水の音・12
「……親父には、解ってほしいと思ってる」
隼人は僕の目を見ながらそう言って、ゆっくりと父に視線を移した。
父は僕と隼人の繋がれた手をちらりと見てから、咳払いをする。口を開いて息を吸い込んだら、ひゅっ、と小さな音が漏れたのが聞こえた。
「……そういうのを、恩を仇で返す、と言うんだぞ」
「違うよ。どうでも良かったら何もかも捨てて二人で遠くで暮らすっていう選択だってある」
隼人は僕の手を握ったまま父に頭を下げた。ヒロ、と声を掛けられ慌てて隼人に倣う。
「親不孝者でごめん。親父の立場もあるって解ってる。だけど俺はヒロ以外考えられない」
「……ヒロはどうなんだ」
父の声は決して穏やかではなかった。ほんの少しの間にリビングに広がった緊迫感がさらに増したのを感じた。
「隼人の言葉を借りるなら、僕も隼人以外には考えられない。間違ってるのは解ってるけど、お父さんには認めて欲しいと思ってる」
ぎゅ、と指先に力を入れる。同じだけの力が返ってきて、隼人の横顔を盗み見た。隼人も、僕を見ていた。
視線が、絡まる。
――七年ぶんの熱が一瞬で交錯する。
「だいたい周りから反対されれば燃え上がるものだ。勘違いじゃないのか」
「七年待ったんだよ、親父。あの日ヒロに出会ってから何度も、勘違いだって自分の気持ちを否定してきた」
だけど出来なかった。そう隼人は続けた。
何度も僕を忘れようとしてきたけれど、僕に会う度に自分の気持ちに気付かされた、と。
「だから離れていればいつか忘れられるもんだと思ってたんだ。忘れて、ちゃんと誰かと結婚して家庭作って。それが一番幸せなんだって、自分に言い聞かせてた」
「そうしなかったのはどうしてだ。お前、中学の頃結構モテてたじゃないか」
からかうように言った父に、隼人は苦笑いを返す。
「あの頃は付き合ってみたりもしたけど。でもだめなんだよ。ヒロじゃない、って思っちゃって」
「僕じゃない?」
「うん。今目の前で笑ってるのが、なんでヒロじゃないんだろうって」
「そりゃあ失礼な話だな」
父がそう言って口の端を上げたから、気持ちが少しだけ軽くなった気がした。父は僕らの話を笑って聞いてくれている。だから、僕も、と話を続けようとしたけれど、すぐに父の表情は堅くなってしまった。吐き出そうとした言葉をぐっと飲み込む。
「お前たちには悪いが、俺から言えることはひとつだけだ」
言ったあと、コーヒーを啜る。ごくりと大きな音が聞こえて、父は顔を顰めた。
「ちゃんとした家庭を作ってまっとうな生き方をしろ」
持ち上げたコーヒーカップを、とん、と音をたてて置く。やけに乾いたその音が、まるで心臓の奥に張り付いたような気がした。父は僕と隼人を見てから、畳んだ新聞紙に手を伸ばした。
「お父さん」
口を真一文字に結んでしまった父を呼んだら、父はゆっくりと目を細めながら顔を上げた。
また、どこからかチャイムの音が聞こえてくる。小学校の校庭で口の中に入ってしまった砂の味が蘇った。ごくりと唾を飲み込むと、喉の奥に細かな苦い粒がざらりと広がる。
「色々と言葉を用意して来たんだろうがな、なにを言われても俺の考えは変わらんぞ。お前たちが不幸な道に足を踏み入れるのを黙って見過ごせとでも言うのか? そんなことが出来る親がいると思うのか」
「お父さん、ひとつ聞いてもいい?」
「……何だ」
父の言っていることは痛いくらいに理解出来てしまう。これから僕が口にする言葉は父の言うとおりずっと前から用意していた言葉で、そしてそれがどれだけ父を傷つけてしまうのかも、僕はわかっている。だけど。
「お父さんは、僕や隼人がどうなったら満足なの?」
「ヒロ」
窘めるように隼人が僕を呼んだ。見上げると、隼人はちいさく首を横に振る。隼人の言いたいこともわかるけれど、もう引っ込みがつかない。引っ込む気なんて、ない。
父は僕をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「……どういう意味だ」
「このままお互いを諦めて愛情もない家庭を作って暮らすのが僕らにとって幸せだって、本当に思ってる? その人をいちばん大切に思ってあげられない罪悪感を抱えたまま過ごす事がどれだけ不幸な事か、お父さんがいちばんよく解ってるはずだよ」
きっと一緒に暮らしているうちにそれなりの愛情は生まれるものなんだろう。だけど心の隅ではずっと隼人を求めている。その罪悪感はきっといつか平和な家庭を壊してしまう。父はそんな事、身を持って解っているはずだ。
父は涼子さんと隼人を裏切っているという罪悪感を消すことが出来ずに、僕と母を置いて日本へ帰ろうとしたんだ。だけど家族の元へ帰った父は結局裏切ってしまった罪悪感に耐えることが出来ずに、いちばん大切なものを守れなくなってしまった。
父が心から愛していたのはきっと、涼子さんただ一人なんだ。だからこそ、その裏切りが許せなかった。だからこそ、今の今まで連絡ひとつ出来ずにいたんだ。
「脅しか」
「そう。脅しだよ」
「ちょ、ヒロ」
隼人が慌てて僕の口を塞ごうと手を伸ばす。その手をぐっと握って、繋がった手を父の目の前に差し出した。
「お父さんがどうして反対するのかなんて、解ってる。お父さんの気持ちだって痛いくらい解るよ」
「……ヒロ」
「だけど僕は隼人じゃなきゃ嫌だ。僕らのこういう気持ち、お父さんなら解るはずだよ。知ってるはずだ。だから言って欲しいんだ。認めるって、たった一言。責任を押し付けたりはしないから。もしお父さんの仕事に影響が出るって言うなら僕らはどこか遠くに行く。邪魔にならないようにするから、隼人と一緒にいさせて」
本末転倒だ。どうして父を説得することにしたのか立ち返れば今の僕の言葉はあり得ない。だけど捨て身にならなきゃ父の言葉は引き出せないと思った。
「……お前たちは兄弟なんだぞ。わかってるのか?」
父が次に口を開いたのは、コーヒーがすっかり冷めた頃だった。テーブルの上の新聞紙が風で捲れた音で、我に返ったように瞬きを繰り返した。
「わかってるよ」
暫く押し黙っていたから、喉の奥がかさりと音をたてた気がした。掠れた声を出した僕を隼人が気遣うように見下ろす。コーヒーをひと口飲んで、大丈夫、と笑ってみせた。
隼人と僕は半分とはいえ血をわけた兄弟だ。そんな事は百も承知で、これまでも、これからもその事実は変わらない。僕らの正当性を主張すれば、世の中の間違っていることすべてに首を縦に振らなきゃいけなくなるくらいおかしなことだ。そんな事も、解っている。
「なあ、親父」
隼人がそう言って、短く息を吸い込む。それから少しの間黙り込んで、なにか遠くを見るような目で窓の外を見つめたまま、呟くように言った。
「俺、知ってるよ。愛してもらえないことも愛せないことも、同じくらい痛いんだ」
そうして目を伏せる。隼人はそんな痛みを感じたことがあるんだろうか。愛されなかった痛みと愛せなかった痛みが、隼人のなかでずっと燻っているんだろうか。
「……何を生意気な事を。たった二十二で愛がどうだの」
「俺にはヒロがいるから。だから俺、愛が何かってことは知ってるよ。親父が連れてきたんじゃないか」
そう言って隼人は、眉を下げて笑う。
父は一瞬だけ目を見開いて、隼人を見上げた。眉間に寄った皺がゆっくりと消えて、父は長い長いため息を吐いた。
それから暫くの間、父はどこか遠い想い出を探すような目で中空を見つめていた。僕らは父の言葉を待つ。繋いだ手を離せずに、ただ息を潜める。
どれくらいの時間が経っただろう。かちかちと時を刻む時計の音が部屋を埋め尽くした頃、父はゆっくりと首を横に振って、立ち上がった。
「親父」
「もう帰れ」
手の平を下に向けて、ひらひらと動かしてみせる。隼人が息を飲む音が聞こえた。父はそのままリビングを出て行こうとする。
「待って、お父さん」
立ち上がって父の行く手を塞いで足元に座り込んだ。父は僕を見下ろし、目を丸くする。隼人にも僕の思いが伝わったのか、僕と同じように父の足元に膝をついて座り込んだ。
「お願いします。わかって、ください」
床に手をついて、額を手の甲に押し当てた。土下座というやつだ。きっとこの先こんな事はどこでもどんな場合でもしない。だけど今は必要だと思った。プライドなんかいらない。隼人だけいればいい。
僕の隣で、隼人も頭を下げた。きっと父は今戸惑いの表情を浮かべて僕らを見下ろしているんだろう。
「……出ていけ、二人とも」
床を這うような冷たい声が、耳に届いた。こんな父の声は、そうだ、あの時に聞いたきりだ。
七年前のあの日、隼人の部屋で僕に無理やりついて来いと言ったあの時の声もこんなふうだった。手足の先が一瞬で冷たくなる。喉の奥がぎゅっと詰まった気がして、無理やり息を吸い込んだ。
「荷物を纏めろ。……隼人、手伝ってやれ」
「親父、だめだって。ヒロは」
「すぐに答えが出せると思うか? こんなこと……。昨日も言ったが、親の立場というものを考えろ。二人で過ごしてみて、またちゃんと話しに来い」
「え」
顔を上げたら、腕組みをした父がまるで出来の悪い息子を宥めるような顔をして僕らを見下ろしていた。声を上げた隼人に、苦笑いを浮かべてみせる。
「何度でも説得にかかる気だろう、どうせ」
ふん、と鼻を鳴らしながら吐き捨てるようにそう言って、ぐるりと首を回す。乾いた骨の音が何度か響いた。
「……何度でも、解ってもらうまで」
隼人は床に手を付いたまま、絞り出すような声でそう言って深く頷く。
「何度でも来ればいい。何度でも話しに来い。その代わり、少しでも後悔したような顔をしていたら承知しないからな。ぶん殴ってやる」
「お父さん」
父は僕らに両手を伸ばし、いいから立て、と引っ張りあげた。隼人はいちどバランスを崩してよろよろと床に手をついてから立ち上がる。
「死ぬほど酒を飲ませて本音を吐かせてやるから、覚悟しておけ」
「親父……」
「俺に言えるのはこれだけだ。もういいから、行け」
父はそう言って、ふい、と顔を背け、和室の襖の向こうに消えてしまった。もうきっと今日は、僕らが出て行くまでここから出ないつもりなんだろう。
だけど次に会った時はきっと、笑っている。




