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水の音  作者: さくら
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春の音・6

 





「あの……、ありがとうございました」


 開けてもらった車のドアから降りて礼を言うと、タチカワさんは恭しく頭を下げたあと、顔をあげてにっこりとわらった。人のよさそうな目尻のしわが、きゅっと深くなる。

 白髪混じりの髪は整髪料かなにかで固めてあるのか、頭を下げてもさらりともなびかない。かわりに、かけている銀縁の眼鏡がほんの少しずれて、丁寧に両手でかけ直した。


「また遊びにいらしてくださいね」


 タチカワさんはそう言って運転席に乗り込むと、短くクラクションを鳴らしてゆっくりと加速して、去っていった。

 角を曲がった赤いブレーキランプが消えると、外灯に照らされた部分以外はほとんど何も見えなくなってしまった。一気に現実感が襲ってくる。

 淳の家と比べたらおもちゃみたいに見える門扉の上、小さなライトが灯る。ガラスの嵌めこまれた引き違い戸の取っ手が、闇にぼんやりと浮かび上がっていた。

 この玄関を開けたくない。だけどそんなわけにはいかなくて、取っ手に指先を引っ掛けてそろりそろりと滑らせた。


 家の中に入ると、ぼそぼそと誰かの話し声がする。戸をゆっくりと閉めてから玄関の三和土を振り返ると、俺のより小さなスニーカーが、父の靴と並べて置いてあった。


「隼人? 帰ったの?」


 階段を一段だけ上がったとき、リビングから母の声が聞こえて思わず息を飲んだ。隠れるつもりなんかないのに、見つかった、と思った。


「隼人、着替えたら降りてきてね。ヒロくん来たから」


 ドアを開けて顔をのぞかせた母の顔を見ることができない。また泣いていたんじゃないか、父と言い争ったんじゃないだろうかと思いを巡らせる。振り向かないまま、うん、と頷いてみせてから、階段を駆け上がった。


 階段を上がってすぐ左手の六畳の洋室が俺の部屋で、向かいにある同じく六畳の和室がヒロの部屋になる。開け放たれたままの襖の向こうを見るとはなしに目をやると、真新しい勉強机と小さなベッドがあった。いつ買ってきたんだろう。カーテンも見たことのないものだったし、ごちゃごちゃした自分の部屋と比べ物にならないくらい使いやすそうだ。

 いいなあ、と心のなかで呟いて、自分の部屋のドアを開けた。


 適当な服に着替えて階段を降りると、食卓を囲む父の背中が見えた。母はカウンターの向こうで何やらばたばたと忙しそうに動いている。そおっと覗きこむと、ヒロらしき少年がいた。

 ダイニングテーブルのいつもの俺の席で、大人しく座って母を見ていた。母になにか話しかけられて、遠慮がちにわらう。


「あら隼人、なにしてんの。座んなさい」

「え、ああ、うん。座る……けど」


 俺の席はすでにヒロが座っていたし、初対面のヒロの隣に座るのは何だか気まずい気がした。所在なくあちこちを見回す俺を見て、ヒロが立ち上がる。


「お兄ちゃん、はじめまして。ヒロです」


 想像していたよりも高い声が耳に届く。高いけど、柔らかい。けど、お兄ちゃん、という聞きなれないフレーズに体がかたまる。なんだ、お兄ちゃん、って。


「は、隼人、です」


 ヒロは明らかに作り笑いだとわかるように顔を作ってから、片手を差し出す。握手しろということか。

 父も母も、俺たちの様子をじっと見ている。見ているのがわかるから、余計気恥ずかしい。どんな顔をすればいいのかさっぱりわからなくて、曖昧にわらう。ヒロの手を取ると、ひんやりとして冷たかった。


 ヒロの髪はほんの少し茶色がかっていて、眼の色はそれとは対照的に黒目がちだった。口元はたぶん父似で、わらうと、時々写真で見る自分の顔に少し似ている気がした。

 まっすぐに俺を見上げたその目を見て、どこかで見たような気がすると思った。よく考えたけれど思い出せない。どこだったんだろう。でも、知ってる。


「隼人、食べないの?」


 結局ヒロの隣に座った俺に、母がポトフを勧める。活躍の場が年に一度も巡ってこないよそ行きの器に盛られたそれは、母の、やりきれない感情が溶け込んでいる気がした。


「……見栄張っちゃって」

「なあによ。そんなことないわよ。美味しいでしょ」

「まあ、たぶん」

「多分てなによ。ね、美味しいわよね、ヒロくん」


 母はヒロにそう言って大げさにおどけてみせる。ヒロは「はい、美味しいです」と、にっこり笑う。


「ヒロの母さんもポトフがうまかったんだが、これもなかなか」


 無神経な父の言葉で、食卓は一気に凍りついた。どうして今そんなことを。

 テーブルの下で母が父の足を蹴った。短く呻く父。ちらりとヒロを見ると、なにごともなかったかのように、黙々とポトフを口に運んでいた。父と母と俺は交互に目配せして、話題を変えた。


「ヒロくん、明日から通う小学校って、隼人の中学の隣にあるのよ。ちょっと時間は早くなるけど、隼人と一緒に家出て案内してもらってね。手続きはしてあるから」

「わかりました。ありがとうございます。よろしくお願いします、お兄ちゃん」

「あ、うん」


 慣れない。お兄ちゃん、という呼ばれ方に慣れない。おなかの底がぞわぞわして、尻がむず痒くなる。

 これまでに何度か友達の弟や妹、それにご近所のおばさんなんかに「お兄ちゃん」と呼ばれることはあった。その度にある種の座りの悪さは感じていたけれど、ちがう。そういうものとは全然ちがう居心地の悪さだ。


「あの、ヒロ……」

「隼人、今日同じクラスの中原くんの家に行ったんでしょ。どうだった?」

「え、なんで知ってんの」


 ヒロに『お兄ちゃん』呼びをやめてもらおうと名前を呼んだら、同じタイミングで母に話しかけられた。どうして淳の家に行ったことを母が知っているのか。俺はなにも言ってないぞ。


「中原くんから電話があったのよ。少し遅くなるけど、送っていくから心配しないでください、って。ちゃんとした子ねえ。えらいわ」

「え、まじで? あいつ余計なことを……」


 まさか迷子になってたから拾ったなんて事言わなかったよな。それは、それだけは、俺の沽券にかかわる。


「余計なことってなによ。もう日も暮れかけてたし、遅いなあって心配してたのよ? 有難いじゃないの」

「ああ、うん……」

「隼人にああいうしっかりした友達が居ると安心するわ。あなたぼーっとしてるから」

「ぼーっとしてねえし。ヒロが誤解すんだろ」

「大丈夫です、お兄ちゃん」


 かちゃん、と、ポトフの皿にスプーンを置く。それから真っ直ぐに俺を見上げてそう言った。何だか、感情のないロボットみたいな喋り方だ。必要なときに必要なことだけ、抑揚のないトーンで口にする。思いがけずペースを崩されてしまう。


 それにしても何だろう、これは。

 この状況にあって未だ不倫を隠している母と、愛人の子と、その父親。ああ、俺の父でもあるのか。奇妙なこの光景。

 三人が三人とも相手の出方を窺っているようにも、そうでないようにも見える。ほんとうの家族ではないはずなのに、ほんとうの家族に見えるように務めている。

 いったい誰を騙そうとしているんだろう。そして、誰を守ろうとしているんだろう。


 ヒロは食事を終えてすぐに「疲れたので先に休みます」と言って早々に部屋に引っ込んでしまった。風呂に入らないのかと聞くために部屋の襖をノックするのも憚られる気がして、俺も風呂に入ったあとそのまま部屋にこもった。

 しばらくすると母がヒロの部屋に入った気配がして、ほんの少ししてから俺の部屋のドアが不躾に開けられた。


「ノックは!」

「ああごめんね。隼人あなた小さくなったパジャマとかない?」

「引越しの時に全部捨てただろ。ねえよ」


 勝手にクローゼットを開けようとする母に後ろから文句を言うと、部屋の外に立っていたヒロと目が合った。ヒロはぺこりと頭を下げて、ふい、と視線を逸らした。所在なく佇むその姿に、ほんの少し胸が痛くなる。

 まだ細すぎる肩が、震えているようにもみえた。きっと気のせいだろうけど。


「あー、別に小さくはねえけどこれ、貸してやるよ」


 片手で母をどかしてクローゼットを開け、隅の衣装ケースの上に置いてあったジャージをヒロに投げて渡した。目を逸らされたことはいけすかないけど、だけど俺はきっと、母も父もにせものの家族をほんものにしようと努力するつもりなら、ほんの少しだけ協力してもいいかなと思ったんだ。きっと俺は、そう思ったんだ。


「あら隼人、優しいじゃない。惚れ直したわ」

「気色悪い事言うな! それ、手足ちょっと折りゃ着れるよ、たぶん」

「あ……、ありがとうございます。お兄ちゃん」


 ヒロは、こんどは深く頭を下げると、少し困ったように眉を下げて礼を言った。なんだか初めて感情が見えた気がする。なんだ、人間じゃないか。当たり前だけど。

 母は嬉しそうにわらって、そんなヒロを見ていた。それから一瞬だけ真顔になって、またわらう。ヒロはそんな母の様子には気づかず、ぱたぱたと階段を下りて行った。


「お兄ちゃん、だって。嬉し?」

 

 からかうように母がそう言って、俺の脇腹のあたりを肘でつつく。


「うるせぇよ。嬉しくねえよ」


 言ってから、しまったと思う。母は複雑な顔をして床に目を落とす。

 いや俺は、お兄ちゃんになったことが嬉しくないわけでもなくて、でも、こういう状況でこういう経緯でお兄ちゃんになることを手放しで喜ぶのもなにか違うと思うわけで……ぐるぐると言葉を探しているうちに母はとぼとぼと部屋を出てしまう。


「ま、待て。まあ待て。聞いて」

「なあによ……、なにか文句でも言いたいわけ? 私だってこう見えていろいろ、悩んで、考えたのよ! 」


 親に向かって待てというのもないもんだとも思ったけど、そこは流してくれた。流したというよりそんなことはお構いなしに眉間にしわを寄せ下から睨み上げるようにして、母は俺をまくし立てる。気圧されてごくりと生唾を飲み込んだ。飲み込みながら、ちがう、とジェスチャーで示してから、息を吸い込んだ。


「わかってる! 違う。そうじゃなくて、間違った! いや、嬉しいよ。ほんと、うん」


 俺はマザコンじゃない。だけど母の悲しむ顔は見たくはない。こんな状況にあって、自分だって複雑な気持ちになっているくせに、こんなふうにして母の笑顔を最優先してしまうんだ。

 それはこれまで母とふたりで暮らしてきた経緯があるからこそであって、決してマザコンだからじゃない。これまでに幾度も、ひとり部屋で声を殺して泣く母を見てきた。けれど俺の前で涙を見せたことは、祖母の通夜の席でだけだった。それから、昨日の夜。

 だから俺はこの事でもう二度と母を泣かせちゃいけないんだと、強く思ったんだ。


 






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