水の音・10
カーテンの隙間から差し込む日差しが瞼を撫でて、思わず寄せた眉間に暖かい指先が触れた。ぼんやりとした頭でゆっくりと目を開けたら、ベッドの脇に座り込み、寝ている僕をじっと見下ろしている隼人が居た。僕の眉間に右手の指先をあてて苦笑いを浮かべている。
「お……はよう、隼人」
「おはよう。眉間に皺ばっか寄せてたら、そんな顔になるぞ」
くすくすと笑いながら、その手を僕の髪に滑らせる。離れて行きそうになったその手を、掴んだ。
隼人は一瞬だけ目を見開いて、笑う。掴んだ手を自分の頬に滑らせて、唇にかかった親指にそっとキスをした。
「……朝からそんなことして。俺が我慢できなくなっても知らねえぞ」
隼人の声は少し掠れている。昨日の雨で少し風邪を引いてしまったのかもしれない。話の内容はともかく、この声も嫌いじゃない、なんて思った。
その手のひらを頬にあてたまま目を閉じ、ゆっくりと思い出す。
篠崎家で迎えたはじめての朝、僕が目を覚ました時もこんなふうに側にいてくれた。見慣れない天井を見上げ戸惑っていた僕に、大丈夫だよ、と優しく笑ってくれた。
それから今日と同じように、こんなふうに優しく髪を撫でてくれたんだ。
「まだ眠い? もうちょい寝るなら寝顔見てるけど」
「ぶ。何でだよ。そんなことして、退屈でしょ」
真顔で妙な事を言い放つ隼人に笑ってみせたら、隼人はこれまでに見たことがないくらい優しく笑って僕を見下ろした。
「いや、全然。飽きないよ。何時間見てても。何ヶ月でも、何年でも」
「それじゃ永遠に起きれないじゃないか。眠り姫みたいだ」
「じゃ、王子様のキスで起きる?」
「……そうする」
そう言って目を閉じたら、ゆっくりと隼人の体温が近付く。差し込む日差しが遮られて、一瞬でどこか別の世界に来てしまったようにも思えた。
柔らかな唇が重なって、ちいさなリップ音が静かな部屋に響く。隼人は照れたように咳払いをしたあと、ふにゃりと笑った。つられて笑いながら起きる僕に、手を伸ばす。その手を掴みゆっくりと起き上がったら、こんどは僕の手の甲に小さなキスを落とした。恭しいその仕草の割りには寸足らずのパジャマで、おまけに寝癖もついていて何だか間抜けだ。
「おはよう、姫」
「……王子、おはようのキスは?」
「なにそれ」
「さっきのは、起きて、のキス」
「作るなよ」
「いいじゃん別に」
むっとして尖らせた唇に、噛み付くようなキスが降ってきた。思わず隼人のパジャマの襟元を掴んで、ぶら下がるように身体を支える。すぐに隼人の腕が背中に回って、腕の力を抜いた。その途端に力任せに押し倒されてしまった。
「ちょ、隼人。盛るな。だめだって」
僕のパジャマのボタンを上からぽちぽちと外し始める隼人を、必死で宥める。隼人は顔を上げると心底困ったように眉を下げに下げて、懇願するような目で僕を見つめる。そんな顔したって無理なものは無理だ。思い切り首を横に振ったら、盛大なため息を吐きながら渋々身体を起こした。
「やっぱだめか」
「あ、当たり前だろ。時と場所を……あと、そんなことしてる場合じゃないっていうか」
隼人は僕の腕を引っ張って起こして、そのまま僕を力任せに抱き締めた。はっきり言って、苦しい。
「はあ……抱きたい」
「ぶ。ストレートだね」
「……だって。七年だぞ。七年待ったんだぞ。ほんっと、健気っていうか、しつこいっていうか」
「しぶといよね。僕たち」
「いい加減な」
「諦めが悪い」
くすくすと笑いながら、僕のパジャマのボタンを止める。着替えるんだからそのままで構わないと言うと、そっか、と手を下ろした。
その時、リビングのドアが勢い良く開く音がして、中からバタバタと人が飛び出してくる気配があった。
「ほんと、すみませんでした! 若輩者が余計な、差し出がましい事を! だけど!」
花村の声だ。何だか異様な空気を察知した僕と隼人は目を合わせ、同時に息を潜めた。ドアの方に視線をうつしながら、隼人はそっと僕の手を握った。
前にもこんな事があったな、なんて思う。
あの時も隼人がこんなふうに、僕の手を握ってくれていた。それだけで僕はすべての敵と戦えるような、そんな気がしたんだ。
「でも、僕にはどうしても彼らが間違ってるとは思えないんです。だから、話だけでもちゃんと聞いてやって下さい。お願いします!」
「……花村君と言ったか」
父の声だ。花村の緊迫した声や内容から何だかとんでもない事になっていると感じていた。けれどそれに反して父の声は妙に穏やかだった。笑いさえ含んでいるように思える。
「君の気持ちは充分に解ったよ。それに、あいつらの気持ちも解っているつもりだ」
「……だったら!」
「しかしな、俺は良くも悪くもあいつらの父親なんだ。それも、理解してもらえるな?」
「そりゃ解ってます。だけどそんなの関係ないって本当は、思ってます。僕はただ二人に幸せになってもらいたいだけなんです。それはあなたも同じじゃないんですか?」
どういう流れでこうなったのか、考える。花村が口を滑らせて僕と隼人の事を言ってしまったんだろうか。いや、だけど昨夜、僕と隼人の繋がれた手を見た父は何もかもを知っている顔をしていた。
「同じだよ。当たり前だろう」
「だったら、」
「だから、だ。解らないか」
親として、子どもが不幸な道に足を踏み入れてしまうのを見逃す訳にはいかない、と。父はきっとそう言っているんだ。思わず隼人を見上げたら、隼人はこの空気にそぐわない何だか幸せそうな顔をして僕を見下ろしていた。こんな状況なのにその顔につられて、頬が緩みそうになる。いや、と気持ちを引き締めて隼人の顎を下から突いた。
「隼人」
「ん?」
「ん?じゃないよ。どうするの」
隼人は僕の言葉に、ただ困ったように眉を下げてからベッドを下りた。
「よし、寝たふりしろ」
「は?」
「いいから。言うとおりにして」
隼人の真意が解らないまま、音をたてずに布団を肩まで引き上げる。隼人も布団に潜り込んで、目を閉じた。すぐに寝息を立てたのが、演技なのか本気なのかよくわからない。仕方なく枕に頭を沈めて、寝たふりを決め込んだ。もう廊下の声はよく聞こえない。懸命に耳を澄ましたけれど、聞こえてきたのは玄関のドアを閉める音だけだった。
直後、この部屋のドアが開けられた。そっと中の様子を窺う気配がする。
「まだ寝てるのか」
思わず、うん、と返事をしそうになって思いとどまった。それじゃ寝たふりが台無しだ。
「まあまあ。いいじゃありませんか。別に子ども作る訳でもなし」
「そういう問題か? 本当にお前は呑気というか……」
美奈子さんが居たのか。ドアを大きく開け放ったのか、ちいさな風が布団から僅かに飛び出した髪をふわりと揺らした。
「だいたい親が子どもの恋路をどうこう言っても仕方ありませんよ。隠れてこそこそされるよりマシじゃないですか」
「それはそうなんだが……いや、だからそういう問題でも」
ふたりの声が急激に遠ざかって、ドアが閉められる。ほそく開いた目の端にうつるカーテンが、ふわりと揺れた。
そっと起き上がると、隼人もむくりと起き上がって僕の顔を見上げる。
「……なるほど。美奈子さんは援護射撃してくれる訳だな」
「お父さんって、選ぶ人選ぶ人すっ飛んだ人ばっかりだ」
お母さんといい涼子さんといい、それから美奈子さんといい。すこし世間からズレているというか、物の見方が変わっているというか。それはやっぱりどこかお父さんにもそういう所があるからなんだろうけれど。
隼人は僕の言葉に目を丸くして、納得したように頷いたあとなんだか可笑しそうに笑った。
「すっ飛んでんな。子ども作るわけじゃないって、まあそれもそうだよな」
「だけど、そういう問題じゃないって言うお父さんの意見も解るよ。どっちかっていうと、そっちのがわかりやすい」
これから僕らが目の当たりにする現実を見越しての意見はやっぱり僕らにとっても現実で、それを言われてしまえば弱い。だけど。
だけど、それでも僕は隼人の手を取って歩きたいと思ってしまう。
「そうだな。わかりやすいし、現実だ。だけど俺はさ」
隼人はむくりと布団から出て立ち上がり、ベッドに腰掛ける。スプリングの効いたマットが揺れて、ぎし、と小さな音が鳴った。
「ヒロとだったらぜんぶ乗り越えて行けると思うんだ。……甘いかもしれないけど、例えば普通の男女だってさ、結婚なんかして死ぬまで一緒に居たとして、乗り越えないといけないことってまあ、山ほどあると思うんだよな」
「うん」
「一緒に暮らして、ぶつかる問題ってたぶん数えきれないくらいあってさ。ほんと、嫌になることもあると思うんだ。どっちかが病気になったり、借金抱えて夜逃げとか」
「うわ、嫌な話」
僕と隼人が大荷物を抱えて真夜中の街を抜け出す図が頭に浮かんで、何だか空恐ろしくなる。隼人は眉を顰めた僕の眉間を指で突いて、笑う。
「まあ、極端だけどさ。そんな時でも一緒に乗り越えて行けるって、思うんだ」
「……自信ないな」
「こら」
だけどこんな事は、僕らが兄弟だから抱えてしまう問題でもない。これは、大切な誰かが居るどこの誰でも同じなんだ。
「まあだからさ、そういう時でもヒロとだったら。俺は大丈夫」
「うん。隼人が大丈夫なら僕もきっと大丈夫」
本当は隼人がいなくたって僕はきっと生きていけるし、隼人だって、僕がいなくても生きていける。
だけど隼人がいれば、もっと強くいられる。笑って、歩いていける。
「……もし、どうやっても説得できなくてさ。どうしても解ってもらえなかったら」
「うん」
「俺のことはすぐに忘れて。俺も、忘れるように努力するから」
「そんなこと出来るかな」
「出来るよ。大事に思える人と出会って、結婚して。子ども作って」
僕の髪を撫でながら、隼人は眉を下げる。
隼人を忘れてしまうなんて僕に出来るだろうか。この七年もの間一日たりとも、一瞬たりとも忘れた事なんてなかった。けれどそれは、忘れようとしなかったからなのかもしれない。覚えていようと、日々、思い出していた。想い出を寄せ集めて、生きていた。
「それで、ちゃんと生きて、生まれ変わったらまた、会おう」
「……隼人ってロマンチスト。生まれ変わりなんて信じてるの?」
「この際信じろ。都合いいだろ」
「ほんと日本人って、仏教徒なんだかクリスチャンなんだかよくわかんないや。いいとこ取りしてるよね」
クリスマスにはこぞってケーキを買いに走って、その熱も冷めやらぬ元旦に神社で手を合わせるこの国の文化が、それでも僕は好きだった。
この国の至る所に神様がいて、その出番を今か今かと待っている。ハレの日にはご機嫌な神様たちが空を舞って、日本中に幸せを届ける。
「いいだろ、オールマイティーっていうか理にかなってるっていうか」
「生まれ変わったら隼人のことわかるかなあ」
「いいよ、わかんなくても。俺が先に見つけるから」
「なんかそれ悔しいな」
唇が、ほんの一瞬だけ重なる。
これが最後のキスならあんまりだと思って、離れかけた肩を引き寄せた。
隼人にも僕の気持ちが伝わったのか、深い、深いキスを繰り返した。
「愛してるよ」
消え入りそうな声で、隼人が呟く。
「愛してる」
僕の肩を抱いて、耳元で、泣いているような声で。
「ヒロ、愛してる」
「僕も、僕も隼人のこと、愛してるから」
愛してる、なんて言葉はもっと幸せな気持ちで口にするものだと思っていた。
だけど声に出した途端にそれは重く、鈍い痛みを心のなかに落としていく。
だけどこれが最後ならと、何度も、何度も。
そうして僕達は、ドアを開ける。
すっかり片付けられた部屋の、開け放った窓から透明な風が吹き込む。
その風に背中を押されるように僕たちは、足を一歩、踏み出した。




