水の音・17
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「智也! 写真撮って!」
「おう、任せろ!」
高校時代の友人の結婚式のため、と称して日本へ一時帰国した。結婚式なんて親の知り合いのものしか出席したことがなかったから退屈なものだと思い込んでいたけれど、友人のそれとなると話は別なんだということがわかった。
高校時代におなじ教室で机を並べ、腹を割って悩みを打ち明けあった友人の晴れの日というのは、やっぱりぐっと来るものがある。
張り切って持ってきた大きな一眼レフを構え、三脚を立てる。久々に大集合した友人たちの笑顔をフレームに収め、にぎやかな列に並んだ。
空は快晴で、小さなまるい雲がぽっかりと気持ちよさそうに浮かんでいるのが見えた。
「だから、兄貴も帰って来いって。隼人とヒロも来るって言ってるんだし、どうせなら集まって飲もうって」
『行きたいのは山々なんだけどね。どうしても抜けられない用があるんだってば。どうせこっちで暮らしてるんだから、そのうち会うこともあるよ』
「そんなこと言って、二人揃ってんのまだ見てねえんだろ。聞いただろ、兄貴だって」
実家の長い廊下は相変わらずぴかぴかに磨き上げられている。運転手兼お手伝いとして長年勤めてくれていた立川さんが四年前に退職して、その後に来てくれている楢橋さんが毎日丁寧に磨き上げてくれているお陰だ。仕事は丁寧だし、物腰も立川さんに負けず劣らず、柔らかい。俺が時々こんなふうに実家に帰って久々に顔を見せると、決まって嬉しそうに、お帰りなさい、と手を取って喜んでくれる。
ずいぶん前に別れた奥さんとの間に俺と歳の変わらない息子がいて、長いこと会っていないそうだ。だからなのか、俺を息子のように思ってくれているらしい。
『聞いたけど。何だかんだで時間が合わなくてね。別々には会ってるんだけど。また年明けてこっちに戻った時にでも声かけてみるよ』
「そうしてやってよ。……兄貴まさか、二人が一緒に暮らしてること良く思ってないとかじゃないよな」
『まさか。良かったと思ってるよ。まあ、心底手放しで喜べてるって訳じゃないけどね』
もう十年近くも前、隼人のヒロに対するただならぬ感情を知った。俺も兄貴も戸惑ったけれど、あまりに真っ直ぐな隼人の感情と、そんな隼人を静かに想い続けるヒロの姿になにも言えなくなってしまったんだ。
正直、いつか消えるものだと思っていた。いつか思い出になって、妙に気まずい過去として俺たちの脳裏にくっついて離れなくなってしまうんだろうと、まだやってきていない未来の後悔を先取りしてはため息をついていた。
二人が兄弟だという事実は何年経っても変わらない。その事で二人が傷つく日が来ても、俺たちには何をしてやることも出来ないとわかっていたから。
「そりゃあ、言いたいことはわかるよ。だけどちゃんと喜んでやろうよ。俺たちくらいしか出来ないことだろ」
『智也の気持ちは二人にはきっと伝わってるよ。とにかく、俺がよろしく言ってたって伝えて。いつでも連絡待ってるって』
「……わかったよ。んじゃあな。兄貴も風邪ひくなよ」
『智也もね。あ、父さんと母さんにもよろしく伝えてて』
舌打ちして終話ボタンを押した時、庭の鹿威しが軽快な音を響かせた。靴下を脱ぎ捨てた裸足の足の裏、きゅ、と廊下が鳴る。踵を返して部屋に向かい、かっちりと着込んでいだスーツを脱ぎ捨てた。
結婚式の二次会に呼ばれていたけれど、参加はしなかった。そんな事より隼人とヒロに会うことの方が俺にとっては、大事なことだった。
二人は昨日の夕方にこっちに寄る予定になっていた。だけど昨日の昼過ぎに、友達の母親のお見舞いに行くから一日予定をずらして構わないかと連絡があった。ヒロの話によれば隼人が、どうしても、とごねたらしい。構わないと言った俺に、ヒロはほっとしたように、ありがとう、と言った。
最後になるだろうからやっぱり会っておきたいって。そう付け足したヒロの声。向こう側で、隼人の小さな咳払いが聞こえた。
そういう事は先に言えと言った俺に、ヒロは、そうだよね、と笑った。
以前ヒロと隼人が住んでいた家の前に、やけに大きな木が存在感を放つ小さな公園があった。待ち合わせはそこで、と隼人が言った。
楢橋さんが送ると言うのを断って自転車に乗ったのは、懐かしい通学路や商店街を見て回りたかったからに他ならない。だけど家を出て一秒で後悔した。寒い。
首に巻いたマフラーに顔を埋めて、両肩に力を入れてペダルを漕いだ。容赦無い北風が体中を攻撃して、涙目になりながら公園を目指す。
やっと公園に着いた頃には腹の底から怒りが湧き出して、こんな場所を待ち合わせに選んだ隼人を殴りたくて仕方なかった。
公園の脇に自転車を停め、四駆の軽自動車が停めてある辺りのフェンスを乗り越えて柔らかい土を踏んだ。ざわざわと風に揺れる大きな木の下、小さな声で歌う二人が居た。どうして、なにを考えてこんなところで歌っているんだ。
「おう、何やってんのお前ら」
「智也! うわー、元気? 怖いくらい変わってないね!」
「ヒロに言われたかねえよ。おう隼人、とうの昔にくたばったかと思ったぞ」
久しぶり、なんて言おうと思ってはいたけれど、顔を見たらやっぱり出てくるのは憎まれ口だった。内心ため息をつきながら隼人を見上げる。なにか文句を言われるんだろうと思っていた。だけど隼人は子供みたいに笑って、広げた両腕に思い切り抱き締められてしまった。
「ちょー久しぶり! 智也、このやろ! 生きてたか!」
「うぐぐ、苦しい、放せ! 死ぬ!」
「あはは。相変わらず仲良しだねえ」
「ちょ、ヒロ! この大型犬どけろ!」
「無理だよー。尻尾振ってるよー」
隼人とは高校卒業以来会っていなかった。あの頃より背が伸びたんじゃないだろうか。肩まであった髪を少し短くして、何だか妙に垢抜けたように見える。
ヒロと最後に会ったのは確か、ヒロが東京の大学に行く為に長野を出る直前だった。あの頃より少し、大人びたように見えないこともない。少し伸びた前髪を横に流しているせいだろうか。
「智也、いつも写メありがとうね。前に住んでた街とか、すごく懐かしい」
ようやく隼人から解放された俺は、ヒロと並んでベンチに座った。隼人は、俺の自転車に乗って近くの自販機まで飲み物を買いに行っている。ヒロがたったひとこと、なにか飲み物、と言った途端に頷いて走りだした。あいつは本当に犬なんじゃないだろうか。帰ってきたら頭でも撫でてやるべきなのか。
公園の入り口から、以前隼人とヒロが住んでいた家が見える。ヒロが出て行って少しして、隼人と涼子さんはあの家を出た。父親が会社から借りていた家だから仕方ない、と隼人は残念そうに肩を落としていた。
引越し先はここから少し離れた場所にある小さなアパートで、そこに掲げられた小さな表札に、少し胸が痛くなった。杉浦、と手書きの文字で書かれたそれは、何だかとても小さく頼りなくて。
隼人が高校を卒業してすぐに涼子さんが倒れた。隼人は進学を諦め、働きながら涼子さんの看病をした。友達としてなにか手助け出来ないかと連絡をしても、隼人からその返事が返ってくることはなかった。俺はそれを冷たいとは思わなかったけれど、少し寂しかった。隼人にしてみれば俺の気遣いは余計なことだったのかもしれない。
「ああ、あんなもんで良かったか? もっと上手く撮れたらいいんだけどな」
「充分。偶然だけど、僕が住んでた家もちょこっと写ってたんだよ」
「え、まじで? ほんとに? どれ?」
まじでまじで、とヒロは俺の言葉をオウム返ししながら、ポケットの携帯を取り出した。俯いて大量の画像とにらめっこしていたヒロはようやく顔を上げ、これ、と指差した。
道路に走るスクールバスがど真ん中にあって、写真の端とバスの僅かな隙間に水色の何かが見える。家の外壁だと言われなければきっと誰も気づかない。言われても、それはどうかなと首を傾げてしまうような。
「え、これ? ちょ、言えよ。もー。言えばもっとちゃんと撮るのに」
「だって智也、ここお休みの日に遠出したって言ってたし。なんか改めて頼むのもどうかなって」
呆れたことが伝わるように盛大なため息を吐きかけたら、ヒロは苦笑いを浮かべて俺を見上げた。俺相手になにを遠慮することがある。二次会を断ってここへ来たことを大声で隼人に言おうと思っていたけれど、やめておいたほうが良さそうだ。そんな事をすればこいつは、本当に申し訳なさそうな顔をして肩を落としてしてしまうんだろう。
「じゃあ今度また機会があったら撮ってきてやるよ。まあ、気が向いたらな」
「うん、気が向いたらでいいからね。ありがとう」
そう言ってヒロが笑ったとき、隼人が自転車ごと公園に戻ってきた。派手なブレーキ音をたてて、俺より足が長いということを主張したいのか両足を地面についてずるずると引きずり、止まった。かごの中にお茶のペットボトルが三本入っている。だいぶ揺れたのか、泡だらけだ。
「ちょ、お前自転車で入ってくんな! タイヤが土まみれになるだろ!」
「は? なに言ってんのお前。自転車ってのは汚れるもんだろうが。ヒロ、寒いからお茶な。ほら」
「ありがとう」
ヒロは差し出されたお茶を笑って受け取り、ベンチの自分の隣をぽんと叩く。俺にお茶を差し出しながら隼人は首を横に振った。
「俺ここでいい。な、智也。海行こう」
「は!? 海!? 馬鹿だろお前、冬の海ってな極寒だぞ! 行くなら一人で行け!」
なにを考えているんだ。こんな寒い日に海なんかに行けば凍えて死んでしまう。そう主張したら隼人は眉間に皺を寄せて、心底残念そうにがっくりと肩を落とした。
「うん、行こうか」
「よし行こう」
信じられないことにヒロは隼人の言葉を前から決めていたことのようにあっさりと受け入れ、さらりと立ち上がった。隼人はヒロの手を取ってさっさと歩き始める。
「ちょ待てコラ。ヒロもおかしいだろ。俺の話聞いてたか? 海、寒い! 凍る!」
「ヒロ、寒くないようにしろよ」
「平気。マフラーあるし」
「人の話を聞けー!」
大声で騒ぎ立てたらヒロと隼人が同時に振り返って、俺に手を伸ばす。そして、笑う。何だか背中が痒くなって身震いしたら、俺のマフラー貸してやるよ、と隼人が呆れたように言った。
「なあ、お見舞い行けたの。なんか、友達の母親とかっていう」
「ああ。会って来たよ。思ったより元気そうだったけど……」
ハンドルを切りながら、隼人はそこで言葉を止める。助手席に座ったヒロがちらりと隼人を見て、短いため息を吐いた。
「……けど、何だよ」
何だか気になって続きを促したら、隼人はなにかを誤魔化すように咳払いしてからブレーキを踏み、海着いたぞ、と呟くように言った。
「ちょ、待って。寒い。無理!」
「うるせぇ、降りろ! 子供は風の子だろうが!」
「ばかかお前は! 俺だって二十歳になったんだよ! 子供じゃねえ!」
隼人は海風になびく髪を前へ後ろへかきあげながら、車のドアの内側にしがみつく俺の手を引っ張る。ヒロはとっくの昔に勝手に車を降りて波打ち際でのんびりと佇んでいる。あいつは無敵か。
「あ、そっか。お前も二十歳だっけ。忘れてたわ。でもヒロがあんな元気なんだからイケるだろ!」
「あんなのと一緒にするな! 俺は寒いの苦手なんだよ!」
隼人は幾つになっても相変わらずしつこい。何度嫌だと言っても一切聞き入れず、結局俺はずるずると引きずられ、波打ち際近くの砂浜に転がされてしまった。視界に、俺が引きずられてできた二本の線が延々と続いているのが見える。諦めて、どうせならと仰向けになったら、薄い水色の空に二本の飛行機雲が交差しているのが見えた。
細かい砂がくっついてざらつく耳元に、潮騒が届く。寄せては返す波の音に、一瞬だけ、どうしてだか泣いてしまいそうになった。
ここは確か、あの時皆で来た海だ。
隼人とヒロと、俺と兄貴とそれからコウ。五人で、嫌というほど騒いだ。そうだ、確かあの時俺ははじめて隼人に言ったんだ。お前たちが大切なんだと。だから傷ついて欲しくない、と。隼人は驚いたように目を丸くしたあと、今にも泣きそうな顔をして笑ったんだ。
「うああ、さみぃ。凍る。死ぬ。人殺しがここにいまーす! おまわりさーん!」
「大袈裟だなお前。ヒロー! 死体があるけどどうする!」
「ほっとけばー? そのうち波にさらわれちゃうんじゃない?」
「お前もヒロも悪魔だな」
俺の隣に、隼人も同じように横たわる。車が砂だらけになるんじゃないかとも思ったけれど、別段気にしていない様子の隼人に、やっぱり相変わらずだなと思った。
隼人は自分が大事だと思うものごと以外には極端に大雑把になる。いちど自分の誕生日を忘れて家に帰ったら、ヒロと涼子さんがサプライズのパーティーを用意してくれていたのを本気で驚いたと言っていた。拘らないにも程がある。
「……なあ、隼人」
「あん?」
「涼子さん、まだ入院してんの」
「いや、手術して、退院して。もうピンピンしてるよ」
「会いに行かないの」
「あー……まあ、そのうちな。再婚するって言ってたし、また会うこともあるだろ」
「何だそれ。お前、病院のお金とか負担したんだろ。会いたいって言ってこないのか」
諦めたように言う隼人が悔しくて、足で砂を蹴る。ざ、と音がして、隼人の足に砂がかかった。隼人は小さく笑って、目を閉じた。以前よりも大人びた額が顕になって、こんなことで時の流れを感じる。
「会いたいとは言ってくれるんだけど。なんつーか、もう俺の居場所じゃないっていうか。再婚相手とはまあ、うまくやってるみたいだし。気ぃ遣うのめんどくせぇだろ」
「……ああ、まあな。そんならわかる。めんどくせぇな」
俺の居場所じゃない。きっとそれが本音なんだろう。
今まで自分が寝起きしていた場所に赤の他人が居座るというのは、どういう感覚なんだろう。それも母親のいちばん近い存在として、我が物顔で食卓に座る。戸惑う隼人が玄関の前で所在なく佇む姿が目に浮かんで、何だか胸が痛くなった。
「……俺、ヒロの気持ちわかってやれてなかったんだなって」
「え?」
「自分の親の再婚相手なんてさ。なんか、まともに顔見れなくて。この歳になってなに言ってんだかって、自分でも思うけど」
「ヒロは達観してるとこあるからな。順応性高いっつーか」
「そうでもないのにな。そう思わせるのがうまい。俺も騙されたよ」
騙されたよ。そう言いながら小さく笑う。膝をたてた足元から砂が散って、海風に飛ばされ隼人の顔にかかってしまった。どうも何だか、締まらない感じだ。
「ぶは! げほ! ふざけやがって!」
「自分でやったんだろうが」
ひとしきり噎せたあと隼人は上半身を起こして、なにがおかしかったのかけたけたと笑い出した。呆然と見守る俺を見下ろして笑うのを止め、小さな声で、さんきゅ、と呟いた。
「なにがだよ」
「……お前、母さんが倒れたとき連絡くれたろ。ごめんな、返事返す余裕がなかった」
「……そうだろうと思ってたよ。俺も余計なこと言って悪かった」
「いや、本当は嬉しかったんだよ。こんな時でも手助けしてくれる友達が居るんだって、心強かった。そんだけでも俺は、すげえ頑張れたから。だから、ありがとう」
そんなことを、素直に言ってしまう奴だった。そうだ、こいつは昔から言葉にすれば照れてしまうようなことも平気で口にして、まわりの奴を苦笑いさせていた。
やっぱり俺も苦笑いを浮かべて曖昧に頷くことしか出来ない。本当はその手を取って、頑張ったな、って言ってやりたい気持ちもある。だけど、出来ない。
「ばーか」
口をついて出るのはやっぱりこんな言葉で。だけど隼人はやけに嬉しそうに笑って俺を見下ろし、うん、と頷いた。
こんな時に。
こんな時に、ヒロの隼人に対する気持ちが綺麗にわかってしまう。そりゃあそうだ。こんなに素直に愛情を表現する奴に四六時中構われて、好きにならない訳がない。俺だってもしかすると。
「俺さ」
「ん?」
切っ掛けを作ったものの、どう言えばいいのかわからない。うまい言葉が探せずにこみ上げてきた笑いを飲み込まずに目を閉じた。波の音が静かに、漂う。
「なんでもねえよ。ばーか」
「はあ? なあ、このあとどうする? 一応駅前のホテル取ってるから飲みにも行けるぞ」
「あー、じゃあ駅前で飲むか。いっかい自転車置きに帰っていい?」
「おう。あの車、自転車くらい乗るぞ。ヒロ! 風邪引くぞ! そろそろ行こう!」
「はあい! ねえ、桜貝いっぱいあったー!」
「……どうする気だ。唐揚げにしても食えねえぞ」
両手いっぱいに桜貝を乗せて俺たちの間に入ったヒロにそう言ったら、隼人が大きな声で笑った。ヒロは唇を尖らせ、桜貝をばらばらと俺の顔の上に降らせた。
「うえっ、磯くせぇ! なにすんだこのやろ!」
「智也が意地悪言うからだよー!」
「ちょ、お前こいつなんとかしろ!」
「今のは智也が悪い。ほら立て、行くぞ」
隼人は眉を下げて笑いながら、俺に手を伸ばす。素直にその手を取ったら、思い切り引っ張りあげられた。上着にくっついていた砂が、音をたてて落ちる。
ヒロは不貞腐れた顔のままポケットに手を突っ込んで、そこからまた桜貝を取り出して俺に差し出した。一体いくつ拾ったんだ。
「あげる。欠けてないやつ。大事にしてね」
「ええ……もらうの?」
「もらっとけ。唐揚げじゃ食えないにしても、砕いたら調味料くらいにはなりそうだし。カルシウム摂ったほうがいいんじゃね? お前なんかいっつも怒ってるし」
勝手なことを言う隼人を睨んで、手のひらに並んだ桜貝を眺めた。薄紫のそれは海風に揺れて、沈みかけたオレンジの夕陽に反射してきらきらと光っていた。