春の音・7
翌朝は気持ち悪いくらいによく晴れていた。朝食を終え、ヒロとふたり母に見送られて玄関を出る。ヒロは新品の黒いランドセルを背負って、手を振る母にちいさく頭を下げた。
「学校、こっち」
「あ……、はい」
きょろきょろと辺りを見回すヒロを顎で促すと、遠慮がちに後をついてくる。
胸のあたりにとりつけた名札には「芹川ヒロ」と書いてある。今しがたダイニングで顔を合わせた父は、今月中には籍をいれる予定になっていると言った。
すぐに手続きをするのなら篠崎の姓を名乗ってもいいんじゃないかと思うんだけれど、ヒロが複雑な顔をするんだそうだ。たかが名前、だとは思うけれど、ヒロにとっては一大事なんだということは理解できる。
「道、単純だからすぐ覚えられるよ、多分」
「はい」
俺の革靴と、ヒロのスニーカーの靴底がたてる足音だけが響く。この辺りは学校に通うような歳の子どもがあまり住んでいないらしく、早朝はいつも静かだ。
俺たちふたりの足音が近づくと、ちいさな鳥が羽音をたてて慌てた様子で飛んでいく。
ひとつめの角、ふたつめの角、と説明しながら進んで、学校近くの土手沿いの道まで出た。新緑の葉桜が並び、斜面を覆い尽くす菜の花の黄色と一緒に、まだ少し肌寒い風に揺れる。
「こないだまで桜咲いてたんだけどな。ここ、すげー綺麗なんだぞ」
「見てみたかったです。綺麗でしょうね」
葉桜を見上げてヒロが目を細める。ヒロの住んでいたところにも、桜はあったんだろうか。
「雨さえ降らなきゃまだ残ってたんだろうけど。まぁ、来年また見れるだろ」
「花散らしの雨」
「え?」
不意にヒロがぽつりと口にした単語の意味が理解できなくて、聞き返す。ヒロは俺を見上げ、真っ直ぐに目を見る。名札が朝のやわらかい光に照らされてきらきらと光った。
「花散らしの雨って言うんですよね。桜がちょうど満開になった頃に降る雨」
「お前、よく知ってるな、そんなこと」
「母が……、ええと、僕の母が、言ってたんです」
そう言ってヒロは困ったように眉を下げる。そうか、ヒロにとっては、俺の母さんは母さんじゃない。それは、そうだ。
「ごめんなさい」
「謝ることねえよ。謝るなよ。いいんだよ、そんなことは……それより、ヒロ」
「はい、お兄ちゃん」
昨日の夕食の席で言いそびれた事を、昨日思い浮かべたままに口に出してみる。
「あのさ、お兄ちゃん、っての、やめない?」
言った途端ヒロはほんの少し目を見開いて、俺の目を見た。強くて真っ直ぐな、視線。そうだ、思い出した。この目。
「でも」
「隼人でいいよ」
あの日あの公園で。そうだ、俺はこいつを見たんだ。
小さな雨の降るあの公園で、ヒロは歌っていたんだ。まるでなにかの儀式のように。
「えっ……」
「いーから! はい、呼んでみ? はーやーと! 」
復唱を促して、はい、と手を差し出すと、戸惑うように俺の手と顔を見比べて眉を下げる。口元がもぞもぞと動いて、ゆっくりと「あ」のかたちになる。
「は、はや、と」
「もっかい!」
初めて俺の名前を呼んだヒロはなんだかぎこちなくて、ヒロが初めて呼んだ俺の名前はなんだかくすぐったかった。あのうたを歌ったときと同じように、優しい声で。
「隼人」
「うし、それでいこ!」
こんどはちゃんと呼べたから、嬉しくなって思わず頭を撫でた。やわらかな髪が、てのひらから指の間をながれる。ヒロは驚いたように目を丸くして、ぽかんと口を開けた。そのままの顔で固まったから、なにやってんの、行くよ、と声をかける。ヒロは慌てて口を一文字に結んで大股で歩き出した。
「そんな急ぐとコケるぞ」
「コケません」
大股のままどかどかと先を歩き出したヒロの背中に、思わず笑ってしまう。ヒロは不本意だと言わんばかりの声でそう言い捨てて先を急ぐ。
「可愛くねぇなお前」
可愛くない、と言いながら可愛いと思ってしまうのは、きっとこいつが図らずも俺の弟という立場だからで、薄手のシャツを着た細い肩と、ハーフパンツから覗く頼りないくらいに細い足が妙に擁護欲をかきたてる気がするからで、それでもって俺の中の父性本能のようなものが見え隠れしているからであって。
自分にわけのわからない言い訳をしながら、ヒロのうしろを歩く。ヒロは時々俺を振り返り、時々蹴躓きそうになりながら頼りなく歩く。
「あの、隼人」
「なに」
不意に立ち止まったヒロにぶつかりそうになって、よろける。何とか体勢を整えて振り返ったヒロを見ると、腑に落ちない、と顔に書いてあった。なにがだろう。
「僕のこと、嫌いじゃないんですか」
「……は? なんで?」
ヒロはその顔のまま、すこし俯く。目に入りそうなほど長い前髪が、木の葉を揺らす風の音と同じリズムで揺れる。
すこし逡巡したあとヒロは、自分のシャツの襟元をぎゅっと掴んで、口を開いた。
「だって……、お父さんの、あ、アイジンの子ども、だし」
アイジン。ヒロの口からそんな単語が出てきたことに違和感しかなくて、頭の中で変換に時間がかかった。誰かにそう言われたのか。
「アイジンて……、まぁそーゆー事情はさ、別にヒロにも俺にも、言っちゃあなんだけど関係ねぇし」
誰がどこでどんなふうにヒロを産み、育てたとしてもヒロはヒロで、俺は俺でしかない。そして俺たちは間違いなく、きょうだいで。
「関係、ない」
「そう。あ、でもあれだぞ? ヒロのお母さんはヒロのお母さんだし、俺にとっても母さんは母さんだし。なんかもー俺、考えるの疲れたから、とりあえず俺らは兄弟なんだし、いーんじゃね?」
葉桜を見上げながら一息にそう言ってヒロを見下ろすと、 ヒロはまた困ったように眉を下げ、眉間にしわをよせた。
「……ええと、つまり、気にするなって事ですか?」
「そゆこと。俺、脳みそ使うの得意じゃないの。バカだし。お前頭良さそうだから考えちゃうんだろーけど、俺らは兄弟。もー、それで良くねぇ?」
こてん、と首を傾げたヒロにそう言ってわらいかけると、ヒロは一瞬視線をうろうろさせてから、二度、頷いた。
「良く……、良い、いいと、思います」
「な? そゆことで改めて、よろしくな?ヒロ」
こんどは俺のほうから、手を差し出した。ヒロは躊躇いがちに俺の手を取り、ほそい指にすこしだけ力を込めた。
「ついでにあれだな、敬語もナシね!」
「ええっ」
土手沿いの道はそのまま行けば中学の裏門にぶつかる。そこを左に折れてすこし行けば、小学校の正門が見えてくるはずだ。
ヒロの小学校まで送るつもりだったけど、校舎に取り付けられた時計を見上げたら、のんびりもしていられない時間で。
「じゃー俺こっちだから! お前のガッコ、そっちね! わかる?」
「わかりま……、わかる!」
じぶんの学校とヒロの学校を交互に指差すと、ヒロはぶんぶんと首を縦に振る。にやっ、と笑って見せると、ヒロも笑った。まだ、ぎこちないけれど。
「おっけ! じゃね!」
「あの……、隼人!」
正門を潜って手を振ると、ヒロは門と道路を隔てる線を律儀に守って立ち止まる。その様子が微笑ましくて思わず笑ってしまいそうになった。
「なにー?」
「……また、またあとで!」
ヒロは躊躇うようにそう言って、照れたように笑った。そうして片手をあげ手を振って、ランドセルを揺らしてかけていく。
「おー、また後でな!」
長いフェンス越しにそう返したけど、ヒロは振り返らず走る。あの雨の公園を走って出ていった背中とかさなる。けれど今はすこし違う。ヒロがあの時なにを思っていたのかはわからないけど、なにかが違うんだということは、わかる。
そして、俺のなかの何かが少しずつ変わっていくのも感じていた。それが何なのかはまだ、見えないけれど。
第一章「春の音」完。
次回からは第二章です。