しに来た老人へと報告した。
「多少の雪ならば、やるらしいわ」
「なんでわかる?」
「あそこ」と老人の顔の横から、手を伸ばし空へ伸びる白雲へと指さした。
「あれ、がその合図なの」
「へぇ、そうかい」
目を細め、見えているのか分からないが彼女の声に反応し、指差す一点を見た。その様子を後ろから眺めていた雨沙美は、小さく老人の肩へと手をおいた。
「……早く浴びよう」
するりと、老人はその手からすり抜け、男湯と書かれたのれんを潜ろうとするのを車椅子のグリップの部分を掴んで止めた。老人は虚を突かれ、少し前のめりになって、不機嫌そうな顔になり、彼女へと振り返った。
「待って。昨日も大変だったんだから、混浴ができる方へ行きましょう」
「ふん、一人で出来る言っとるだろう。己の柄ぐらい自分で洗えるわ」
「だめよ。昨日もそんなこと言って、他のお客さんに助けてもらってたじゃない。あなたの家なら平気でもここはそうじゃないでしょう」
「ふん」
「たったの五百円ぽっちじゃない。私が払うわよ」
「女に奢らすか」
「知らないわ」と言ってぐいっと車椅子を引っ張り、反対方向へと向きを変えて『開いています。』と年月で擦れて読みにくくなった看板がかかっている混浴風呂へと進んでいった。のれんを潜るとすぐに賽銭箱のような形をした料金入れが、廊下の真ん中に置かれた机の上にあった。その先には、簡単なふすまがあり、奥が見えないように仕切られていた。
「ここへ、料金は入れてください……か。簡単ね。こんなの払わくても入られちゃうわ」と言いながら、老人のグリップのところへ掛けていた巾着袋から財布を取り出して、五百円玉を一つ入れた。からんと底へとそのまま落ちたような音を響かせた。
「まったく。お節介な女だ」
呆れるように老人は呟いた。湯煙の中、静かに温泉にと浸かっている。雨沙美は、少し離れた洗い場で髪を解いていた。その顔は綺麗な笑顔を作り、老人へと向いていた。
「ふふ、いいじゃない、別に」
老人は、雨沙美の返事に反応を見せずに白い空を眺めた。混浴風呂は小さな露天風呂となっていた。洗い場は申し訳なさそうに鎮座しており、大部分は湯船であった。
「小さいわね。さすがに」
「仕方なかろう」
髪を完全に下ろした後、また簡単に結いあげて髪を湯に付けないようにしてから、雨沙美は風呂の中へと入ってきた。女の柔肌が老人の腕に当たる。
「よるな。ゆっくり浸かりたい」
「あら、いいじゃない。私は好きよ」
老人は湯から手を出し、顔を一拭いして大きくため息を吐いた。
「まだまだ元気なのに勿体無いわ」
「……」
「楽しかったわよ」
「ふん」
「いいじゃない。そんな嫌がらなくても」
「軽々しい女は嫌いだ」
「ふふ、いやあねえ」
あ、と思い出したように口に雨沙美はすうっと湯船から出て、脱衣所へと入っていった。老人は気にせず、ゆったりと湯に浸かりながら水面を這う湯気の流れを見ていた。ガラガラと脱衣所と浴室を分ける扉が開く音がしたと思うと飛び出るように雨沙美が出てきた。手には皿を持ちその上にスルメイカが乗っていた。
「イカがないとダメね」と、嬉しそうに湯船に入っていき、老人の隣へと向かった。そして、湯船の端の岩の上に皿を載せて一本手に取り口に頬張った。
「またそれか……」
「好きなのよ」
「そうかい」
そう言うと、目を閉じて頭を軽く振った。そのまま頭をそむけ背中を預けている縁に頭を乗せた。雨沙美は、老人のその様子に意も介さず、イカの足を食べる。遠くで鳥の高い声が響いた。風はひんやりと冷たく冬を感じさせるのには十分であった。幾分か過ぎた頃だった。
「あなた、どうするの?」
「……なにがだ」
「これからよ」
湯に浸からせていた方の手をゆっくりと水面に挙げて、肌を転がるように弾けていく水を眺めながら雨沙美は言った。老人は、彼女のその言葉にきょとんとしたような顔をしたが、シワだらけの手で顔を拭い、息をついた。
「ふぅ……。知らんな。寂れた温泉地なんぞには、縁はないしな」
「ツレないわね」
「こんな老いぼれにツレはいらないわ」
そう言うと、老人は出口の方へと湯の中を移動して、両腕で湯船から出て、片足を地面について立ち上がり、壁を伝いながら脱衣所へと戻ろうとした。
虚を突かれたが、雨沙美はすぐに移動して一人で移動しようとしている老人に無理やり肩を貸して、脱衣所までの短い距離を支えた。
「一人じゃ危ないのよ」
「知るかい」
宿をあとにした二人は、車椅子を雨沙美が押しながらゆったりとしたペースで神社の祭りの行われているだろう方へと進んでいた。周りには人はおらず閑散としており、冬の風が一層冷たく感じた。無骨な石畳をガタガタと言わしながら進んでいた。二人は何も言わず、村のひっそりとした靄のような匂いに包まれていた。幾分か進むと祭りの喧騒が聞こえてきた。小さな村の焔の幽火を見るようだった。
ふわりと老人の肩に綿のような雪が降りてきた。それに気づき、雨沙美は空を見上げる。空を覆う分厚い白い雲からはらはらと舞い降りる雪を見た。等間隔で舞い降りる粉雪に空へ飲み込まれそうな感覚を覚えた。車椅子を掴んでいる手に思わず力が入った。老人も雪の存在に気づいたようだ。ふわふわゆらゆらと深々としていた。
グリップにかけた傘を開く。黒く空を覆い、雪降る雲から身を隠す。前を向き直り、歩みを始めた。祭囃子が雪に溶けた。
「ありがとよ」
「やあね。いいのよ」
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2013/08/09 誤字脱字修正
2013/09/21 文章微修正