アクシデント
後期試験が始まった。
この日は単位取得が最も難しいと言われる簿記の試験だった。しかし六月の検定時に水原の家庭教師付きでみっちり勉強したので自信がある。
ケアレスミスさえ連発しなければ、単位は取れるだろう。
午後の簿記の試験に備え、午前中は部室で最終確認。
お昼は、集中力が出そうなスタミナ丼を食べた。
それから部室に戻って、試験用具を回収。
さて、頑張るぞと試験教室の席に着いたところでトラブル発生。
なんと、電卓が全く反応しない。
「……っ!!!」
え~っ何でっ!! と焦って電源を連打。それから闇雲にボタンを押してみたけど、うんともすんとも言わない。
教卓脇の時計にとっさに目をやりながら、動かなくなった電卓をバンバンと叩く。
午前中は何ともなかった電卓が、数字を表示しなくなった。
あと十分で簿記の試験が始まってしまう。そんな危機的状況に、頭が真っ白になる。
どんなに勉強したとしても簿記の試験に、電卓なしに挑むのはエベレスト登頂に短パンとビーサンで挑むようなものだ。
百パー死ぬ!
あわあわとしている私に気付き、同じく簿記を履修しているメンバーが話しかけてきた。
「野田、お前なんで電卓持って踊ってんの? そろそろ担当教官が来るぜ」
「壊れたんだよっ!」
「「「マジでっ!?」」」
緊急事態に気付いたメンバーが
「電池切れじゃねぇーの?」
「入れなおしてみろよ」
言いながら、接触を確認するけど直らず。そもそも電池は二日前に切れ換えたばかりだ。
「電池が不良品だったんじゃねぇの?」
「でもさっき部室で勉強していた時は何ともなかったんだよっ!」
どうするんだよ? どうしよう? 落ち着けよ、落ち着けるかと無意味なやり取りで時間を浪費する。
「俺ら、ダチに電卓持ってないか聞いてやるよ」
「だけど時間的に厳しいかもしんねぇーぞ」
携帯電話を持って廊下に向かうメンバーを、望みをかけて拝む。
私も何人かに連絡を取ったけど、誰も電卓は持ってなかった。
昨今電卓機能が付いていない携帯電話などないから、あえて電卓を持ち歩く奇特な人はいないようだ。
そもそも学校にすら来ていない友人にばかりに連絡してしまった。
テスト期間は履修しているものがなければ、家で勉強に励むのが当たり前の選択だ。
「俺、電卓もう一個持ってっけど……」
廊下で電話をかけていたメンバーが戻って来て、希望ある言葉を呟いた。
それを拾い、ばっと顔を上げる。
「えっ!? 貸して貸してっ!」
「でもこれちょっと問題あるんだよなぁ」
「良いよ。ちょっとくらい!」
少しくらい使いづらくても、途中で表示が消えようが反応が遅かろうが、ないよりはましだ。
貸して貸してと手を出して、せがむ。
「これ、キータッチ音が消せねぇんだよ。それでもい」
「いいわけあるかっ!」
試験中にぴっこぴこ鳴らしていたら即座に退場させられる。ぬか喜びさせやがって~っ! と解決策を見いだせないでいるうちに、担当教官が前から入って来た。
……終わった。
がっくりと肩を落として項垂れる私に、暗算で行けっ! インド人だ、インド人になりきるんだっ、ナマステっと無理なアドバイスを飛ばしてメンバーは席に戻った。
暗算で出来るわけがない。計算自体は難しくはないが、桁数が半端なく多いのだ。
問題用紙が回って来たので項垂れたまま、それを後ろに回す。
単位を一つ落としたからと言って、卒業できなくなるわけではない。でも成績に不可が付くのは、就職先に提出する関係上避けたかった。
問題用紙が全生徒に行き渡るのを待つ間、無意味にかちゃかちゃとシャーペンの芯を出し入れする。
はぁとため息で問題用紙が飛ぶのを手で押さえながら、それでも繰り返し諦めの息をついていると、控えめに背中を突かれた。
「……?」
ちらっと後ろを見れば、知らない女の子が電卓を差し出してきた。
「これ、野田さんって人まで回してって」
後ろから回って来たよ、小声で伝えられた内容に目が輝く。ありがと! と礼を言って、前に向き直る。
誰だか知らないけど、助かった。
メンバーが連絡を取ってくれた誰かが、届けてくれたようだ。打って変わってやる気漲らせて、試験に臨んだ。
試験終了後、助かった、今度奢る、と熱く礼を言いつつメンバーに電卓を返そうとすれば
「俺のダチじゃねぇーぞ」
「俺も違うけど?」
全員に否定された。
「へ? じゃ……これ誰の?」
お前のダチじゃねぇの? と言われたけど、私が連絡を取った子はみんな学内にいなかった。
「……???」
その友人の友人とか? と思ってかけた子に聞いてみたけど誰も心当たりがなかった。
結局誰のものか分からない電卓が、そのまま手元に残された。