水の音・13
◆◆◆◆◆
――本当は。
本当はどこかに願うような気持ちがあった。願うような静かな気持ちで、その手を離すことを望んでいた。
お前が笑ってくれるなら、なんて高尚な理由でもない。ただ、自分勝手に。
自分勝手に俺は、怖がっていたんだ。
すぐそばで笑うお前を見る度に、自分からは見えない世界の片隅に小さな歪がうまれてしまうような、説明の付かない感覚。それをいつかどこかで目にしてしまうのが、怖かった。
ヒロの前ではひたすらに強い自分で居たかったし、ただ優しく、いつもヒロの望むかたちでそこに居たかった。だけど俺の手を取ったヒロを見下ろした瞬間に、これまで何とかかたちを留めていた「兄」としての自分が跡形もなく消えてしまったのを感じた。
この小さくてつめたい手を、ただ優しく包み込むなんて事はもう、出来そうにない。
だから父の言葉に否定の意思を感じたとき、心の何処かでなにかが軽くなった気がしていた。もう俺がヒロを傷つけてしまうことは、ない。
けれどヒロの、今にも泣き出しそうな顔で父に訴える姿をみた時。
もう、どうしようもないんだと諦めたんだ。
心の底から大切にしたい、けれど壊してしまいたくもあるそのちいさな光を。俺はその心ごと丸呑みしてしまいたいと思ってしまった。
なんてグロテスクな表現だと思う。だけど今の俺の心境にあまりにしっくりきてしまう。その感情を心の奥に追いやりながら、気づけばヒロとふたり、父に頭を下げていた。
父に対して、父親だと思ったことはない、と口走ったのはもう七年も前のことだ。あれは本心だった。だけど今は、想い出の中よりも少しだけ小さくなってしまった父に対して思うことはあの頃とは違う。ただ、俺とヒロの父親であって欲しい。それだけだった。
ずいぶん自分勝手なものだとは思う。だけど七年という歳月はそんな、赦しにも似た感情をかたちづくるのに充分な時間だったんだ。
白とブラウンを基調にしたつくりの小さな菓子店で、大きなケーキの箱を受け取る。カウンターに所狭しと並べられた小振りで華奢な生菓子や、作り付けの棚に置いてある可愛くラッピングされた焼き菓子に目を奪われながら店を後にした。 店に行く前に買ったコーヒー豆と布のフィルターの入った買い物袋を右の腕に通し、小さな紙袋を左の手首にかけてマンションのパネルの前に立つ。暗証番号を押して開いた自動ドアに滑り込み、ケーキの箱の角でエレベーターのボタンを押した。
リビングのドアを開けると、ソファーの上でクッションとクッションの間に埋もれるようにして眠っているヒロがいた。ローテーブルの上には読みかけの文庫本が置いてある。
キッチンに入ってケーキの箱とコーヒー豆をカウンターに置いてから、紙袋を寝室のサイドテーブルの上に置いた。ブランケットを引っ張りだして、ヒロの肩にかける。
部屋の中はエアコンが効きすぎている。俺が仕事に出掛けるすこし前、ヒロが暑い暑いと騒いでどんどん温度を下げていた。
「十八度って……」
呟いて、設定温度を上げる。キッチンに戻って、ワイングラスやチーズ、ケーキナイフや小皿を並べた。
この部屋にはテーブルはない。カウンターをテーブル代わりに使っていたけれど、二人用の小さなテーブルを買って窓辺に置くのも悪くない、なんて考えた。
昨日父と話をしてから、ふたりであれじゃないこれじゃないと大騒ぎしながら荷物を纏めた。さすがに全部は持って来れなかったけれど、暫くは不自由しないはずだ。
父は部屋から出てこないつもりらしかったけれど、荷物を纏めた俺たちは強引に和室の襖を開けた。目を丸くした父は気まずそうに苦笑いをして、煙草を揉み消した。
「行くのか」
父の言葉に、俺とヒロは小さく頷いてみせた。
「体だけは、大事にな」
呟くように言った父に、お互いね、と返したヒロ。父は少しだけ口の端を上げて、手のひらで俺たちを追い払うような仕草をした。
ヒロと顔を見合わせて苦笑いしてから、そっと部屋を出た。タクシーの中でヒロはただじっと窓の外を見ていた。
「……ヒロ。起きて」
頬を指先で突いて名前を呼んだら、思い切り眉間に皺を寄せて片目を開けた。それから両目を見開いて、きょろきょろと辺りを見回す。状況が把握出来ていないようだ。
「あれ、隼人? あ、そっか、そうか、そうだ」
「ぶ。なに言ってんのお前。目覚めた?」
「覚めた! 一気に覚めた! そっか、ここ隼人の家だ」
改めて辺りをぐるりと見回してから、気持ちよさそうに大きく伸びをする。その手をそのまま俺の肩に乗せたから、背中に手を回して抱き締めた。ヒロがくすくすと笑った振動が伝わる。
「ヒロの家でもあるし。昨日からな」
「うん、なんか不思議な感じ」
ヒロの腕が背中に回って、これでもかと密着する。ちょっと苦しい。思わず小さな呻き声が漏れた。ごめんごめん、と言いながらもヒロは力を緩めない。諦めて、ヒロの髪を撫でた。相変わらずさらさらとした柔らかな髪だ。指を絡めてもすぐに解けて落ちる。そんなふうにどこかへ行ってしまわないように、首の後ろから髪に指を差し込んだ。ヒロがちいさく笑う。
「隼人お帰り。待ってたよ」
「……ただいま、ヒロ」
お帰り、の響きが嬉しくて少しだけ泣きそうになった。こんなことで、と思いながらただいまを返す。
お帰り。ただいま。その言葉を交わしたのは七年ぶりのことだ。
ごくりと息を飲み込んでから、ヒロの唇に軽いキスを落とす。ヒロの体がちいさく震えて、顔を覗き込んだらその大きな目から一筋、涙がこぼれ落ちた。
「隼人」
「うん?」
「隼人」
「……うん」
「隼人」
「……何だよ」
ヒロの、俺を呼ぶ声が懐かしくて愛おしくて、胸が苦しくなる。涙を指先で拭って、笑ってみせた。つられたのか、ヒロも少しだけ、笑う。
「名前呼んだら返事が返ってくる」
「……ああ」
「隼人」
「はい」
「隼人」
「うん。ここにいるよ」
「……お帰り」
「……ただいま」
あの頃より少しだけ広くなった肩を抱き締めて、もう一度ゆっくりとキスを落とした。やわらかな唇がかさなって、ちいさな水音をたてる。ヒロは照れたように下を向き、俺の手を取って、えへへ、と笑った。
「ケーキ買ってきたぞ。ちゃんと書いてもらったからな。ひろくんおたんじょうびおめでとう」
「うっわ、ほんとだ。全部ひらがなって……。でもすごく美味しそう。どこのケーキ?」
「なんだっけ……名前わかんねえや。ヒロ好きそうな感じだから今度一緒に行こうか」
「やったあ」
カウンターの上で、大きなケーキにロウソクを立てた。赤い、少し大きめのロウソクが二本。ライターがかちりと音をたてて、ちいさな火が灯る。
ケーキ大きすぎて食べきれないね、なんて言うヒロの言葉に苦笑いを返しながら部屋の電気を消した。部屋が一瞬でセピア色に染まって、カーテンに俺とヒロの影が揺れる。まるで世界にたった二人きりになったみたいだね、とヒロが呟く。それからふたりでハッピーバースデイを歌って、笑い合った。
「さいごハモった。無駄に綺麗。録音しとけば良かったね」
「毎年歌ってやるよ。ほら、消して」
ヒロは大きく息を吸い込んで、二本のろうそくを吹き消した。
「おめでとう。二十歳だな」
「ありがと。オトナオトナ。わーい」
「わーい、ってどんなオトナだ……」
手を叩いて喜ぶヒロにもう一度キスを落として、部屋の電気を点けた。
「ろうそくって綺麗なんだけど消した後くさいよね。もちょっとどうにかなんないのかな、これ」
「あー、ね。まあ臭わないやつもあるんだろうけど。あとアロマとか」
「アロマだとケーキの匂い的にどうなんだろう」
「……色々言ってないで食え。ほら、いちばんでっかいやつ」
「隼人切るのへったくそ。潰れてるじゃん。ていうか大きすぎ。なに四分の一って」
「いいんだよ。気合入れて食わねえとすぐ腐っちまう」
やっぱりと言うか、当たり前にケーキは甘かった。バイト先の店の連中や店長に評判の店を教えてもらったけれど、誰が食うんだと勘ぐられてしまった。俺が甘い物が苦手だということは大体の奴が知っているようだ。適当に誤魔化したけれど、最後には「彼女によろしく」なんて言われて見送られてしまった。
美味しい、美味しいと繰り返しながら大事そうにケーキを口に運ぶヒロを眺めながら、ワインを冷蔵庫から取り出した。ラベルの製造年を指さしてヒロに見せる。
「見ろ、ベタだろ」
「え? あ、ほんとだ。べったべた。僕の生まれた年なんて良く覚えてたね」
「ばか、覚えてるに決まってるだろ。俺ワインのことはよくわかんねえから美味いかどうか知らねえけど」
「生まれてはじめて飲むお酒が自分の生まれ年のって、なんか感動」
「だろ? いいだろ、こういうの」
ヒロが喜んでくれたのが嬉しくて得意になって笑って見せたら、なにがおかしかったのかヒロがけらけらと笑い出した。腹を押さえて涙目になって笑っている。何だかよくわからないが、まあ笑ってくれるなら良かった。
「隼人ってほんと、可愛いよねえ」
「は? なに、どういう事?」
「可愛い。ほんっと可愛い」
「え、だから何が」
「大好きだよ」
呆気に取られている俺の頬に、ヒロが軽くキスをした。そのあと照れたように下を向いて、ワインあけて、と呟いた。可愛いのはお前だ。
窓辺に近いフローリングの床に座り込んで、出前のピザをちょこちょこと摘みながらワインとビールを傾ける。
どうして床なんかに座り込んでいるのかといえば、狭いカウンターにピザの箱が置けなかったからだ。皿に移せばいいと主張するも、洗い物が増えるのは面倒だと言ってさっさとソファーをずらして床にセッティングしてしまった。ヒロは時々妙に男らしい。
そして結論から言えば、俺はワインが苦手だ。酸っぱいのかえぐいのか甘いのかよくわからなくて、ひと口飲んでからあとはヒロにやった。ヒロは美味いと思ったらしく、ひとりでもう半分開けてしまっている。
「お前、酒強い?」
「え、知らないよ。でも酔わないね。ちょっとふわふわしてるけど」
フルボトルの半分を飲んでしまっても、顔色ひとつ変わらない。俺の密かな計画では、グラスのワインを飲み干したヒロはふらふらと俺にもたれ掛かってそのまま寝室へ、のコースだったはずなんだけど。
「……まあいいか」
「なにが? ねえねえ隼人、コウって今どうしてるの?」
「え、コウ?」
「智也と淳は結構連絡取ってるからいいんだけど、コウの話全然聞かないから」
「……コウは」
中学時代、いわゆる青春をともにした仲間の一人だ。コウは確かに俺やヒロの理解者であろうとしてくれていたけれど、どこかで受け入れることを拒んでいた一人でもあった。
だからと言う訳でもないだろうけど、中学を卒業して別々の高校に入学してからは殆ど連絡を取らなくなっていた。今ではどこで何をしているのかもわからない。
そうヒロに告げると、ヒロは少しの間俯いて短いため息を吐いた。
「そっか。まあそうだよね。コウにはコウの世界があって当然だし、離れちゃうのも別に悪いことじゃないんだよね。大人になったってことだよね」
本当は中学を卒業する時にちゃんと話をすれば良かったんだろう。だけど躊躇った。卒業証書を手に校門を出て行くコウの後ろ姿を、何も言えずに見送った。
きっとそれが最後になるんだろうということは、きっと俺にもコウにもわかっていた。だけど、呼び止められなかった。俺は、臆病だったんだ。
「否定されるのは怖いよ。だから俺は今でもコウが怖い。街で会ったら目合わせらんないくらい」
「うん。仲よかっただけにね。無理に理解してもらうのはきっと間違ってるから、それでいいんだと思う。こういう気持ちは、きっとコウも解ってくれるよ」
ヒロはいつの間にか、こういう表面だけの慰めが上手くなった。表面だけの慰めでなければどうしようもないことも、きっとわかっている。俺とコウのあいだにある小さな溝はきっと俺とコウにしか見えないもので、そこに立ち入ることは出来ないとわかっているんだろう。
「なんかヒロ、大人になったなあ」
「なにそれ。隼人だって大人になったでしょ。二十二だっけ」
「歳の問題じゃなくて。あ、こら手酌すんな。言えよ」
ボトルを持ち上げてグラスに注ごうとしている手を取ったら、むっとしたように唇を尖らせて俺を見上げる。
「いいじゃん別に。ねえ、じゃあさ、僕と離れてるあいだ誰かと付き合ったりした?」
「してねえよ。相変わらずそれなりにモテたけどな」
ふふん、と鼻を鳴らして笑って見せたら、ヒロの眉間に深い皺が寄った。そのままの顔でピザを摘んで口の中に押し込む。
暫くの間無言でもぐもぐと口を動かし、ごくりと音をたてて飲み込んでからワインを口に含んだ。心なしか、目が据わってきているような気がしなくもない。
「僕、先輩に告白された。一昨日」
「え、一昨日? 先輩? 誰?」
一昨日といえば、俺とヒロが再会した日じゃないか。じゃああの公園で会う前にそんなことがあったって言うのか。先輩って、大学の先輩か。
「はーやーと、目が怖い! 先輩は先輩だよー。優しいんだよ。こう、僕のこと抱き締めて、好きだ! って」
「あああ、そう、ああそう。ふーん。え、先輩って男? 女?」
こういう関係だと相手の性別から確認が要るから何だかややこしい。どっちかっていうと女だったほうが安心できるんだけど。いや、そもそもヒロは女の子に興味があるのか。どうなんだ。
「男だよー。峯岸先輩はねえ、僕のために留年したんだよ。一緒に卒業したいんだってさー」
「へ、へええ。ずいぶん情熱的なバカだな」
何だこれは、煽られているのか。ヒロはワイン片手に嬉しそうに笑いながら、視線を斜め上に上げる。その先にぷかぷかと浮かんでいるであろう峯岸先輩とやらの姿を、手のひらで跳ね除けた。ヒロはそんな俺を見てまた笑う。
「で、告白されて、どうしたんだよ」
「どうしたって?」
「だから、お前はそいつのことどう思ってんのって」
どうもこうもない。今俺の目の前に居るんだからその答えは明白な訳だけれども、何だか心の中がざわざわと音をたててしまう。ヒロはまた楽しそうに笑ってから、ワインを注ぎ足した。何回言っても手酌する。
「あ、ワインなくなった。もうないのー?」
「……酔ったな。もうねえよ。水飲め水」
「えー、水ぅ? やだ! ワインがいい!」
酔ったら駄々っ子になるのか。可愛いけどめんどくさい。足をばたつかせて騒いでいるヒロにペットボトルの水を渡したら、ぶんぶんと首を横に振る。そんなことしたら余計に酔いが回ってしまうんだけど。
「ワインもうないってば。取り敢えず酔ってるから水飲め。な?」
「酔ってないよ。なに言ってんの」
「じゃあ立って歩いてみろ。まっすぐ歩けなかったら水な」
「なにそれー。え、僕歩くの? 立てるの? 立てなーい!」
立とうとしてソファーに掴まったはいいけど、一度中腰になったと思ったらそのまま座り込んでしまった。そりゃあフルボトルを一人で空けてしまえば酔わない訳はないだろう。へたり込んだヒロはなにがおかしかったのか、けらけらと笑い出した。腹を抱えて、息ができなくなるほど笑い転げている。これはもしかして笑い上戸か。
「あははははは! どうしよ、止まんない! あっはっは!」
「……ほら、水」
「あはは、お腹痛い! うん、飲む」
大笑いの合い間に水を受け取ったヒロは息を整えてから、素直にゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。それからひと息ついたかと思うと、こんどは噎せ返って転がった。何というか、賑やかな奴だ。今度からヒロにはワインのミニボトルを買ってこよう。
「大丈夫か? 気管に入った?」
「だ、大丈夫。大丈夫」
肩で息をしながら、とろんとした目で俺を見上げる。顔と顔の距離があまりに近かったから、吸い寄せられるように顔を近付けた。
その途端にヒロは俺から離れて、下から見上げるようにして床に両手を付く。じっとりとした目で俺を見て、それから少しのあいだ黙り込んだ。
「……ど、した? なんか顔についてる?」
「ねえ、聞きたいんだけど」
俺の質問に弾かれたような勢いで頭を上げて、そう言ってから小さく息を吐き出す。酔ってはいるようだけど、意識ははっきりしているように見える。
「聞きたいって、なにを。別になんでも答えるけど」
ヒロに隠し事をする気は更々ない。まあ、もしかしたらこれからそういう必要も出てくるのかもしれないけれど。
ヒロは大きく頷いた俺を見て満足気に目を細め、それから躊躇うように視線を泳がせた。床に置かれたワイングラスが倒れてしまいそうだ。思わず手を伸ばそうとしたら、ヒロの右手がグラスの脚を掴んだ。手を思い切り伸ばしてソファーの前に置かれた小さなテーブルの上に置いて、ふう、と息を吐く。それからゆっくりと口を開いて、また俺を見上げた。
綺麗な目だ。本当にこの世界に天使なんてものが存在するとしたら、それはきっとこういう目をしているんだろう。なんてことを本気で考えてしまうくらい、綺麗な目をしている。天井の灯りがゆらゆらと、その黒目のなかで揺れている。
「愛されなかった痛みと、愛せなかった痛みって」
どこかで聞いたセリフだ、と思ったら自分が昨日父に言ったセリフだった。ヒロはそれを口にして、唇を噛む。
「隼人は、誰を愛せなかったの?」
「えっと……」
確かに俺は父にそう言った。愛せなかったというのは俺が中学の時に恋人ごっこのようなものをした相手の、綾子さんだ。不意に瞼の裏にあの日の不器用な笑顔が浮かんで胸の奥がほんの少し、痛くなる。今は、幸せだろうか。
ヒロは言ったことを後悔したのか、隼人が言いたくないなら、なんて呟いている。だけどその目はちらちらと俺を見て、聞きたくて仕方ないのはどう見ても明白だ。
覚悟を決めて、残り少ない缶の中身を飲み干した。ごくり、と喉が鳴る。
「……綾子さん。覚えてる?」
「あ、うん。ブルームーンの人だよね」
「そう。俺と綾子さんが一時期、付き合ってたのは知ってる?」
そう言うとヒロはむっとしたように唇を尖らせて、こくりと頷いた。
綾子さんは俺を愛してくれたけれど、俺はヒロしか見えていなかった。綾子さんの心のなかに自分が居座っていることすら、気付けなかった。ずいぶん傷つけてしまったと思う。こんなことで俺が痛みを感じるのはきっと思い上がりなんだろうと思うけれど、どうしようもない。痛みを感じる他に、あの人を思い出す術を俺は知らない。
ゆっくりと話して聞かせると、ヒロはじっと俺の目を見て手を伸ばした。頭にヒロの手が乗って、何度も何度も撫でられてしまった。俺は慰められているのか。
「傷つけたことって、どうして忘れてしまえないんだろうね」
頭から下りてきた手が、缶を握ったままの俺の手を包み込む。アルコールのせいか、いつもより体温が高い。
「人を傷つけといて自分が痛いなんてずいぶん自分勝手だからさ。本当は誰にも言わないでおくのが正解なんだろうけど」
「いいよ。僕たちが今更なにかを正解か不正解かで分けてもね」
ヒロはそう言って苦笑いしてみせる。そう言われてしまえば身も蓋もないというか。まあそうだよな、と呟いたら、今度は楽しそうに笑ってみせた。
「で、愛されなかった痛みのほうは?」
「それは」
言えばきっとヒロを傷つけてしまうんだろう。だけど、ここで言ってしまわなければもう二度と口にすることは出来ないんだろうと思った。傷ついても、傍にいれば。俺はここにいて、ヒロが目の前にいる。だから。
「……親父、だよ」
ずいぶん前の話だ。だけど、ただの思い出に出来ない自分がまだここにいる。だけど口にしてしまえばきっと、飲み込めてしまうくらいの大きさにはなる。
あの頃は寂しいなんて思わなかった。いや、寂しいと自分が感じていることに気づかないふりをしていた。俺が寂しいなんて思ってしまえば、きっとそれは母に伝わって苦しめてしまう。無意識にそう思って、そんな痛みを感じている自分をどこか遠くへ追いやっていた。
その事に気付いたのは母が倒れたその時だった。頼れる身内もなく、父に電話をしようと何度もその番号を探した。だけど結局通話ボタンを押すことができずに、自分がどれだけ臆病なのかを思い知らされただけだった。
ヒロは目を見開いて、俺を見上げる。不安に揺れたその目に、なるべく優しい笑顔がうつるように笑ってみせた。
「大丈夫。今愛されてないって思ってる訳じゃないよ」
「……うん。お父さんは、お父さんなりに隼人のこと大事に思ってるよ」
父を庇うようにそう言って大きく頷くヒロの手を握り返した。
「わかってるよ。知ってる。でも子どもの頃は痛かったな。どうしたら親父が帰ってくるんだろうって本気で考えてたし、プレゼントもなんか妙にズレてんのが悔しくてさ」
「プレゼント?」
クリスマスや誕生日に友人たちが両親から贈られるプレゼントは、その時に流行りのゲームやおもちゃだった。だけど俺の手元に父名義で送られてくるプレゼントはいつも、派手な色使いの海外のおもちゃや、なにやら分厚い絵本だった。何の相談もなく送られてくるそれを見て、子ども心に父は俺を理解する気がないんだと悟った。
俺が諦めて箱を開けもしないのを見た母が、もう贈らなくてもいいと断りの手紙を書いたと知ったのは、ヒロと父があの家を去ったずいぶん後のことだった。
「けど、親父は親父なりに考えてくれてたんだよなあ。小学生に英語だらけの児童文学はどうかと思うけど」
「なんていうか、お父さんらしいね」
「今だったらそう思えるんだけどな」
不器用な父だった。だけど、だからヒロと出会えた。
「今は感謝してるよ。色々間違いだらけなのかもしれないけど、今更だし」
窓の外に、小さな雨の音が聞こえる。この部屋は三階で、マンションを囲うようにして植えてある常緑樹の葉に雨があたる音が響く。
あの日の、やさしい雨の音が蘇った。ちいさな声でうたうヒロの横顔がはっきりと思い出せる。
「隼人、僕ね」
「うん」
「隼人に会えて良かったと思ってる。そう思えるまでにずいぶんかかったけど」
窓が、風にがたがたと揺れた。カーテンの隙間から覗くガラスに、ちいさな水滴がくっついた。ベランダの小さな照明を反射して、きらきらと揺れる。
「隼人を好きになって、その時後悔したんだ。出会わなきゃ良かったって」
「……うん」
「出会わなかったらこんな苦しまずに済んだのに、って。ずっと思ってた」
俺と同じようにヒロも苦しんでいた。兄弟として出会わなければこんなふうに苦しむこともなかったけれど、俺たちは兄弟でなければ会うこともなかったんだ。
「でもなんかね。今は違う。これからだって多分、色々苦しいんだと思う」
「うん」
「でも隼人が傍にいてくれたら。僕をずっと好きでいてくれたら」
「うん」
「色々苦しくてもいいや」
「そこはホラ、乗り越えられる、とかだろ。言うならさ」
窓の水滴に雨粒がまたぽつりとくっついて、流れる。涙みたいだなと、思った。
「違うよ。乗り越えられないことだってあるんじゃないかな。乗り越えずに飲み込んで、無理やり自分を納得させるしかないっていう。そういう事って、たくさんあると思う」
「……何だかよくわからん。飲み込むのか」
「飲み込むんだよ。納得できなくても、違うってわかってても」
全てを乗り越えるんじゃない。間違っていると解っていても、それでも何も言えずに過ごさなきゃいけない事がある。ほんとうは妥協なんてしたくないけど、妥協したようにみせかけて笑わなきゃいけない事。
「僕たちが一緒にいるってことはね。きっとそういうことなんだよ」
「……うん」
俺たちが一緒にいることはそんなに間違っていることなのか、と声を上げたい気持ちもある。だけど、飲み込む。
「飲み込めるだけ飲み込んで、時々こんなふうに話して吐き出せばいいんだよ」
「そっか。酒飲みつつな」
「うん。愚痴大会やろう」
「お前すぐ溜め込むだろ。溜め込み禁止な」
「それは隼人でしょ。何も考えてないような顔してぐだぐだ悩むの得意じゃん」
昔どこかで誰かに同じような事を言われた気がする。それにしても何も考えていないような顔というのは、どうなんだ。俺はそんなにアホ面なんだろうか。
思わず自分の顔を両手で挟んで、窓に映してみる。確かに脳天気な顔に見えなくもない、ような。
「なあ、俺そんなに……」
振り返ったら、ヒロがソファーの足元に凭れて目を閉じていた。静かな寝息も聞こえる。今の今喋っていたはずだけど。
長い睫毛が頬に影を落とす。そっと頬を撫でて、白い額に優しく口づけた。
寝室の窓にかかる遮光カーテンの隙間に、通りを走る車のヘッドライトの光がゆっくりと滑る。ざ、と水溜りを踏む音が響いて、なにごともなかったように静まった。
ヒロをベッドに横たえて、すぐ傍に腰を下ろす。ヒロの髪をゆっくりと撫でてから、サイドテーブルに置いた袋の中身を取り出した。
小さな四角い箱には、シルバーの指輪が入っている。取り出して、ヒロの左手の小指に嵌めた。何の飾りもないシンプルなものだけど、ずっとヒロに贈りたかったものだった。
「誕生日おめでとう。愛してるよ」
唇にキスを落として、指先で頬をなぞる。ヒロがくすぐったそうに小さな声を上げた。
ヒロの夢の中まで入り込んで手を繋いでいたいけれど、そうもいかない。どうかこの指輪が穏やかな眠りを守ってくれますように。そう願いを込めて、そっと指輪に口づけた。




