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水の音  作者: さくら
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水の音・14

 





 暑すぎる夏は瞬きをしている間に通り過ぎ、あの日の潮騒を思い出す間もなく秋を迎えた。街路樹はその葉を落とし、夕暮れの色が何故だか遠い想い出の痛みと暖かさを思い起こさせる。

 こんなふうに、やけに感傷的になってしまう秋は昔からすこし嫌いだった。


「紅葉って日本独特の芸術だよねえ。秋刀魚食べたくなったから買って帰ろう」

「待て。三日連続秋刀魚はきつい」


 十一月も終盤の連休前、いつもより早めにカフェの仕事を切り上げてヒロを迎えに行った。マンションの駐車場に車を停めてエントランスロビーに入ったとき、ヒロが歩道に差し込むオレンジの夕陽に目を細め、少し散歩しようと俺の袖の先を摘んだ。

 乾いた葉がからからと音をたて石畳を転がって行く。それを目で追ってからヒロに視線を移したら、ヒロは俺を見上げて笑った。

 近くの商店街で買い物しようと嬉しそうに言ってから、俺の少し先を歩く。軽いスニーカーの音が四つ、ぽすぽすと辺りに響いた。


「紅葉と秋刀魚が繋がる脳みそっていいな」

「隼人と違ってまだ若いから脳みそが柔らかいんだよ」


 小さな商店街は夕食の買い物をする主婦や家族連れでそこそこ賑わっていた。魚屋の店先で七輪を出して秋刀魚を焼いているのが見える。ヒロは鼻をくんくんと鳴らしてぱたぱたとそこに近づき、振り向いて手招きをする。服が魚臭くなりそうだ。


「いいなあ、七輪欲しいね。テラスで出来ないかなあ」

「だめだよ。テラスとかベランダっていうのは専有じゃないからな。火気厳禁。タバコくらいはいいけど、七輪なんかでもくもくやったら消防車来るぞ」

「風情がないなあ。ねえ、庭付きの一軒家に引っ越そうか」

「……秋刀魚のためにか」


 それも悪くない、なんて思ったけれど。小さな庭付きの家でヒロとふたり、縁側に出て暮れてゆく日を眺める。そんな日々も、悪くない。


「おじさん、焼いたのふたつ」

「はいよー」

「三日連続でいいの?」

「いいよ。なんか俺も食べたくなった。おじさん、カボスある?」


 すだちならあるけど、とふたつ袋に入れた。サービスだから持って帰りな、と目尻の皺を寄せて俺に差し出す。受け取って礼を言ってから、ヒロとふたりまた来た道を引き返した。


「カボスってなに? すだちのようなもの?」

「お前カボス知らねえのか。九州の方で結構有名な柑橘類でさ。すだちより美味いんだぞ。こう、緑で、みかんより少し小さい感じの」

「へえ。じゃあ今度九州でも行こうか」


 取り寄せればいいじゃないかと喉まで出かかった言葉を飲み込んで、うん、と頷く。電車に揺られて、駅弁なんかを食べながらのんびり旅をするのもいいなと思った。

 がたん、ごとん。耳の奥に、懐かしい音が蘇る。それとともに、今ではどんな言葉でも言い表せないあの焦燥感と、鼻の奥がつんとするような寂しさが胸の裏側をつついた気がした。


「なあ、アキラ元気にしてんの」


 不意に懐かしくなって、コンビニ寄ろう、と店を指差したヒロを見下ろす。ヒロは視線を少しだけ斜め上に上げて、たぶん、と呟いた。


「たぶんってお前。高校は一緒じゃなかったのか」

「うん。アキラは工業系に進んだからね。それに中学の時も二年になったらクラス別れちゃって。時々会って話したりはしたんだけど、卒業してからは全然。でも毎年年賀状送ってくれるんだよ。元気だよ、ってひとこと」


 そう言ってヒロは少し寂しそうに笑う。俺とヒロのなかできっと、いちばん綺麗な思い出になったあの日。想い出の中、傍で手を取ってくれた友人が少し遠く感じた。


「まあ、仕方ないよな。アキラにはアキラの生き方ってのがあるだろうし」

「隼人はいちいち大袈裟だね」


 牛乳とビール、それからワインのミニボトルをレジのカウンターに置いたヒロはそう言って顔を顰める。思い出したように、八十五番ひとつください、と俺の煙草を指差した。


「年齢確認を……免許証ありますか?」

「む……これでも二十歳です」

「免許証」

「……学生証でいいですか」


 ヒロは少しむっとして唇を尖らせる。まあ、どう見たってヒロはまだ高校生くらいにしか見えない。店員は学生証を受け取って眉間に皺を寄せ、まじまじと眺めてから、じゃあそれ押して下さい、とパネルの年齢確認ボタンを指差した。


「わ、笑うな」

「笑ってない。たぶん」

「たぶんって」








 夕食の後片付けを終えてテラスで煙草を取り出す。火を点けて白い煙を吐き出したら、ヒロが何やら雑誌を抱えて出て来た。サンダルをつっかけて、ぱたぱたと俺の隣まで来てにっこりと笑う。思わずつられて笑ってから、ぐしゃぐしゃとその髪を撫で回した。


「ぎゃ、髪ぐちゃぐちゃになる」

「お前猫っ毛だなあ。柔らかい。さわり心地いい。あー、可愛い」

「苦しいっ。ねえねえ隼人、これ見て」


 思わず抱きしめたら、ヒロは器用に体を曲げて俺の腕からすり抜けた。べたべたできるのは家の中くらいなんだから少しくらい、と文句を言おうとした俺に、雑誌を広げてみせる。


「……暗くてよく見えない。なに、温泉行きたいの?」

「温泉? ああ、それもそうなんだけど、ここ懐かしくない?」


 ヒロが、ここ、と指差したところに小さな写真が載っていた。温泉特集の写真がでかでかと乗っているページの、ほんの片隅だ。目を凝らしてよく見ると、どこか見覚えのあるようなないような景色。眉間に皺を寄せて黙り込む俺に、ヒロは妙に不満そうな目を向けた。


「覚えてないの? うっわ、隼人ってそういう……」

「ちょ、ちょっと待て。明るいとこで見せて」


 ヒロは拗ねるとめんどくさい。いつまでも繰り返し思い出しては、あの時、と俺をつつく。めんどくさいけど、拗ねている顔も可愛いなんて思ってしまっている俺が本当はいちばんめんどくさいんだろう。

 窓際まで寄って改めて雑誌を広げてみたけれど、どこにでもあるような川の風景を写した写真に思わずため息が出る。どこの川だ。


「もう、よく見てよ。この橋に見覚えない?」

「橋? えーと……」


 どこにでもあるような橋だ。だけど何故か懐かしさを覚える。大きな川にかかる橋。その向こうに鉄橋が架かっているのが見える。本当にどこにでもある風景だ。だけど。


「もしかして、これ」

「うん、うん」

「俺たちが雨宿りしたとこ?」

「そう! 正解! すごいね隼人!」


 目をきらきらさせて喜ぶヒロが可愛くて仕方がない。なんでこいつはこう、いくつになっても可愛いんだろう。

 灰皿に煙草を捩じ込んでから、これでもかとヒロを抱き締める。くるしい、と文句を言う声が聞こえたけれど、放してなんかやらない。


「あの橋ね。懐かしいな。あの時俺たち初めてキスしたんだっけ」

「……えっと、うん。隼人にとっては、そういうことになるかな」


 腕の中でヒロがくすくすと笑う。俺にとって、とはどういうことだろう。不思議に思って顔を覗き込んだら、ヒロは少し気まずそうに、だけどどこか照れくさそうに笑って誤魔化した。


「え、ちょ。なに。意味深だろ、それ。なあ、ヒロ」

「そんなことないし。僕、お風呂沸かしてくる!」

「は? 今週は当番俺だけど!」

「いいっていいって!」


 意味がわからない。俺にとってあの橋の下でのキスが最初だった訳だけど、ヒロにとってはそうじゃなかったってことなんだろうか。それなら、いつ。

 ものすごく気になる。気になるけれどヒロは自分が話す気にならないと口を割らないことは解っていた。だけどさっきの口ぶりからすると、そのうち問い詰められても構わないと思っているに違いなかった。


「なんかよくわからんが、いつか吐かせてやる」


 ヒロの落としていった雑誌を拾い上げて、改めて小さな写真に目を凝らす。写真のなかの橋は何だか頼りないほどに細い。あの日俺たちを守るようにして佇んでいた大きな橋は、ほんとうはこんなに小さかったのか。


「お風呂沸かしたよ」

「おう」


 リビングに戻った所で、風呂を沸かして戻ってきたヒロと鉢合わせた。ヒロはなにごともなかったような顔をして、俺を見上げる。ヒロはこういう、何でもない顔をつくるのが上手い。なにかに傷ついた日も、泣きたくなるような日も。だから俺は騙される。お前が傷ついていることに、気づいてやれない。

 思わず頬に手を添えたら、ヒロはゆっくりと顔を上げて目を閉じる。深いキスをしながら耳に触れたら、その肩が跳ねるように揺れた。そのまま耳に舌を這わせたら、ヒロの口から吐息混じりの小さな声が漏れた。


「……そーゆー声出すとさ」

「う……、うん」

「どうなるか、知ってる?」


 少し体を離してヒロを覗き込んだ。ヒロは俺を見上げ、戸惑ったように視線を泳がせる。それから息を飲んで、いちど俯いてから俺のシャツの裾を掴んだ。


「……知ってるよ」


 そう言って顔を上げ、少し照れたように笑った。


 







 ヒロと体を重ねたのはまだ数えるほどだけれど、その度にヒロは見たこともないような顔を見せてくれる。身体中で、持っている限りの愛をくれる。

 だから俺は時々怖くなるんだ。ここにある愛がいつか、消えてしまうんじゃないだろうか、と。

 不安で、だから何度も名前を呼ぶ。それに応えるようにヒロも俺の名前を呼んだ。まるで、それ以外の言葉を忘れてしまったかのように。

 合わせた肌の温もりも絡めた指も、掠れた吐息に溶けていく。

 やがて静寂を取り戻した部屋のなか、眠そうな顔をしたヒロがぼんやりと呟いた。


「そうだ、長野に行こう」

「……古いな。それ京都だし」

「え? なにそれ」


 ジェネレーションギャップなのかカルチャーショックなのかよくわからない。苦笑いを返したら、ヒロは困惑した表情を浮かべたままむくりと起き上がった。


「隼人って時々なに言ってるかわかんないや。お風呂入ってこよっと」

「お前ね……。風呂、一緒に入る?」

「やだ。狭いし。隼人変態だし」

「……長野、行く?」

「うん、行こう。明日から三連休だし。隼人も休み取ってたよね」

「うん。休み」


 じゃあ宿を取らなきゃ、なんて考えていたらいつの間にか眠りに落ちていた。

 夢のなかで、ちいさな水音が聞こえる。やがてそれは大きな川の流れの音になった。俺とヒロはあの橋の下できらきらと光る水面を眺めている。

 空は茜色で、鉄橋を渡る電車が音も立てず滑るように通り過ぎて行く。柔らかな風が頬を撫でて、すぐ傍には車軸の曲がった自転車が転がっている。ペダルにくっついた雨上がりの水滴が僅かな紅味を帯びて、地面の草にぽたりと落ちてきらりと光った。


 ああ、これはあの日の夢だ。あの日俺とヒロはこんなふうに、きらきらと夕陽に溶けて行く景色を見ていたんだ。

 やがて空に灰色の雲がかかり、厚い雲の隙間から天使の梯子が降りてくる。ヒロはそれを指差し、幸せそうに微笑んだ。


『隼人、僕もう行かなくちゃ』


 何処へ、と訊く間もなくヒロは遠ざかって行く。どうして。

 ヒロは振り返り、手を振る。そうして風に紛れるように一瞬で消え去ってしまった。


『ヒロ、なんで。どこ行ったんだよ。帰って来い! ヒロ!』


 何度その名前を呼んでも、ヒロの姿はどこにも見当たらない。そうだ、もしかすると天使の梯子で天国へ行ってしまったのか。背中がぞくりとして、空を見上げた。


『ヒロ! そんなとこ行っちゃだめだって!』

「え、長野だめ?」

「は、長野?」


 額に置かれた手の温もりに、重い瞼をこじ開けるようにして目を開けた。ヒロがすぐ側で俺を覗き込んでいる。


「あれ……。ヒロだ」

「ヒロだよ。めちゃくちゃうなされてたけど、怖い夢でも見た?」


 重い体を起こして、額に浮き出た汗を拭う。何だか、前にもこんな夢を見た気がする。あの時は確か保健室で。目を覚ましたら智也の腕を掴んでいたんだっけ。


「お前がどっか行っちゃう夢見た」

「僕が?」

「うん。呼んでも、どこにもいなくて。あー……びっくりした」


 ヒロは持っていたタオルで俺の首元の汗を拭いて、困ったように眉を下げる。それから枕元に座り込んで、そっと俺の肩を抱いた。


「どこへも行かないよ。大丈夫、大丈夫」

「……ヒロ」


 ヒロの右手が背中を撫でる。手のひらの温もりが心地よくて、目を閉じた。大丈夫、と繰り返すヒロの声がやさしく耳に届いた。








 風呂上がりにビールを一本だけ空けてベッドに戻ると、ヒロは静かな寝息をたてていた。ベッドの傍に座って、その髪を掬う。ほそく柔らかな髪は指先を滑って、ぱたりと枕に落ちる。草の上を滑り落ちる雨粒のようだと思った。


 俺はなにを怖がっているんだろう。今目の前にヒロがいて、どこへも行かないよと手を取る。確かにヒロはここにいるけれど、いつも何処かへ行ってしまいやしないかと不安になる。これは夢で、目をあけたらヒロはどこにも存在しなくて。


 ――怖がったっていいんですよ。

 花村の声が蘇る。こんな時に、と思う。少し悔しい。こんな瞬間に俺の気持ちを軽くするのが花村なんかの言葉だということに、何だか舌打ちをしたくなる。あいつはどこかいけ好かないけれど、嫌いになれない。

 ――怖がっていいんですよ。だから、大事にできるんです。


 ヒロと再会したあの日から暫くして、花村はこの家にやってきた。

 きょろきょろと部屋を見回してから、「どうして先輩の家なのにこんなに片付いてるんですか? あ、ヒロ君が掃除してるのか」なんて失礼な事を言って笑った。

 それから俺とヒロに酒を勧めつつ、にやにやしながら新しく出来た彼氏について延々とのろけて帰って行った。あいつの真っ直ぐに恋愛に突き進める力というのは、どこか見習わなきゃいけない所もあるのかもしれない。ばかみたいに、幸せそうだった。

 もっとも、その新しく出来た彼氏とはすぐに別れてしまったようで、今度はあいつの愚痴を延々と聞かされることになった。


 ヒロの隣に潜り込んで、手を握る。ぎゅ、と握り返した力が思いの外強くて、思わずその顔を覗き込んだ。ヒロは眠ったまま口元を緩め、俺の肩に頬を押し付ける。はやと、と小さな声が聞こえた。初めて俺の名前を呼んだあの日を思い出す。

 葉桜に僅かに残った花びらが、時折思い出したように空に舞い上がる、そんな季節だった。

 これからヒロと何度あの季節を迎えられるだろう。これから何度、その名前を呼べるだろう。できなくなるのは明日かもしれないし、何十年後かもしれない。誰にもわからないから、怖い。怖いから、大事にできる。

 もう一度握った手に力を込めたら、ヒロがちいさく笑った気がした。




 


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