水の音・15
「午後から雪になるって言ってたよ」
「誰が」
「誰って、天気予報だよ。明日帰れるかなあ。この車チェーン積んでる?」
東京から長野まで車を走らせる。まだ稼ぎの少ないときにやっと手に入れた小さな四駆の軽自動車だ。年式はそう古くはないけれど、次の車検の時はもう少し乗り心地のいいものに買い換えようと、手当たり次第に入手したカタログと睨めっこしている最中だ。
長野へは電車で行こうという俺の意見を軽くスルーして、ヒロは車がいいと主張した。訳を聞くとはじめは、カメラが重いから面倒なんだと言った。俺が持つからと言ってみたものの、ヒロは少し俯いて唇を尖らせ、電車じゃ手も繋げない、と言い直して荷物をまとめ始めた。
例のごとくその可愛さにあっさりと白旗をあげた俺は、文句も言わずにこうしてハンドルを握っている。俺って健気。
「チェーン積んでる。まあ軽だけど四駆だし何とかなるだろ」
「そっか。ねえねえ、お腹すいた」
「もう少し行ったら高速下りるから。したら、どっか適当に飯食うか」
フロントガラス越しに見上げた空は重い灰色で、午後からといわずすぐにでも雪が落ちてきそうだ。
インターを下りて国道に入ると、よくある雰囲気のファミリーレストランが目に入った。信号待ちの間に目配せしたら、ヒロは小さく頷いて後部座席に置いた上着に手を伸ばした。
レストランに入って注文を終え、ヒロは頬杖をついて大きな窓の外を眺める。レストランの前の道を行き交う車は長野のナンバープレートが目立つ。
「疲れた? もうすぐ長野に入るから、取り敢えず宿決めて休もうか」
メニューをテーブルの端にあるホルダーに立てかけながらそう言ったら、ヒロは曖昧に笑ってから立ち上がった。
「飲み物なにがいい? 取ってくる」
「あー、じゃあなんかお茶。あったかいやつ」
「了解」
ヒロが席を立ってすぐ、ポケットに入れた携帯が震えた。取り出してロックを解除したら、智也からのメールが一通届いていた。開くと、智也らしい絵文字をふんだんに使った画面が目に飛び込んでくる。思わず苦笑いした時、目の前にカップに入ったお茶が置かれた。
「メール?」
「うん、智也から。あ、なんか実家に帰ってるんだってさ。……友達の結婚式とかなんとか」
「へえ、実家に? じゃあ帰りにでも寄ってみる?」
「そうだな、智也に会うのは久しぶりだ」
目がちかちかしそうな程カラフルな画面には、友人の結婚式があって冬休みついでに日本に帰国しているとあった。年末年始はこっちで過ごして、のんびりしてからまたアメリカに発つという。みやげ話を山ほど楽しげに話す智也が目に浮かんで、頬が緩んだ。
「何年ぶりだっけ。高校卒業以来?」
「そうだな。まあ、あいつは何年たっても変わんねえ気がするけど」
「智也、何度か長野に遊びに来たんだよ」
「え、なにそれ知らない」
聞けば、智也は年に一度か二度、ヒロの居る長野に顔を見せに行っていたらしい。隼人に言えば何だかんだとめんどくさくなるから言うなと口止めされていたそうだ。めんどくさいとは何事だ。
「水くさい。言えば俺だって」
「色々考えてたでしょ。隼人も、僕もね」
そのひとことに集約されてしまった。そうだ、俺もヒロもお互いが思っていたんだ。会わずにいられたら、と。会わずに過ごせればいつか俺たちは普通に兄弟として接することが出来る時が来るんじゃないかと、そう思っていたんだ。だけど。
「隼人はロマンチストだから言うけど、運命って多分あるんだと思う。お父さんが僕を日本に連れて帰らなくても、どこかで僕たちは出会ったんだよ」
「そうかな」
「そうだよ。もしかして会えなくても、きっとその存在は感じるところに居るんだ」
お前のほうがよっぽどロマンチストだ、と言いたい。そんなお伽話のような運命が本当にあるのだとしたら、世界はもっと平和だったに違いない。
「手を繋ぐことが出来るとは限らないよ。だけど、例えば隼人のつくった歌を聴いて心が揺れることって、あったと思うんだよ。知らなくてもね」
「そんなお前、それ言ったらアイドル歌手なんか運命まみれじゃないか」
「ぶは。それもそうか」
ヒロは楽しそうに笑って、グラスのコーラをひとくち飲んだ。
「智也に返事送らなくていいの」
「あ、そっか。明日か明後日会えるか聞いてみよう」
智也には俺とヒロが今は一緒に暮らしている事を知らせている。それから、淳にも。淳には直接会って話したけれど、複雑な顔をしながらも喜んではくれた。なにかあったら頼って、と、住所の書かれたメモを差し出しながら。
智也は電話越しに素っ頓狂な声を上げて、そっか、そっか、と繰り返した。電話を切る直前に聞いた声は何だか泣いているようにも聞こえた。
大きな窓の向こう、灰色の空から白い雪が落ちてくるのが見えた。まるで綿埃のようなそれはすぐに溶けて、風に消えていった。ぺた、ぺた、と次から次へとくっつく雪を眺めて、ヒロは楽しそうにガラス越しのそれを指でつついた。
「今年はじめて見る雪だ。積もったら雪合戦したいなあ」
「お前容赦なさそうだな。一回したことあったっけ、雪合戦」
「したね。前の公園で。雪だるまも作ったね」
もう何年前のことだろう。ヒロと、積もった雪に歓声を上げながら家の前の公園で。まだ足跡のない雪を踏みしめて、汗だくになるまで雪を投げ合った。あまりたくさん積もっていた訳じゃないから結局泥混じりの雪を投げ合う事になって、泥だらけの服で帰った俺とヒロを見た母は鬼の形相になった。それでもヒロは楽しそうに笑っていたんだ。
「楽しかったなあ、雪合戦。あのあと隼人、珍しく風邪ひいたんだよね」
「……そうだっけ? あんま覚えてねえなあ」
「熱出して、涼子さんが慌てて薬買いに行って」
朧気な記憶を手繰り寄せるけれど、よく覚えていない。楽しかったことしか思い出せない単純な脳みそが恨めしい。それでも思い出そうと頑張ってみたら、心配そうに俺を覗き込むヒロの顔がぼんやりと浮かんできた。
熱を出すと悪夢を見る。何だかわけのわからない夢を見てうなされた俺を、ヒロが起こしたんだ。今にも泣きそうな顔をして俺の名前を呼んで、傍にいるからね、って言ったんだ。
あの時。そうだ、あの時に俺は初めて自分が寂しかったんだと自覚したんだ。暖かさに触れて初めて人は、寂しさを知る。そんなことを実感した夜だった。
「雪合戦したいけど、風邪ひかれたら困るなあ」
「ばーか。そんなヤワじゃねえよ」
「そうだね、バカは風邪ひかないって言うしね」
けらけらと笑いながらそんな事を言って、運ばれて来たハンバーグに手を合わせる。呆れ顔で見下ろしたら、照れたように、えへへ、と笑った。どうしてそこで照れる。
長野に入って、とりあえず、と適当な宿を取った。上田にある小さな温泉宿だ。あの橋の近くといえば近くだ、という理由だけで選んだ所だったからあまり期待はしていなかったけれど、なかなか風情のある宿だった。
ヒロは部屋に入るなり畳に寝転んで、両手と両足を投げ出す。お茶菓子を持って来たおかみさんに笑われて、慌ててきちんと座り直した。
「お前、長野そんな懐かしくもねえだろ。今更だけどなんで急に長野なんだよ」
「ほんとに今更だね。別にどうっていう理由はないよ。あの雑誌見て、隼人と一緒に橋を見たくなった、ってとこかな」
ヒロはそう言って、飲みかけの湯飲みをテーブルに置いて窓際の椅子に座る。大きな窓からは、千曲川にかかる小さな橋が見渡せた。
おかみさんの話によれば、夏には近くで花火大会が開かれてこの部屋からもよく見えるそうだ。いつかまたヒロとここへ来て部屋から花火を眺めるのも悪くない。
少し休憩した俺たちはまた車に乗り込んで、まずはヒロが行ってみたいとせがんだあの保養所へ向かった。もちろん保養所はもうとうの昔に取り壊されて、今ではスキー客を対象にしたホテルが建っているという事だった。そろそろシーズンを迎えて、客足が増える頃だ。
「あれ、雪止んじゃったね。積もるかと思ったのに」
「雪積もってなくても充分寒いな。うー、車止まったりしないよな」
「え、怖いこと言わないでよ。まだ凍え死にたくない」
俺だって凍え死ぬのは真っ平御免だ。死ぬなら畳の上で安らかにと決めてある。日本人なら畳だ。妙な拘りを話してみたら、ヒロははんぶん呆れたような目を俺に向けた。
「そんなこと別に今から決めなくても」
「いーんだよ。人は日々死に向かって歩いてんだよ。最期の瞬間のことくらい、叶う叶わないに関わらず決めてたってバチはあたらねぇだろ」
「そんなもんかねぇ」
長野の市街地を通って、いつかタクシーで向かったあの保養所のあった場所に向かう。あの時は不安に胸が押しつぶされそうで、怖かった。暗闇に揺れる木々がやたら不気味で、まるで自分たちを襲ってくる化け物のように思えた。
「あ、でもさ。もういっこ決めてるんだぞ。俺は」
「もういっこ? なに?」
「ヒロより先に死んだりしない。ヒロの葬式は俺が出すんだよ」
ヒロは俺の言葉に、何だよそれ、と口をぽかんと開けて固まった。これはずっと前に決めていたことだ。ヒロに煩わしい思いや悲しい思いはして欲しくない。だからヒロより先には死なない。人の運命なんてどこでどうなるかわからないけれど、そう願っている。
「……ばかじゃないの。じゃあ僕も隼人より先には死なない」
「ばか、それじゃどっちも不死身になっちゃうだろ」
「不死身でいいの! お葬式とか、なんでそんな辛気臭い話すんだよ、ばか!」
怒られてしまった。その表情から察するに、かなり腹を立てている。どうやら俺は話題を選び間違えてしまったらしい。所在なくなってしまった空気を誤魔化そうと、タバコを取り出す。それをあっさりとヒロに取り上げられて今度は俺が固まった。
「だめ。僕より長生きするんだったらタバコやめないとね。禁煙、禁煙」
「うっそ。ばかだろおめぇ、そんな急にやめられるもんじゃ……」
「つべこべ言わない。禁酒、禁煙、健康第一! あと夜更かしもだめ!」
「ふざけ、ふざけんな! 小舅かお前! タバコと酒はストレス解消になるんだぞ! 長生きの秘訣ってな、ストレス溜めないことが一番なんだぞ!」
「あ、言い訳したー! それ喫煙者の言い訳ー!」
「てめ、じゃお前もワイン飲むなよ! ポリフェノールがどうとか言ったって、あれだって酒だ!」
子どもじみた大人の喧嘩をしながら、車はいつの間にか保養所跡地に到着した。不貞腐れた顔のヒロはカメラを片手に車を降りて、ぶるっ、と体を震わせる。俺の首に巻く予定だったマフラーをヒロの肩にかけてぐるぐる巻きにしたら、巻きすぎて苦しい、とめちゃくちゃ恐い目で睨まれた。
保養所のあった広い敷地には、やけに立派なホテルが建っている。あの頃の面影を探すけれど、今となってはどこがどこなんだかちっともわからない。
「変わったって言うより、全然知らないとこみたいだ。ほんとにここなのかな」
「地図だと確かにここだよ。まあ俺もわかんないけど」
ヒロはすたすたと敷地の端まで歩いて、フェンスの向こうに広がる長野の市街地を見下ろして少し笑い、カメラを構える。ぱしゃ、ぱしゃ、と軽いシャッター音が辺りに響く。その音の他には小さな鳥の鳴き声と、木々を揺らす風の音が聞こえる。
「うん、ここだね。ほら、この景色」
ヒロはそう言って市街地を指差す。薄くなっていく雲の隙間から差す日差しにきらきらと光る長野の街並み。まるで小さな箱庭のようだと思った。長い長い川が、街を守るように悠然と横たわっている。時間が止まったかのように見えるその光景に、俺たちは無言で見入った。頬を掠める風がこんなに痛くなかったら、きっといつまでもここに立っていたんだろう。
「寒い。寒すぎる。冗談抜きで死んでしまう」
がたがたと震えながら、ヒロは車に戻る。助手席のドアに手をかけて、あけて! と騒ぎ始めた。残念ながら俺の車には遠隔操作なんてハイテクな機能はついていない。わざとのんびり車に向かう俺に、ヒロは笑いながら、急げ急げと声を張り上げた。
アクセルを踏み込んで車を走らせる。あの頃とは空や木々の色は違うけれど、そこかしこに見覚えのある景色が広がって、懐かしさに酔いしれる。
小さな橋の袂に車を停めて、対岸に広がる町並みを眺めた。あの時と同じように小さな水の流れる音がさらさらと耳に届く。今はもう冬なのに、けたたましい程の蝉の大合唱が聞こえた気がした。
「もうすぐ会える、って思ったな。ここで」
あの時と同じように土手に座り込んで高い空を見上げた。ヒロも俺の隣に座って、上を見る。小さな枯れ葉が宙を舞う。きれいな、空だ。重そうなねずみ色の雲がかかる冬の空だけど、それでもきれいだ。
「あの時智也がいてくれなかったらって思うと、実は結構怖いよ。一人だったら途中で諦めてたかも」
「一人で冒険は怖いなあ。……僕だったら、逆の立場だったらどうしたんだろう。隼人を探しに行ったかな」
「ヒロだったらもっと別の手段考えるだろ。ちゃんと周り説得して、用意周到に」
「そっか、そうだね。あんな無謀なことするの隼人くらいか」
そう言ってヒロは楽しそうに笑う。確かに無謀だった。無謀だったけれど、だからちゃんとヒロと向き合えた。どうせならどこまでも無謀にやってやると思ったんだ。あのくらい捨て身にならなきゃ、今の俺たちはなかったんじゃないか。
苦笑いを浮かべて見下ろしたら、ヒロはじっと俺を見上げてなにか小さな声で呟いた。何と言ったのかわからず聞き返したら、何でもないよ、と笑った。
ヒロの通っていた中学を回り、父と暮らしていたという家を見に行った。けれど、住んでいた当事からかなり古かったと言っていた家は取り壊されて、何だか不恰好なアパートが建っていた。ヒロはアパートを見上げ、仕方ないね、と呟いた。
父との暮らしはヒロにとってどういう意味を持ったんだろう。父に対しては歯に衣を着せない物言いをしていたヒロだから気を遣う必要はなかったんだろう。だけどたった二人で過ごした年月は、ヒロのなにかを変えたんだろうか。
「アキラのアパート寄ってみようか。いないだろうけど」
ヒロは振り返り、車に乗り込む。中からいちどアパートを見上げすぐに視線をはずし、なにかを吹っ切るように、ふ、と息を吐いた。
「親父は」
「うん?」
「親父はお前に、辛く当たったりしなかったか? 二人で、寂しくなかったか?」
小さな古い家で、二人で過ごした日々。仕事の忙しい父はきっと帰りも遅かったんだろうし、たった一人で家に居ることも多かったんじゃないだろうか。小さな部屋の片隅で本を片手に静かに過ごしていた姿が浮かんで、何だか胸が痛くなる。
ヒロは少し目を丸くして、それから俯く。だけどその口元は笑っていた。
「寂しいって思う時もあったけど、楽しかったよ。お父さんってなんて言うか、不器用でしょ。だから色々失敗したりもしたけど、気持ちがすごく優しいから。そういうとこ隼人に似てるのかな」
「え。ちょ待て。俺、似てる?」
「親子だからね。僕はお母さん似みたいだけど、隼人はお父さんに似てるよ」
そう言ってヒロは笑う。なにを思い出したのか、吹き出してけらけらと笑い出した。面食らっている俺を他所に、なんでもない、と笑いすぎて目尻に浮かんだ涙をごしごしと拭いた。何だかよくわからないが、楽しかったのなら問題はない。
「似てるかあ……」
「うん、声とかもね。そっくりだ」
「え、マジで? 俺あんな声? うわ微妙」
眉間に皺を寄せてそう言ったら、ヒロはまたおかしそうに笑った。
アキラのアパートは昔のままの姿でそこに佇んでいた。あの頃と変わったところといえば、裏の公園が何だか小奇麗になってしまった事くらいか。
「もう住んでないんだろうね。表札見てみようか」
言うが早いかヒロは車を下りてさっさと二階に上がってしまう。表札を確認してから首を傾げ、それから車を見下ろし俺に手招きをしてすぐにインターフォンを鳴らした。まさか、居るのか。
慌てて車を下りて階段を駆け上がる。すぐにドアが開いて出てきたのは、見たことのない女性だった。
「こんにちは。あの、アキラは」
「ええっ! ヒロ君!? うわ!」
知り合いなのか、その女性はヒロを見て素っ頓狂な声を上げて口元を手で覆う。それから俺を見て、首を傾げた。
「ええと、こっちは僕の兄。久しぶり、さっちゃん」
「お兄さん? 似てない兄弟もいたもんだわね。ええと、私、ヒロ君とは中学で一緒だった幸子といいます。一応、アキラの奥さんしてます」
「ええっ! アキラ結婚したのか!」
どうぞよろしく、と差し出された手を握ったまま大きな声を上げてしまった。幸子さんは俺に負けないくらい大きな声で笑って、良かったらどうぞ、と玄関を開けてくれた。一瞬遠慮した俺たちを、幸子さんは半ば無理やり部屋に引っ張り込む。ヒロは戸惑いながらも、じゃあ遠慮無く、と靴を脱いだ。
「今アキラ、お母さんのお見舞いに行ってるの。今年の夏に体調崩してね、それからずっと入院してるのよ」
お母さんというのはきっと、あの時俺におにぎりを作ってくれたあの人の事だろう。やさしい笑顔が脳裏に浮かんで、ろくに礼も言えていなかった事を思い出した。入院しているなら一度お見舞いに、とも思ったけれど、一度会ったきりの友人にそこまで踏み込んでいいものかと思い直した。
「っていうか、結婚したんだねえ。アキラとさっちゃんってめちゃくちゃ仲悪くなかった? いっつも喧嘩してたのに。ほんとに、目合わせたら文句の言い合いだったんだよ」
「まあねえ、なにがどこでどうなるかわかんないわよねえ。今も喧嘩ばっかりだけどね」
ヒロは不思議そうに幸子さんを見て、幸子さんはそんなヒロを見て笑う。小さなダイニングの小さなテーブルに三つ湯呑みを並べて、こぽこぽとお茶を注いだ。
このダイニングはあの頃とちっとも変わっていなかった。このテーブルの向こうで迷惑そうに眉間に皺を寄せて俺に冷たいお茶を出してくれたアキラが脳裏に浮かぶ。真剣な顔で、俺の話を聞いてくれた。今は閉じている窓に、大きな蝉が止まってけたたましく鳴いた。あの時の俺は頭の隅で綾子さんのことを思い出していたんだ。
「あの、もしかしたら失礼なことを聞くのかもしれないけど、こんなに早く結婚したのって」
「ぶ。ヒロくんのえっち。出来ちゃった婚じゃないのよ。今お腹の中にいるけどね。アキラが、お母さんもう長くないから早く孫の顔見せてあげたいって」
そんなつもりじゃ、と真っ赤になって顔の前で手を振るヒロを余所目に、幸子さんはまだ膨らんでもいないお腹をそっと撫でた。
アキラの子どもが、お腹に。思わず伸ばした手を、ヒロに掴まれてしまった。
「失礼だろ」
「え……、あ。ごめん」
我に返って、そう言われてみれば初対面の女性の体に触るのはどうかと思い直した。けれど幸子さんは、ぐ、とお腹を付き出して、どうぞ、と笑った。
「まだ全然動きはわかんないんだけどね。先週の検診で、ちゃあんと手足が見えたわよ。少しずつ人間に近づいてる」
「手足? すげえ。この中にいるんだ……アキラの子ども……。うわあ、すげえ」
あんまり触っちゃ失礼だと思って手を引っ込めると、幸子さんはヒロの手を掴んで無理やりお腹に触れさせた。ヒロは目を丸くして、それでも優しくお腹を撫でた。
それからその手を、暫くの間ぼんやりと見つめていた。
「生まれたら、見に来るから。名前とかもう決めてんの?」
全然関係ないはずなのに頭の中でどんな名前がいいか考えてしまった。特別なにも思いつかなかったけれど。幸子さんは少し考えて、苦笑いを浮かべる。
「性別もまだわかんないからね。男だったらハヤトにするってアキラは言ってたけど」
「えっ」
「ええっ!」
ヒロと顔を見合わせて目を丸くしたら、幸子さんは眉間に皺を寄せて俺たちを見上げた。どういうことだ。アキラは俺のファンかなにかだったのか。ちょっとなんか、痒い。
「……それはやめたほうが……。ばかになるよ」
「ちょ、待てお前。いい名前だろ。すげーいい名前!」
「どういう事? もしかしてお兄さんの名前って」
「隼人だよ。いやほんと、アキラなに考えてんの」
「え、うっそお。あいつなに? なんでヒロ君のお兄さんの名前つけようとしてんの」
意味がわからない、と呟いてから幸子さんはじっと俺の顔を見つめた。活発で気の強そうな目だ。口の悪いアキラとは喧嘩もするだろうけれど、気は合うんじゃないだろうか。
「……まあ、いい男だし別にいいか」
「顔で決めちゃだめだよ。頭わるくなっちゃうよー。苦労するよー。後悔するよー」
「……ヒロ、あとでちょっと話し合おうか」
幸子さんの話によるとアキラの母親が入院しているのは県外で、アキラの帰りは明後日になるとの事だった。後ろ髪を引かれる思いで幸子さんに別れを告げ、アキラにはヒロのポラロイドカメラで撮った写真と手紙を残してアパートを出た。いつか、また会いに来るよと約束して。
車に乗り込んだヒロは俺の顔を見上げ、何だか白い目を向けてため息を吐いた。
「……なんで隼人」
「……俺に言われても。あれじゃねえの、お前がしょっちゅう隼人隼人って俺の名前言ってて洗脳されたんじゃねえの?」
「そんなに言ってない。隼人、アキラになにかしたんじゃないの」
「なにかって、何だよ」
「わかんないけど、呪いとか」
「何だそりゃ」
友人が、生まれてくる子どもに自分の名前をつける。何だか妙にくすぐったい。こんど会った時に、どういうつもりなのか聞いてみよう。アキラのなかで俺と過ごしたほんの少しの時間が、俺の中の思い出と同じくらいきれいなものになってくれているのなら。
「にやにやしない」
「……や、なんか変に嬉しいな。なんだこれ」
「……うん、なんかね。くすぐったいね」
「お前もか」
「うん」
俺たちは妙に照れくさい空気を抱えたまま、一路、あの橋へ向かうことにした。あの時俺とヒロの気持ちをつなげた、あの橋へ。
空の雲はゆるゆると流れて、少し傾きかけた薄いオレンジの日差しがやさしく街に降り注いでいた。




