風の音・1
はじめて隼人に会った時、なにかに似ていると思った。それが何なのかずっと考えていたけれど、一緒に暮らしはじめて半年たって、それがわかった。
僕が育った家の隣に住んでいたエリちゃんの飼い犬、ロンだ。
ロンは黒いラブラドールで、立ち上がったら僕よりはるかに背が高くて、でかいくせに甘えん坊で、いつも僕やお母さんやエリのすることをじっと見ていた。
そしてこちらがロンに関心を示すと、大きな尻尾をこれでもかと左右に揺らしながら近づいてきて、今みたよね、今俺のことみたよね、と、自己主張を始める。
いたずらをして叱ると、大きな体をちいさくちいさく丸めて肩を落とし、ぼろ布をかぶって隅っこでいじけてしまう。
隼人は、ロンに似ている。
僕は母親をなくしたばかりで日本にきて、新しい家族と暮らすことになった。はじめは何もかもが敵にみえて仕方がなくて、お父さんのことも、涼子さんのことも嫌いだった。
隼人のことだって、大好きだったロンに似ているというだけで、好きか嫌いかなんてことは全くの別問題だった。
だけど隼人は僕にとても優しかった。もちろん涼子さんもお父さんも僕に優しくしてくれたけれど、隼人のそれは特別だった。いつも僕を気遣ってくれて、いつもいつも僕のいいようにしてくれる。
淳の弟の智也によれば「甘やかしすぎ」らしいけど、僕にはそれがとても心地良かった。淳も色々と智也の面倒を見ているのを知っていたけれど、隼人ほどじゃなかった。
そうして改めて思い返してみると、隼人は朝から晩まで僕の世話を焼いているように思える。
朝は僕が起きるまで何度でも根気よく起こしに来るし、学校へは一緒に行って、教室まで送ってくれる。帰りは僕が涼子さんとふたりきりになりたくなくてふらふらしているのを、迎えに来てくれる。
夕食はいつも僕の嫌いなものをチョイスしてじぶんの皿に避けて、魚の骨を取り、お風呂上りには髪だって拭いて乾かしてくれる。僕はそのあいだに隼人がいつも用意してくれている冷たい飲み物を飲んでいる。
改めて智也にそれを話してみたら、ずいぶんと気持ち悪がられてしまった。「それ、異常」だそうだ。
隼人に、智也から言われた一言をそのまま伝えると、ものすごく複雑な顔をして部屋に引っ込んでしまった。どうやら僕は、まずいことを言ったらしい。
「はーやと。ごめんって。ここ開けてよ」
ドアをノックすると、部屋の隅で小さくなっているであろう隼人は小さな声で「あいてる」と呟いた。
一応遠慮しながらドアを開けて中を覗くと、ベッドの上で頭から毛布をかぶった隼人と目が合った。思わず「ロン」と呼びそうになって、慌てて口を閉じた。
「ごめん、でも悪気があったわけじゃなくて」
「いいよ。わかってる。でも俺、普通だと思ってたし」
毛布をかぶったままの隼人は、くぐもった声でそう言って体ごとむこうを向いてしまう。これは結構、めんどくさい。
「俺こーいう性格なんだから仕方ねーもん。俺が異常だってんなら母さんも異常だし、だって俺そういうふうに育ったし。てゆーか智也何なんだよ、いっつもいっつも俺に文句ばっか垂れやがってあいつほんとむかつく」
「うん、うん。僕別に嫌じゃないんだよ。ただね、あんまり甘やかされると僕、わがままな大人になっちゃう」
どっちが年上だかわからない。丸まった猫背を撫でながらそう声をかけると、隼人は「うー……」と、低く唸った。これ、捲ったら本当にロンが出てくるんじゃないだろうか。
「せめて、魚の骨は取らなくていいよ」
「え、だって危ねえだろ。喉に刺さったらお前、病院でピンセットだぞ」
思わず病院の診察室で医者にピンセットを使って喉をいじられている自分を想像して気持ちが悪くなる。ごくりと唾を飲み込んでから、毛布を剥ぎとった。
「隼人! ね、僕もうすぐ六年生だし。もう結構ひとりで何でもできなくもないんだよ。隼人の気持ちは嬉しいけど、少し抑えてくれると」
「兄弟なんだからさ。ちったぁ甘えろよ。お前、弟。俺、兄貴。わかる?」
なんでこう隼人は甘いくせに強引なんだろう。本当にロンの生まれ変わりだと言っても信じてしまいそうだ。ロンはまだ生きているはずだけど。
「じゃあさ、じゃあ、朝教室まで送るのは、それだけでいいからやめて」
「えっ」
隼人は中学生で、僕は小学生。授業の開始時間が中学の方が数分とはいえ、早い。いくら校舎が隣にあるといっても、ぎりぎりの時間に家を出て僕を教室まで送る隼人は、たいてい遅刻しているはずだ。
先日隼人の担任の先生から電話があった。涼子さんがまだ帰っていない事を伝えると、深い深いため息が返ってきた。
それで無理やり事情を聞いてみたら、あまりにも遅刻が多すぎてこのままでは内申書に響く、とこぼされた。なにも言えずに電話を切ると、翌日学校から帰った隼人は頭を抱えていた。
「隼人、先生に叱られたでしょ。知ってるんだよ。僕のこと大事に思ってくれるのは嬉しいけど、ものごとには優先順位ってものがあってね、まず自分がちゃんとやらなきゃいけないことをやってから」
「わかった。じゃあ、それだけやめる」
「それだけ……」
「朝送るのだけはやめるけど、あとは許せ」
毛布を剥ぎ取られた隼人はそう言って、下から僕を睨む。睨むとこじゃないだろ、と思いながらも、ここで引かなかったらもっと面倒なことになると予感して、ひとまず頷いた。
それにしたって僕もたいがいおかしい。こんなふうにしてやめてくれと懇願しながらも、どこかでやめないで欲しいと思ってしまっている。
「よし。契約成立。だけどヒロ、学校で困ったことがあったらすぐに俺に言うんだぞ。あいつさ、あいつ。智也にさ、いじめられてないか? あいつ余計なことばっか言うから」
隼人は毛布をベッドの隅に寄せて、僕にもっと近くに座るよう促す。いちど解放されたように伸びをして、せっかく伸ばした背中をまた丸めて、僕を覗きこむようにしてそう言った。
隼人と智也は出会った当初からどういう訳だか仲がわるい。目を合わせれば睨み合い、口をきけば文句を言い合う。淳も僕もいつもあきれかえってそんな二人を見ている。
本当は仲がわるいわけじゃなくて、じゃれあっているだけなんだろうけど。
「大丈夫だよ。智也はまあ、余計な事は言うけど間違った事は言わないから。人をいじめたりするような奴じゃないし」
「じゃあなんで智也はいつも俺に噛み付くんだよ」
それは隼人が先に噛み付くからじゃないかな、と言いかけてやめた。それはあいつが気に入らない顔してるからだ、とか、不毛なこと言われておわるんだ、どうせ。
「それはほら……、とりあえず隼人年上なんだし、ね。そこはちょっと我慢しようよ」
「えええ」
「ね? ほら隼人、いいこいいこ」
思わずロンにしていたみたいに、頭をぐちゃぐちゃに撫でた。「お手」って言わなくてよかった。隼人はますます複雑な顔をして、それから、ふにゃっ、と笑った。
「あはは。面白い顔!」
「しばくぞてめぇ」
僕は隼人の、こんなふうに幸せそうにわらう顔が大好きなんだ。思わず楽しくなってからかってしまって、結果隼人を怒らせてしまうけれど。
「ヒロくん、隼人、ごはんよー!」
階下から涼子さんが僕らを呼ぶ声がした。隼人と目を合わせて、競争みたいにベッドから飛び降りた。
「いこ、隼人」
「あー、腹減った。すげーいい匂いする。なんだこれ」
僕は日本に来てからいつも楽しくて、毎日幸せで、そりゃ複雑な事情はあるけれど、いつか隼人が言ったように本当にそんなこと僕らには関係ないんじゃないかと思えてくる。
だけど時々。時々これは夢なんじゃないかと思ってしまう。
このかたく閉じた目を開けてしまえば、薄いまぶたに覆われているそのむこうに広がる現実に打ちのめされてしまうんじゃないかと不安になる。
それならいっそ、何も知らないままでも目を閉じていられたら、とも思う。そんなことを本気で考えてしまうほど、僕は弱虫なんだ。
それから、僕がここにいる理由に立ち返ると、胸の奥に言いようのない罪悪感のようなものが広がってしまうんだ。もし母が生きていたとしたら、僕はここにはいなかったはずだから。
あんなふうに事故にあって死んでしまって、それでもここで幸せだと笑っていられる自分への、自責の念に押しつぶされそうになる。
すこし前隼人に、涼子さんを「お母さん」と呼んでみたらどうか、と言われた事がある。強制はしないし、呼べないなら呼べないでいいけど。そう言ったあと僕を見て困った顔をして、すぐに話題を変えてしまったけど。僕はよっぽど複雑な顔をしていたんだろう。
僕が涼子さんを「お母さん」と呼べないのはきっと、こんなふうに幸せだと思ってしまう自分への戒めの意味もあるんだ。
ずいぶん身勝手だけど僕は、この感情をどうすることもできないでいるんだ。それはたぶん、これからもずっと。