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水の音  作者: さくら
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水の音・16

 




 橋はやっぱり明日にしよう。そう言い出したのはヒロだった。橋の近くまで車を走らせ、暖かい飲み物でも買おうと目についたコンビニに寄った時だった。

 俺が車を降りた時あまりの寒さに大騒ぎして、大きなくしゃみを連発してしまったからなのかもしれない。


「え。明日雨降ったらどーすんだよ」

「降らないよ。天気予報で言ってた」


 ヒロはかごの中にビールとワインを入れて、チーズの置いてある棚に手を伸ばした。

 確かに今日はもう日も暮れるし、今から河原なんかでうろうろしたら凍えてしまうかもしれない。そう自分を納得させて、お菓子の棚からガムをひとつ取ってかごに入れた。レジに並んだヒロはちらりと俺の顔を見上げ、煙草やめる気になったの? と笑った。


「まあ……少し減らそうかなと。少しな」

「禁煙っていうのは、すっぱり辞めてしまわないと成功しないって聞いたよ。お父さんも何回も挑戦したけど全然ダメ」

「だろうな。なんかきっかけでもないと」

「きっかけって」

「子供ができるとか」


 ふ、とヒロは笑う。子供ねえ、と呟いてレジ袋を俺に差し出した。


「iPS細胞とか」

「ばかじゃないの。無理だよ」


 そんなことは解っている。だけど何か諦めたように、子供ねぇ、なんて言ったヒロが妙に悔しくて。


「そんなのは、夢物語だよ」

「そりゃそうだけどさ。まあ、産むならヒロだな」

「え、冗談。僕痛いの嫌だ。隼人でしょ」

「想像してみろ、俺の妊婦姿を。気持ち悪いぞ」

「……僕で想像してみても気持ち悪かった」


 それぞれの、大きなお腹を撫で笑う姿を想像して気分が悪くなった俺たちは、苦虫を噛み潰したような顔で車に乗り込んだ。

 お互いの手を取ったあの時に手放した望みは数えきれないほど、あった。

 だけど俺たちはそれでも幸せだと、心から思っていなきゃいけない。そうでなきゃ、置いて来た希望たちが浮かばれない。ヒロもきっとそれは、解っている。






 翌日は俺とヒロの旅を後押しするかのように、快晴だった。夜中に遅くまで起きて酒を飲んでいた俺とヒロは、刺さるような日射しに潰れてしまいそうになる目を何とかこじ開けて、荷物を抱えて旅館を後にした。


「眠い……。なんでホテルとか旅館って、昼過ぎまで居られないんだろう」

「一応頼んではみたんだけどな。予約入ってるんだってさ」


 俺たちが予約もせずにあの旅館に泊まれたのは奇跡だったらしい。毎年秋の連休には半年も前から予約をして泊まりに来る客でいっぱいだそうだ。だけど昨日は突然キャンセルが出た。そこへ偶然、俺たちが飛び込んできたという事だった。

 やっぱり日頃の行いはきちんとしていて正解だ。そう言って胸を張った俺に、ヒロはぽかんとしてから、にやりと笑った。どういう意味の笑いだったんだ、あれは。


「朝ごはん美味しかったけどなんか胃に来た……」

「二日酔いだな。お前酒残るんだからほどほどにしとけって言ったろ」

「そんなこと言ったってやっぱテンション上がるでしょ。旅行なんてさ」


 ヒロはどうも普段きちんとしているせいか、少し日常を離れるとタガが外れてしまう所がある。これは、気をつけないといつか痛い目を見るんじゃないだろうか。ぼんやりした顔で助手席に乗り込んだヒロを横目で見て鼻先を指でつついたら、ごめん、と小さな声が聞こえた。


「なんか飲み物でも買うか。水でいいな」

「コーラ」

「水な」

「意地悪」

「意地悪じゃない」


 旅館を出てすぐに目に入った自販機で水を二本買い、二人並んで無言で飲み干した。お腹が一気に重くなる。げぷ、と喉を鳴らしたら、ヒロが顔を顰めて笑った。


「失礼。生理現象だ」

「謝ったあと言い訳って。ねえ隼人、小西さんって覚えてる? 前にここに来た時お世話になった」


 コニシさん、コニシさん。頭の中で記憶を手当たり次第に掘り起こして、なんとか思い出した。そうだ、小西さんの家はこの近くじゃなかったか。


「覚えてる。小西さんな。酒豪の」

「酒豪って……。僕が東京に行く少し前まで長野にいたんだけど、旦那さんの転勤で沖縄に行っちゃったんだよ」

「沖縄。そらまた遠くに行ったな。泡盛めっちゃ飲んでそうだけど」

「隼人の中にある小西さんのイメージってお酒だけなのか……」


 真夜中のリビングで、次から次へとビールの缶を開けて笑っていた小西さんを思い出す。そういえば、大人になったら一緒に呑もうと約束していた。


「じゃあ今度の旅行は沖縄だな。酒飲む約束がある。沙智さんのことも聞かなきゃ」

「え? お母さんのこと? なんで?」


 そう言えばあの席にヒロはいなかった。ヒロに内緒でそんな話をしていた事が少し、気まずい。苦笑いしながらヒロを見下ろしたけれど、理由を聞くまでは傾げた首を元に戻す気はないようだ。

 諦めて、ポケットから取り出したタバコに火を点けた。ヒロは一瞬顔を顰めたけれど、小さなため息で許してくれた。

 冷たい風に、白い息と煙が混ざる。


「あの時、どんな人だったのか聞いたんだけど」

「……うん」

「話してもらえなかったんだよ。もったいないって」

「もったいない? なんだそれ」


 両手でビールの缶を握って、申し訳なさそうにそう呟いた小西さんの横顔が脳裏に蘇る。

 一瞬で蚊帳の外にはじき出されたようなあの感覚はきっと、忘れる事が出来ない。傷ついた訳じゃない。ただ、部外者だと思い知らされた。

 だけど小西さんは言ったんだ。まだヒロのなかでも自分のなかでも整理がついていない、と。今なら聞けるんじゃないだろうか。もしかしたら。

 タバコを携帯灰皿に捩じ込んで、二人で車に戻った。少しかじかんでしまった指先に息を吹きかけて、ヒロは俺を見上げる。まだ話を聞いていない、そう言いたげな目だ。


「……ヒロはさ、もう平気か? 沙智さんのこと話しても」


 そう尋ねたら、ヒロは少しの間前を向いてフロントガラス越しの晴れ渡った空を見上げた。見えない天国を、見ているのかもしれない。空の向こうにいる沙智さんを探して、笑っているだろうかと確かめるように。


「平気なのかどうかわからない。ずっと口にしなかったから」

「いや、言いたくなかったらいいよ。時間なんか腐る程あるんだしな」


 小西さんは、宝物だと言っていた。沙智さんとの想い出を宝物だと言って、大事そうに心の奥にしまっていた。ヒロもきっとそうなんだろう。

 ある日突然時間を止めてしまった大切な人の、大切な想い出。口にしてしまえば、それは目の前にある空気やその時に抱えた感情と混ざって色を変えてしまう。綺麗な色に染まればいい。だけど今もしヒロが本当の意味で幸せだと思えていないのだとすれば、それは途端に色褪せてしまうんだ。


「わかんないよ」

「え?」


 路肩に停めた車の傍を、数台の車が通り過ぎる。風を切る音が遠ざかり、ヒロは小さく息を吐き出して俺を見上げた。


「時間なんて、いつなくなっちゃうか誰にもわかんないだろ。隼人だって僕だって、明日にはもう息をしてないかもしれない」

「……怖いこと言うなよ。だいたい、そんなことばっか考えてたらなんもできねーだろ。もっとこう、あの」

「それはそうだけど。でも、わかんないだろ」


 明日には息が止まって。もう動くことも出来なくなって、なにを見ることも、なにを感じることも二度と出来ないんだとすれば。

 沙智さんは天国で、泣いているヒロを見たんだろうか。幽霊なんて信じたくないけれど、もし存在するのだとすれば。

 自分を想って泣いているヒロに手を差し伸べることも出来ずに、歯痒い思いをしたんだろうか。


「……じゃあ結論、何だよ」

「話すよ。いい加減僕も吹っ切らなきゃね。ばかみたいにいつまでもぐずぐずしてらんないし。生きてる方が大事だ」

「……おう。そりゃそうだ」


 生きている方が大事だ。息をして、なにかに触れてなにかを感じ、明日のことを考える。今隣にいる大切な誰かが笑っていてくれる方法を考える。そうやって生きている事が本当はきっと、何より大事な事なんだ。

 ヒロは少しの間俯いて、なにかを吹っ切るように、うん、と小さく頷いて顔を上げた。







 橋の下から見上げた景色はあの頃とちっとも変わっていないように見えた。空の色は違うけれど、あの時と同じように静かな水の音が聞こえる。

 あの時二人で座り込んだ橋桁の側に車を停め、缶コーヒーを握り締めて車を降りた。

 想像していたより暖かい。風はなく、昼すこし前の柔らかな日差しが橋の影を黄金色の草に横たえる。


「ここだね。すごいね隼人、迷わないで来れたね」

「そりゃお前、ここで迷ったら台無しだろ。ばっちり下調べしたんだよ、これでも」


 昨日の出発前、ヒロが顔を洗っている間にネットを開き地図と睨めっこして場所を突き止めた。橋の名前はヒロが見せてくれた雑誌に書いてあった。


「無謀じゃないことも出来るようになったんだねえ」

「お前ね……。そりゃ、あの時はさ。夢中だったんだよ。とにかく会いに行かなきゃ、って」


 後の事なんて考えていなかった。ただヒロに会いたい一心で、それだけでここまでやって来た。


「スタンド・バイ・ミーみたいだね」

「線路は歩かなかったけどな。探したのも死体じゃない」


 まだ幼さの残る小さな冒険者たち。それぞれに傷を抱えた彼らは冒険の末死体を見つけ、何かを得た。それは決して誇れるものばかりではなかったのかもしれない。だけど、希望があった。不安な毎日にほんの少しだけ光を落とす、小さな希望。

 俺はあの旅でなにを得たんだろう。大切なものだった気がする。大切だったけれど、それはきっともう俺のなかに溶け込んで、俺の一部になってしまっている。


「クリスに憧れたなぁ。ずっと強くなりたかった」

「クリスはなぁ。なんつうか、カリスマだよな。いや、あれはリバー・フェニックスがカリスマなんだな」

「なんで死んじゃったんだろうね。神様に呼ばれたのかな。良い人とかすごい人って早死にするじゃない。あれってやっぱ、そういう事なのかな」

「神様に。うーん。じゃあお前もっとこう、ずるい奴になってくんない? 長生きしてくれ」

「僕は充分ずるいよ。隼人が知らないだけで」


 そう言ってヒロは笑う。ヒロがずるいって言うのなら、俺なんか極悪人だ。まっくろだ。


「僕のお母さんはね。すごく気の強い人だったんだよ。気が短かくて、いつも何かに腹を立ててる人だったんだ」


 意外だった。写真の中の沙智さんしか知らない俺が抱いているイメージが正しいものだとは思っていなかったけれど、あまりの違いにいささか、戸惑う。


「正義感が強いっていうのかな。曲がったことがどうしても許せなくて損しちゃうタイプ。だから敵も多かったし、そのとばっちりは僕やお父さんが受けてたな」


 そういう所はきっと、ヒロの中に受け継がれているんだろう。いつも真っ直ぐで、後ろ暗い所なんて見当たらない。あえて言っちゃえば俺とヒロの関係なんかそれに該当するんだろうけど、そこは今は目を瞑りたい所だ。


「だけど僕やお父さんにはいつも優しくてね。お母さんが笑っていない日はなかったよ。嫌なことがあっても、泣いたあとはちゃんと笑ってた」


 ヒロはそう言って、橋の陰から遠い空を見上げる。背の高い枯れ草が揺れて、さらさらと風の音がした。


「嫌なこと、あった?」

「そりゃあね。生きてたからね」

「……そうだな。生きてたんだからな」


 生きていれば、良いことも嫌なことも絶え間なくやってくる。それでもどうにか笑っていたんだと、ヒロは言う。

 だから本当に自分は気づかなかったんだと、そう言った。


「本当の家族だと思ってた。お父さんがいて、お母さんがいて、僕がいて」

「……うん」

「僕が勝手に写真を見て色々探っちゃっただけで。お母さんは最後までなにも言わなかったよ」


 それは優しさなのかもしれないし、逃げていただけなのかもしれない。今となってはわからないけれど、ヒロはそれを優しさだと受け取ったんだ。それでいいんだと、思った。思い出は綺麗であるべきで、それが生きている人を支える力になるのなら。


「きっと最後にお父さんと話したレストランから帰って、僕に話すつもりだったんだろうね。覚悟を決めた顔をしてたよ。僕はちゃんと受け止めるつもりだった」


 だけど、沙智さんがヒロに俺たち家族のことを話すことはなかった。レストランを出た直後に、事故に遭った。沙智さんは帰らぬ人となって、用意していた言葉たちはヒロの耳に届くことはなかった。

 ヒロは唾をごくりと飲み込んで、缶コーヒーを頬に押し当てる。目を閉じて、ゆっくりと深い息を吐き出した。俺はそれを、固唾を飲んで見守る事しかできない。他になにか出来るとすれば。

 ヒロの手を掴んで、あの時と同じように橋桁に寄り掛かり、ふたり並んで座る。ヒロはいちど俺を見上げ、小さく笑ってから俺の肩に寄り掛かった。さらりと、ヒロの髪が頬に擽ったい。

 鉄橋を渡る電車の音、橋の欄干が風を切る音、遠くのサイレン。そして水の音。それらがひとかたまりになって、やさしく耳に届く。ヒロの長い睫毛を、つめたい風が揺らした。


「隼人の写真をね」

「うん」

「一度だけ、お父さんが家に置き忘れたことがあったんだ」

「うん」

「お母さんはそれを、大事そうに抱き締めてた」


 大事そうに。

 写真の中の沙智さんが頭の中で動き始める。ゆっくりと一枚の写真を手に取り、胸に抱いてやさしく笑った。

 喉の奥がぐっと詰まったように苦しくなって、鼻の奥がつんとした。それを誤魔化すように咳払いして、橋の裏側を見上げる。丸々と太った鳩が橋桁の隙間から、大きな羽音を立てて逃げ出すように飛んで行くのが見えた。


「僕はもうあまり思い出せないんだ。お母さんのこと。きっと愛されてたんだろうし、小さな思い出もたくさんあるはずなのにね」

「……人間は、自己防衛のために忘れるという能力を身につけたんだよ」

「そっか。そうだね。きっと思い出にばかりしがみついてちゃいけないんだ」


 小さな傷だってたくさんあるんだろう。忘れたくなかった思い出だってきっと。だけどいつまでもそこにいて下を向いていたら、前に進めない。だから、忘れる。そんなすごい能力を人は、神様にもらったんだ。


「忘れて笑うのは悪いことじゃねえよ。必要な時にはきっと、きれいに思い出せる」


 笑ってそう言ったら、ヒロは少しだけ目を丸くして抱えた膝に顔を埋めた。ちいさく震えた肩に手を置いて、ゆっくりと撫でる。小さな嗚咽が、橋の上を行き交う車の音に掻き消された。










 どれくらい時間が経っただろう。まぬけな事に俺たちは、空腹で鳴ってしまった腹の音で我に返った。

 顔を見合わせて笑い、どちらからともなく手を取り合い、キスをした。あの時と同じように、唇が一瞬触れ合うだけの小さなキス。


「人間、いちど贅沢を知ると欲が出るというものでな」

「なにが言いたいんだよ。ほら、ご飯食べにいこ。どうせなら美味しいお蕎麦食べて帰ろうか」


 先に立ち上がったヒロは楽しそうに笑って、俺に手を伸ばす。

 差し出された手をぐっと握って立ち上がったら、川下から大きな風が吹いた。咄嗟にヒロの肩を抱いて風を避けたら、ヒロは俺の腕の中で小さく笑う。


「なに笑ってんだよ」

「え、なんか幸せだなあと思ってさ。幸せついでに言っちゃうと、愛してるよ」


 ヒロはそう言って、花が咲いたように笑った。

 車に乗り込み、俺に手招きをする。愛してるなんてそんな簡単に言うものじゃないと言おうとしてやめた。ヒロはきっと、今本当にそう思ったから言ったんだ。今、この瞬間にそう思ったんだ。

 たいした自惚れだとは思う。だけどヒロがそう言ったんだから、そうなんだ。


「……ついで、ね。俺のほうがめちゃくちゃ愛してるもんね。負けねえぞ」

「いつから勝負になったんだよ。じゃあ僕もっと愛してるもんね」

「じゃあ俺もっともっともーっと」


 本当に、車で来てよかったと思った。電車じゃ手も繋げない。そう主張したヒロに心の中で感謝した。ばかみたいな主張をお互いに繰り返しながら国道を抜ける。水色の空に、刷毛で描いたような雲がやわらかく浮かんでいるのが見えた。



 










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