バレンタイン(後編)
待ち合わせ場所に指定された空き教室に入ると、有岡先輩だけでなくミシェルもいた。
私に気付かず2人は何やら言い合っている。
何してるんだろ?と思いながら近づく。
「何やってんですか?」
「野田」
「狭霧さん」
有岡先輩はどこか苦い顔をしている。
いつもの悪ふざけとはちょっと違う雰囲気の悪さに首を捻ってしまった。
「ミシェルもどうしたの?この時間、ゼミじゃなかったっけ?」
「そうなんですけど、有岡先輩が使う予定のない教室に入るから何だろうと不思議に思いまして」
ミシェルはにっこり笑ってそう言ったけど、ゼミを休むのはまずい気がする。
ミシェルは目立ってるから、不在がすぐにばれてしまうだろう。
「でも狭霧さんに会えて丁度良かったです。渡したいものがありました」
ミシェルが箱を差し出してくるので、リボンを解いて開けてみる。
箱の中にはバラをモチーフにしたチョコレートが入っていた
「うわぁっ!かわいいっ」
チョコの香りに混じって、ほんのりバラの香りが漂う。
まるで本物の花びらのように、薄いチョコが繊細に重なって、バラの引き立て役であるリーフにも、細かな意匠が施されていた。
芸術品としか言いようがないチョコレートだ。
「これっ!貰っていいのっ!?」
疑問系で言いながらも、ぎゅっと箱を握り締める。
固い箱がめきょっとへこんで、慌てて力を抜いた。
「もちろんです」
ミシェルがふんわりと笑った。
再度バラのチョコレートを見て興奮してしまう。
バラの咲き加減も違いがあり、蕾や5分咲きもある。
色も、白と黒とピンクの3種類。
「フランスのバレンタインは、男性から女性に花を贈るものなんです。でも狭霧さんは花に興味がないので、こちらにしました」
バラの花びら1枚1枚色が違う。
カカオの含有率を変えて、微妙に色を変えているんだろう。
緑のリーフには抹茶が混ぜてある。
細部まで拘って、道管、師管の葉脈まで表現されている。見たことがない芸術的なチョコレートに、興奮が抑えられない。
ジャンプは我慢したけど、軽く踵を上げ下げしてしまった。
メルシーっ!と言えば、ツエシ、ミヨンヌとフランス語で返ってくる。
分からないけれど、話の流れから“どういたしまして”だろう。
「…それはミシェルから野田へ、義理チョコだそうだ。フランスでも最近流行ってるらしいな、義理バラ」
「へ?」
そんなのあるの?
何だか宝塚で有名な作品に響きが似ている。
ミシェルが何か言いかけた時に、全員の携帯が一斉に着信。
2人はちゃんとマナーモードにしていたけど、私は通常モードにしていた。
シーンとした教室にGonna fly nowの耳につく音が響く。
携帯の画面を見れば、サークルのメンバーの名前が表示されている。
2人の様子を見れば、どうも発信先は同じ固まりだと分かった。
ミシェルか先輩が取るだろうと放って置いたら、2人も同じ考えだったらしい。
着信が切れた後、メールを受信。
【去年の悪夢再び…】
【今年もまた…何もない…木下さんもいない…】
哀愁が漂うメールを次々受信。
「そもそも後期試験終わったばかりで、木下さん今日学校に来るの…?」
「さぁ?僕は今日、会ってません」
「俺は朝、部室で会ったきりだから、今どこにいるかは知らんぞ」
部室で体育座りして、メールを打っているメンバーが目に浮かぶ。
またGonna fly nowが鳴り、仕方がなしに電話に出る。
「野田~今どこにいるんだよ~」
ぎゃーぎゃー後ろがうるさいので、声があまり聞こえない。しかし焦っている感じなのは分かる。
「今?A棟の305号室だけど」
「すぐに来てくれよ~!チョコ貰えなかった奴らが自棄を起こしてんだよ。俺は義理チョコ1個貰ったんだけど、そのせいで袋叩きにあったしっ。平成の大チョコ飢饉とか言って、チョコ会社への打ちこわし計画するほど我を失くしてるやついるし」
「いや、チョコ不作なのは天候のせいじゃなくて、自分のせいじゃん」
ともかく来てくれと言われたので、へいへいと了承し、電話を切る。
先輩とミシェルも電話に出ていた。
先輩は、わーわーけたたましい嘆きが聞こえるスピーカー部分から耳を離しながら、器用に会話している。
ミシェルは困った顔をしながら、それは止めてくださいとしきりに宥めている。
漏れ聞こえてきた会話から状況を察するに、モテ男になるためのマニュアルを、部室で燃やそうとしているメンバーがいるらしい。
それは止めろ、火事になったらどうする。
「ちょっとコンビニ行って、チョコでも買ってきます」
甘いものでも食べれば気が紛れるだろうと、財布の中身を確認する。500円あれば足りるだろうと思ったけど、財布の中には200円しかなかった。
乏しさにびっくりした。
「200円でもお徳用のチョコ買えますよね?」
「まさかそれしか持ってないのか?」
「今日はたまたまですよ。普段はもうちょっと入ってます」
流石に所持金が千円切るのは滅多にない。最近はトリュフを作るのに夢中になっていたので、寄り道をせずに真っ直ぐ帰宅。
そのため財布の中身を確認していなかった。
「野田、何か忘れてないか?」
有岡先輩がポケットに突っ込んでいた手を差し出した。
当初の目的を思い出し、コンビニに行こうとした足を止める。鞄の中から袋を取り出したものの、そのまま動きを止めてしまう。
ミシェルの分がない。
ホワイトデーにお返しをすれば良いと思うけど、有岡先輩にだけチョコを渡すのは感じ悪い。
しかしチョコがない。
その場で交換していた友チョコの予備は水原の手に渡った。
うーっと苦渋の決断で、袋を先輩に渡し、ミシェルには抜いた2個のチョコを渡した。
トリュフはキャンディみたいに1個ずつ包装してるから、袋がなくても見栄えはすると思うけど、むき出しといえばむき出し。
「これは、狭霧さんが作ったんですか?」
「うん。ママと一緒にだけど」
ミシェルは嬉しそうにチョコを受け取り、有岡先輩も袋を見て嬉しそうだった。
喜んでくれるのは嬉しいけど、自分用のトリュフがなくなったのはやっぱりダメージ。
駄目元で再度作ってみるかと思いながら、コンビニに寄ってから部室へ向かう。
入る前にミシェルから貰ったチョコを厳重にガードする。
寒いけどマフラーを外して、箱をぐるぐる巻きにした。
ちょっとの衝撃で割れてしまう可能性があるチョコを、自棄になっているメンバーがいる部室には持ち込みたくないのだが、この場合は他に選択肢がない。
バリバリに警戒しながら、部室のドアを開いた。




