恋愛は難しい
卒業まで二週間を切った。
そう思うと、この汚くて臭い部室すら名残惜しくなるから不思議だ。
感慨に浸る私の回りで、どったんばったんと遊んでいるメンバー。うるさい。
淡いピンクのワンピースを着た木下さんが来れば、桜だっ! お花見だっ! と大騒ぎするメンバー。やっぱりうるさい。
騒ぐメンバーを呆れて見渡せば、隅で本を読んでいたミシェルとばっちり目が合ったけど、恥ずかしげに逸らされた。
この間のことをまだ気にしているらしい。
「そーいやさ、野田」
「んー?」
忙しいので生返事。
私が卒業することで、実質空手サークルのまとめ役がいなくなる。頼りになるミシェルと木下さんに引継ぎするためノートを作成中だ。
「お前この間、何でびしょ濡れだったの?」
「……」
「クソ寒いのにこいつ元気だなぁって……っいってっ! 何で飴投げてくるん……っ!」
ビシッと額に当たった弾丸代わりの飴に文句を言おうと顔を上げたメンバーが、私から漂う黙ってろオーラに気付いて、口を閉じた。
大人しく飴を食べようとしたところ、腹を空かせた他のメンバーに襲撃され、取り合い。そっちに構っている暇はないので放置する。
ミシェルから視線を感じる。気づかない振りでノートに集中。
あの日のこと、不注意で水被ったとミシェルに説明したけど、詳細については知らせてない。
下手に誤魔化すとボロを出しそうなので、はぐらかしを貫くことにした。
しかしここで思わぬ伏兵が。
「もしかして野田さん、ミシェルを慕う女の子たちに何かされたのではないでしょうか」
「……えっ?」
さらっと流れた髪を押さえながら、心配そうに私を見つめてくる木下さん。
黙って欲しいけど、可憐な木下さんに飴をぶち当てることは出来ない。
ミシェルは木下さんの言葉を聞いて驚きの表情をしている。あちゃーと思った私は、黙ってのジャスチャーを木下さんに向けたけど、気づいてくれなかった。
どういうことです? と詰め寄るミシェルに、必要以上の説明をする木下さん。
聞けば、木下さんもミシェルと付き合った時に少なからず被害に遭ったらしい。
美男美女のお似合いカップルだったけど、万人から祝福されたわけじゃない。
ミシェルもうちのメンバーから相当僻まれていた。木下さんだって、同じようなことがあってもおかしくはない。
自分と私を重ね合わせ憂い顔をする木下さんを、メンバーが必死に慰めている。
「狭霧さん、濡れたのってっ……優衣の話は本当なんですか!?」
「いやぁ……まぁ、その…」
問い詰めるミシェルの顔がばりばりに強張っている。何とか誤魔化そうとしたけど、ちょっと難しそうだ。
「嫌がらせって言っても大したことなくて。この間はあまり使われてないB棟地下の女子トイレなんかに行っちゃったからさ……」
もごもごと言い訳、フォロー。
「うわぁ、お前あの曰く付きのトイレ行ったの? 勇気あんなぁ」
「あの学校七不思議の一つのトイレだろ。何か最近、井戸から出てきたような青白い顔のずぶ濡れの女がいたとかで、ますます怖がられてんぜ」
「いやぁ~私、怖いの平気だからさ。……と言うか、それ私じゃ?」
敢えてメンバーとの会話に意識を向けてみたけど、ミシェルに腕を掴まれているため難しい。
硬質な声と強張った顔で迫られ、えーっとですね……としどろもどろ。
普段穏やかな人が雰囲気を変えると結構な迫力だ。
「……狭霧さん、ちょっと外でお話し出来ませんか?」
「えー…えーっと実は私、野々宮さんと待ち合わせしててさ。そろそろ時間……」
わざとらしく時計を見て、時間稼ぎ。
それは嘘ではなく、コンビニで建て替えて貰ったお金を返すために野々宮さんと待ち合わせしていた。
「それなら送って行きます」
有無を言わさずに部室から連行。お断り出来る雰囲気ではなく、大人しく待ち合わせ場所を言ってしまった。
野々宮さんより早く着きたくないので、牛歩。残念ながら牛歩の効果なし。
この間の話をしようと、使われていない教室を待ち合わせ場所にするんじゃなかった。
「僕のせいで、狭霧さんが嫌がらせを受けていると言うのは本当なんですか?」
「いや、ミシェルのせいってわけじゃ……っ」
空き教室のドアを後ろ手で閉めながら、ミシェルが単刀直入に切り出した。
「本当なんですね」
「……その…ちょっと…」
迫力負け。
気まずげに顔を逸らしつつ白状すれば、ミシェルが悲しそうに顔を俯かせた。
「言ってくれなかったのは、僕が頼りないからですか?」
「ちがっ、頼りないとかじゃなくて、その……本当に大したことなかったし、ミシェルきっと気に病むだろうな……と思ったからで……」
ミシェルが気にするほど大したことはなかった。
陰口や悪口なんて聞き流せばいいし、不幸の手紙だって読むだけで返事するつもりはなかったし、足を引っ掛けられそうになっても、通りすがりにぶつかられそうになっても、それを避ける反射神経はあったし、本当に大きな被害はなかったのだ。
水をかけられたのは、完全に私の不注意が招いたことだ。
使われてないトイレになんて行かなければ、避けられたことだった。
そう一生懸命説明したけど、ミシェルは益々悲しそうに顔を曇らせた。
「あの、ごめん。もうちょっと気を付けるから」
「そうじゃないんです、狭霧さん」
ミシェルは肩を落として小さく首を振った。
「嫌がらせに気付かず、相談すらされなかった自分にがっかりしているだけです」
「えっと、あの、それは……」
嫌がらせはミシェルがいないところで行われていたから気付かなくても仕方ない。
加えて女の子はミシェルの前では虫も殺せないような特大級の猫を被っていた。
そうフォローしても、ミシェルは俯いたままこっちを見てくれなかった。
「あんたら、今度はまた何を揉めとんのや」
がらっと入ってきた野々宮さんが、いつもと変わらない様子で教室に入ってきた。
その事にほっと安心してしまう。
ミシェルは野々宮さんが来たからか、力なく会釈して教室を出ていこうとしたけど、野々宮さんがそれを止めた。
「何や、深刻そうやん。うちのことは気にせんで話続けたって。うちは隅で聞いとるから」
「聞くんかい」
野々宮さんの目が好奇心に溢れている。
でも凹み方が半端ないミシェルとこのまま別れたくなくて、もう少し周りを警戒することと、何かあったらミシェルに言うことを約束してみた。
それでもミシェルは寂しげな笑みを浮かべていて、うぅっと胸が痛くなってしまう。
いつも爽やかに笑っている優しいミシェルのそういった表情を見るのは凄く嫌だ。
「いつだって僕は情けないことばかりしていますね……」
「いや、そんなこと」
ないんじゃないかなぁ~と言おうとした途中で、ミシェルにそうなんです、と沈んだ声で遮られた。
まずい。ミシェルが物凄くネガティブになっている。
「伊豆の時もそうでした」
「へ? 伊豆? 夏合宿の??」
今の状況と夏合宿との関連性が全然見えない。内心首を傾げながらも、片桐さんの不器用な仲直り大作戦を思い出し、苦笑してしまった。
「あの飲み会の夜、狭霧さんにベタベタ触ろうとしていたM大の人、覚えていますか?」
「……? そんな人、いたっけ…?」
ミシェルの言葉に眉が寄ってしまう。
有岡先輩と片桐さんに気を取られていたから、他の人の動きはそんなに見てなかったけど、うちのメンバーは勿論のことM大の部員も木下さんの気を引こうと躍起になっていた。
私に注意を向けるような奴はいなかったと言い切れば、いたんですよ、と。
「手相を見てあげると狭霧さんを傍に呼ぼうとしていた男の方、分かりませんか?」
「うーん……いたかなぁ?」
あまり記憶はないけど話を進ませるために、いたかも…と言ってみる。
私が覚えていないのはバレバレだったようで、ミシェルは緩く笑った。
「僕はその事に気付いていたけど、何もしなかった。あなたのことは、有岡先輩が目を光らせていたし、僕は優衣をガードするのに手いっぱいだった。でもその夜に有岡先輩に言われたんです」
野田を好きだと言うなら、野田を守れ。
せめて迷う素振りは見せるべきだったな、と。
「僕はあの合宿の時には既に、あなたに特別な思いを持っていました。けれど、有岡先輩のその言葉は気持ちを伝えるのを留まらせた。先輩の言葉はもっともだったから」
ミシェルはそこで言葉を止めて、俯きながらくるりと背を向けた。
「今なら僕は間違いなく狭霧さんを選びます。前よりもずっとあなたを好きになって、相応しい男になりたいと思って……ですが僕は何一つ変わってないし、あなたを守れていないと今回のことで思い知ったんです」
ミシェルの背がちょっと震えているのに気付いて、狼狽える。
背を向けているので分からないけど、泣いているんじゃないかと焦る。
「もっとずっといい男にならなきゃダメですね、僕……」
背を向けたまま出ていこうとするミシェルを引き止めようと手を伸ばしたけど、野々宮さんに止められた。
「野田っち。ストップ。止めといたって」
教室のドアに寄りかかっていた野々宮さんからは、教室を出ていく時のミシェルの顔がばっちり見えたんだろう。
嫌がらせのことを言わなかったのは、優しいミシェルを傷つけたくなかったからだった。でも結果的に、泣きそうになるほどのダメージを与えてしまった。
「あんな完璧な王子でも恋っちゅーの思い通りにいかへんもんなんやな」
どよーんと凹んでいる私の横で、野々宮さんが呟いた。
恋愛は思い通りにいかない。確かにそうだ。
あんな真っ直ぐに気持ちを向けてくれるミシェルに、同じ思いを返せれば、と何度も思った。
私がミシェルを好きだった時に、ミシェルの気持ちは私になくて。
ミシェルが私を好きになってくれた時には、私の気持ちは違うものに変わっていた。
本の少しタイミングがずれていれば、重なったはずだった。
「王子も次の恋に目を向けられたら、楽やのになぁ。うちはそうするつもりやで」
「ん?」
ミシェルのことを考えていたため、反応が遅れてしまった。
野々宮さんは明るい声で
「次の恋に行くんや」
きっぱりと宣言した。
おぉぉぉ? と困惑する私を置いて
「せやから野田っち、うちのことは気にせんでええよ」
すっきりとした笑顔を見せると、ぽかんとする私を置いて教室を出て行った。
何の心境の変化か、野々宮さんは水原のことをすっぱりと諦めることにしたらしい。
「……」
恋愛って難しい。
そう一人呟いた言葉は、誰もいない教室にぽとりと落ちて転がった。