水の音・11
リビングのドアを開けると、いつもの朝の見慣れた光景があった。
キッチンのカウンターの向こう、美奈子さんが洗い物をしている。父はカウンターにくっつけるようにして置いてあるテーブルで新聞を広げ、お茶を啜っていた。開け放たれた窓から吹き込む風が、隅に纏めたカーテンの裾を揺らす。
僕と隼人を見て、美奈子さんがにっこりと微笑む。ふっくらとした頬がきゅっと上がって、大きな目が弓型に引き上げられた。美奈子さんは美人じゃないけれど、笑うと何だかほっとする愛嬌のある人だ。
美奈子さんと父は僕がまだ高校生の頃、長野に居た頃に出会った。会社帰りによく寄っていた居酒屋で、偶然カウンターでひとり飲みをしていた美奈子さんの隣に座ったのがきっかけらしい。
それから何度か偶然を重ねていつしか約束を交わし合うようになり、二年と少しの交際期間を経て結婚に至った。父も美奈子さんも再婚で、美奈子さんには子どもがいなかった。
いい歳の大人同士の再婚はたいして盛り上がりもしなかったけれど、それなりの祝福は受けた。入籍をしたその日に、家にはたくさんの親戚が訪れた。美奈子さんのご両親は既に亡くなっていたけれど、二人もいる美奈子さんの姉に僕は、これでもかといじり倒されてしまった。その時の事はもうあまり思い出したくもない。
無理して「お母さん」なんて呼ばなくてもいいからね。それが入籍後の美奈子さんの、僕に対する第一声だった。そのあっけらかんとした物言いが何だか新鮮で、父曰く人見知りの激しい僕にしては短い期間で、美奈子さんの事を受け入れる事が出来た。今では何だか昔から知っている親戚のおばさんのように思える。
「おはよう、ヒロ君と……隼人くんだよね?」
「あ、はい。おはようございます。昨夜は遅くにすみませんでした」
隼人は僕の隣から一歩前に出て美奈子さんに頭を下げる。昨夜は美奈子さんはもう眠っていたけれど、時間が時間だっただけに煩くしてしまった事を詫びているんだろう。
いつの間にか布団の足元に置いてあった父のジャージを、今は着ている。やっぱりいちいち短いようで、頭を下げたら背中がぺろりと見えてしまった。後ろからそっと裾を引っ張ったら擽ったかったようで、ひゃ、と小さな声を上げた。
「いいのよー。ね、朝ごはん食べるでしょ? お魚好きかなあ?」
美奈子さんはそう言って、冷蔵庫から魚のパックを取り出して掲げてみせる。隼人がいただきます、と言うと、にっこりと笑って早速準備に取り掛かった。
「昨夜あれだけ飲んで朝飯食えるのか」
「それだけ若いって事ですよ。慎一さんもなにか召し上がったらどうですか」
「いらん。腹が減ったら言う」
「食事は皆がいっぺんに済ませないと色々と面倒なんですけどねえ。もう少しそこのところを考えて頂けると有難いんですけどねえ」
父は新聞を置いてしかめっ面を美奈子さんに見せた。美奈子さんはまた笑う。
僕と隼人は顔を見合わせて笑って、食卓についた。
「よく眠れたか」
父は新聞を脇に置いて湯呑みを持ち上げる。まだ熱そうな湯気が、白髪の増えた髪に混ざるように消えた。
「ああ。台風もどっか行ったみたいだな。すげえいい天気」
窓の外に広がる空はきれいな合成写真みたいな青だ。薄く細長い雲を散らして、透明な風を運んでいる。思わず目を閉じて深呼吸をした。
「花村はもう帰ったの」
「とっくに帰ったわよー。レポート提出が何だとか言ってたかしら。面白いわねえ、あの子」
隼人は父に尋ねたつもりらしかったけれど、答えたのは美奈子さんだった。面白いわねえ、と言いながら、いかにも可笑しそうにけらけらと笑う。
「起き抜けに説教されたのは初めてだぞ」
「説教?」
父は顔を顰めて、けれど口の端をあげる。聞き返した僕の顔をちらりと見て湯呑みを持ち上げた。
「なに言ってるの、カマをかけたのは慎一さんじゃないですか。説教されて当然です」
美奈子さんはカウンターの向こうで、包丁を握った手を振り回しながらそんな事を言う。父は口をあんぐりと開けて、あぶない、と諭す。美奈子さんははたと気付いたように包丁を下ろして、楽しそうに笑った。
父が花村にどうカマをかけたのか、ものすごく気にはなった。気にはなったけれど、今話す事じゃない。いや、でも隼人がこのタイミングでもと思ったんだったら。
ぐるぐると考え込みながら隼人を見上げたら、隼人も僕と同じような顔をして考え込んでいた。
客観的に見たら、いまこのリビングにはものすごく微妙な空気が流れているはずだ。皆きっと同じ事を考えているのに、誰も肝心なことを口にしない。胃が痛くなる。これは、長期戦に持ち込まれたら身が持たない。
「……こんなにいい天気なら店開けるんじゃないのか」
妙な空気を察したのか、父が話題を変える。ほんの少し口元が緩んでいる気がするのは僕の楽観的な希望があるからなんだろうか。隼人は一瞬言われたことが理解できなかったのか、父の言葉を反芻するかのように、店を、と小さく呟いてから顔を上げた。
「あー……、開けるだろうな。まあ俺もともと休みだから関係ねえけど」
「そうか」
「うん」
部屋の隅でぼそぼそと天気予報を告げるテレビによると、台風は早朝のうちに太平洋側に抜けて熱帯低気圧に変わったそうだ。こんな事なら今日の飛行機で帰ってきても良かったんじゃないかとも思う。昨日出発前に北海道で見た進路予想図では、未だに台風は東北辺りでぐずっていたはずだった。だから安全を期して早めに帰ってきたのに。
「あ、そうだ。今日辺り荷物が届くからね。お土産とか、カメラとか」
最終日は観光だけの予定だったから、一眼レフやお土産なんかの邪魔になりそうなものはあらかじめ宅配に頼んでおいた。小さなコンデジは手荷物に入れておいたけれど、結局使う機会はなかった。
「そっかお前北海道行ってたんだっけ。どうだった?」
お味噌汁とごはんを運んできた美奈子さんに礼を言いながら、隼人は思い出したようにそう言って立ち上がる。カウンターの上に出してあったグラスや箸を取ってテーブルに並べた。他になにかする事はないかと思ったのか、そのままキッチンに入る。あまり広くはないスペースで美奈子さんは隼人を見上げ、呆れたように笑った。
「いいから座ってなさい。せっかちねえ」
「あ、すんません。なんか手伝おうかと」
「いいのいいの、ありがとね。はい座って」
あっさりとキッチンを追い出された隼人はすごすごと椅子に座って、後ろ頭を掻いた。
「北海道、綺麗だったよ。ラベンダー畑見たことある? すごいんだよ」
「見たことない。写真撮った?」
「撮ったよ。でも写真じゃ伝わらないなあ」
「写真で伝わるようにするのがプロだろ?」
「うるさいなあ」
からかうように口の端を曲げた隼人を一瞥してから、テーブルに運ばれた朝食に手を合わせた。隼人もつられたように手を合わせる。
「釧路湿原はね、あのあれ、鈴つけるんだよ。熊避けに」
「鈴? そんなもんで熊避けになるの」
「なるらしいよ。残念ながら熊には会えなかったけど」
「残念なんだ」
父はじっと僕たちの話を聞いている。時折相槌を打ちながら、呆れたような顔で笑う。隼人は時々そんな父の様子を窺いながら僕の話にいちいち感心したように声をあげた。
「ヒロ、魚の骨取るのうまくなったな」
「え、隼人、僕のこと幾つだと思ってんの? もう二十歳になるんだけど」
「そうだった。なんかお前ちっとも変わってないから中学生くらいの気分だった」
「魚の骨」
父が、魚の骨、なんて言いながら吹き出した。苦笑いを浮かべて僕と隼人を交互に見る。
僕が篠崎家に居た頃隼人はよく魚の骨を取ってくれていたけれど、父がその場面に遭遇したことはあっただろうか。
月のうちに数える程しか家に居なかった父があの家でどう過ごしていたのかを思い出そうとするけれど、朧気な記憶は捕まえようとしてもするりと逃げ出してしまう。あの頃父は、僕や隼人の気持ちに気付いていたんだろうか。あの頃の父の目に、僕らはどう見えていただろうか。
「お父さんは」
本当は知っていたの。そう口に出してしまいそうになって、引っ込めた。名前だけ呼んで口を閉ざした僕に、父や隼人は訝しげな視線を送る。なんでもない、と呟いて、味噌汁のお椀を持ち上げて啜った。
「それじゃあ、食器は適当にお水に浸けておいてね。私はお仕事に行ってきますから。慎一さん、お腹空いたらおかずが冷蔵庫にありますから、温めて食べて下さいね」
美奈子さんはそう言って、外したエプロンを手際よく畳んでカウンターの端に置いた。
美奈子さんは近所の定食屋でパートをしている。このマンションに越してきた今年の春に始めた仕事で、料理好きの美奈子さんに合っているのか、とても楽しそうだ。
余裕がない訳じゃないのにと文句を言う父に、家に一人で居てもつまらないからと突っぱねてうきうきと出かけて行く。不満そうにしていた父も最近では諦めたのか、時々その定食屋にお昼を食べに行ったりするようにもなった。ちなみに僕も時々顔を出している。
「え、出掛けるんですか」
美奈子さんの援護射撃を期待していた隼人は音がしそうな勢いで振り返って腰を浮かせた。美奈子さんは店のエプロンと三角巾の入った鞄を手に、隼人を見上げてにっこり笑う。
「すぐそこの定食屋。台風も過ぎちゃったからね。良かったらこんど食べに来て」
隼人の思いを知ってか知らずか、美奈子さんはそう言って隼人の手を握る。ぶんぶんと上下に振って、だいぶ力が強かったのか隼人の体がぐらぐらと揺れた。隼人はちいさな呻き声を上げてから苦笑いして、はい、と弱々しく返事を返した。
「……頑張ってね」
美奈子さんは僕と隼人を見て力強く頷いて、父に手を振って部屋を出た。
取り残された隼人は座り直し、テーブルに頬杖をついて何やら考え込んでいる。作戦を練り直しているのか。
早朝から点けていたのか、テレビのタイマーが切れた。一瞬でやけに静かになってしまった部屋にキッチンの水音だけが響く。
「……コーヒーでも飲む? インスタントだけど開けてないやつがあったと思う」
「……飲む。いいよ俺やる。座ってて」
「じゃ任せるね。僕、チョコ持ってくる。昨日貰ったんだ、お土産に」
部屋に一度戻って、机の上に置いた鞄の中から昨日緑川さんに貰ったチョコの箱を取り出した。無理に突っ込んだから、箱がひしゃげてしまっている。
部屋から出て左手にある玄関の隅に、黒い傘が立てかけてある。峯岸先輩の、今にも泣き出しそうな笑顔が脳裏に浮かんだ。
――峯岸は駄目な奴だけど、良い奴だからさ。無駄に傷つけるようなことはしないでね。
緑川さんの、少し威圧的だけれどどこか哀れみを含んだ声が蘇る。僕は彼を傷つけてしまったんだろうか。だけど、だからこそ僕は自分に正直でいなければと、改めて思った。彼の優しさに寄りかかるようなことは、しちゃいけない。
うん、と小さく頷いて、リビングのドアに手をかけた。
チョコレートの箱を持って椅子に座った時、どこかの学校のチャイムの音が風に乗って聞こえてきた。脳裏に浮かんだのは、隼人と歩いた通学路だった。手を繋いで、まだ透明な朝日の降り注ぐ町を歩く。前日に降った雨の水たまりにうつる空が綺麗で、ほんの少しの間二人で覗き込んだ。
落ちてしまいそうで怖いね、と僕が言った。
じゃあ手を握っててやるよ、と隼人が言った。
差し出されたその手を握って、水たまりを飛び越えた。
もう、怖くはなかった。
「親父、コーヒー飲むだろ」
「ああ、もらおうか」
「ブラック?」
「ああ」
カウンターに乗せた食器を、隼人が手際良く水に浸けて行く。コーヒーの粉そこにあるよ、と指差すと、うん、と隼人が頷いた。戸惑ったようにきょろきょろと辺りを見回してお茶の用意をする隼人が何だか新鮮で、いつの間にか頬が緩んでいた。はっとして父を見ると、腕組みをした手をテーブルに乗せてぼんやりと隼人を見ている。
「あ……僕ね、隼人のオリジナルブレンド飲んだよ。あれ美味しいね」
「ああ、なんか来たってな。花村から聞いた」
「隼人ちょうど休みでいなかったよね」
「そうそう」
隼人は何度か頷きながら、インスタントの粉をカップに入れる。スプーンも使わずに瓶を適当に振って入れるから心配になったけれど、テーブルに運ばれて来たコーヒーはインスタントなりにちゃんと美味しかった。隼人曰く、インスタントとはいえパッケージを開けたばかりのものは、ちゃんと淹れたものに勝るとも劣らない旨さがある、だそうだ。
「オリジナルブレンドってなんだ、お前がブレンドしたのか」
「そう。なんか適当にやったら美味くなっちゃって。それで店で出して貰ってるんだけど、お陰でバイト仲間の風当たりが強い強い」
「え、でもお店のお兄さん親切だったよ。隼人がいつまで休みなのか教えてくれたし」
「ああ何人かはね。まあ仕方ない、出る杭は打たれる運命ってやつだ」
「自分で言うな。ばかかお前は」
そんな事を言いながらでも父は何だか楽しそうだ。やっぱり自分の子どもが少しでも世間に認めてもらえて嬉しくない親は居ないという事なんだろう。
「ヒロは大学楽しい?」
「うん。皆仲いいし、教授も優しいんだよ」
「お前、もう大学に行く気はないのか」
ず、とコーヒーを啜ったあと、父はそう言って隼人を見上げる。隼人は一瞬だけ言葉に詰まって、ないよ、と呟くように言ってチョコをひとつ摘んで口に入れた。隼人は甘いものは苦手だけどチョコは嫌いじゃなかった。今もそれは変わっていないらしい。
「経済的な話じゃないのか。もし行きたいのなら今からでも遅くはないぞ。学費くらい」
「違うって。そりゃ、最初はまあ……ぶっちゃけ母さんのパートだけじゃ、って思ってたけど。その気になりゃ奨学金だってあったし、まあ、これでも俺も色々あったわけ」
「色々って何だ。涼子の再婚相手となにかあったのか」
「違うよ。別にその辺は」
「じゃあ何だ。言ってみろ」
僕にしてみれば、どうして父が今更こんなふうに父親ぶった事を言うんだろうと思う。けれど隼人は父の言葉を素直に受け入れている。内心父にむっとしながらも、二人の会話の成り行きを見守る事にした。
「……母さんがさ」
「何だ」
隼人は言いにくそうに何度も頬杖の角度を変えたり、短いため息を吐いてみたり、ちらちらと父の顔を見たり。なにがあるって言うんだろう。気付いたら僕も隼人の顔を覗き込んでいて、隼人に苦笑いされてしまった。
「母さん、暫く病気しててさ。入退院繰り返して、まあ、やっと……去年の春かな。落ち着いて」
「どうしてそういう事を早く言わないんだ」
「言えるかよ。金の無心みたいだろ」
隼人が家を出た頃に一緒に暮らしていた人は、涼子さんの病気が発覚してすぐに出ていってしまったそうだ。大学受験の準備をしていた隼人はその入学金を涼子さんの手術代に充てた。隼人がカフェで働いて稼いだお金は殆どが涼子さんの治療費に充てられたそうだ。
作詞や作曲で収入を得るようになってやっと生活が落ち着いた頃に、ようやく涼子さんと人生をともにしたいという人が現れた。涼子さんもその人を信頼しているそうで、やっと肩の荷が降りたところだと、隼人はぼんやりとした目を窓の外にむけて長いため息を吐いた。
「それでまあ俺も大学考えようかなとか思ったんだけど。今やってる事のほかにやりたいこともないし、今はいいかなって。始めるのはいつからでも遅くねえだろ」
そう言って隼人は父の顔を見る。真っ直ぐな、迷いなんかひとつも見当たらない綺麗な目だ。あの頃とちっとも変わっていないのは隼人のほうだ。
「……すまなかった。何も知らなかったとはいえ、お前ひとりに苦労をかけた」
父はそう言って、カップをテーブルの端にずらしてから隼人に頭を下げた。隼人は慌てて首を横に振る。
「いいよそんな事。ほら、そういう事するから言いたくなかったんだよ。別に死ぬような病気じゃなかったし、俺だって嫌でやってた訳じゃないから」
「いや、そんな時に一言でも声をかけようと思ってもらえるような父親じゃなかったって事がな」
そういうんじゃない、と否定する隼人に構わず父は長いため息を吐く。父は父なりに、隼人にとっての父親であろうとしていたんだ。隼人にしてみればきっと本当にそんなつもりじゃなかったんだろう。だから言いたくなかったんだよ、と吐き捨てるように言ってから、コーヒーのカップを口元に運んだ。
「まあ、大学なんか行きたくなったらいつでも言え。何でもいいぞ、海外留学とか、あるだろう。これでも息子二人分の蓄えはしているつもりだ」
息子二人分の。今はどう受け取ったらいいのか解らないその言葉を、隼人はきっと真っ直ぐに受け入れた。照れたようにいちど目線を下げて、すん、と鼻を啜ってから小さく頷いてみせた。
「そうしたくなったら素直に甘えさせてもらうよ。だけど今はもっと大事なことがあるんだ」
隼人はそう言って、テーブルの上に置いた僕の右手をそっと握る。戸惑いながら握り返すと、隼人は僕を見下ろして優しく笑った。




