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水の音  作者: さくら
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水の音・9

 



 眠り込んでしまった花村の目を覚まそうと試みたけれど、顔に水をかけても髪をひっぱっても起きる様子はなかった。

 仕方なく諦めて、隼人に事情を話して、公園のすぐ裏にあるこのマンションに来てもらった。


「七年ぶりか。さすがに、大きくなったな。隼人」

「そりゃ七年もたてばね。再婚したなんて知らなかったよ」


 父と、父の再婚相手の美奈子さんと一緒に暮らしていると告げると、隼人は面食らったように何度もそれは本当かと僕に確認した。

 どうにかして家に帰る事にするかと聞けば、大丈夫だと言う。大丈夫だと言った割りにはエレベーターの閉まるボタンを押す指が妙に震えていた。当たり前といえば、当たり前だけれど。


「連絡しようとは思ったんだがな。なかなか、タイミングというか」

「いいんだよ、そんなことは」


 相変わらずいびきをかいている花村を背負った隼人は、玄関前でチャイムを押そうとする僕の指を何度も止めて、ちょっと待って、ちょっと待って、と繰り返した。そのうちに考えるのが面倒になったのか覚悟を決めたのか、よし、という声とともに自らチャイムを鳴らした。鳴らした後、今日は酔ってるから明日、と小さく呟いて、ひとりで何度も頷いていた。


「ヒロ、飲まないのか」


 久し振りに隼人に会った父は、はじめは複雑な表情をしていた。けれど酒が進んだせいか、いつもより饒舌になっていて、心なしかその表情も和らいでいる。

 リビングのテーブルの上、既に二本空けてしまっているビールの缶を脇に避け、三本目を開けてグラスに注いでから、僕の前に置かれたちっとも減っていない液体を見て顔を顰めた。


「僕まだ未成年。明後日まで飲まない」

「またお前そんな堅いこと。まあいい、隼人、飲め」


 美奈子さんは既に寝てしまっている。時間は既に夜の十二時前だ。特に寝るのが早いという訳でもない。父は歳を重ねるごとに宵っ張りになって、最近では日付が変わってからも、こんなふうに飲んでいる事が多くなった。長野に居た頃は妙に規則正しい生活をしていたけれど、環境が変わって少し気が緩んだのかもしれない。


「飲んでるよ。つか、俺散々花村と飲んできたから」

「花村って、あいつか」

「あいつだよ。悪かったな、突然変なの担いで押し掛けて」


 花村はリビングの隅に置いてある革製のソファーの上にタオルケットを敷いて、その上に寝かせてある。明日はきっと二日酔いだろうから、と隼人がコンビニで買った液状の胃薬と頭痛薬を傍に置いてある。目が覚めたらきっと大騒ぎするんだろう。その様子が簡単に想像できて、おかしかった。


「ヒロ、飲めないならなんか買ってこようか」


 隼人がぼんやりした目で隣の僕を見下ろして、やっぱり最後に首を傾げる。何だかそれが妙に可愛く思えて、緩んだ口元を抑えずに笑いながら首を横に振った。一昨日に父が着ていて洗濯したばかりのパジャマを、隼人が着ている。あまり広くもないリビングはエアコンが効きすぎていて、寸足らずな袖と足元がすこし寒そうだ。


「冷たいお茶、いつも美奈子さんが作ってくれてるんだ。美味しいんだよ。隼人も飲む?」

「あれは美味いというもんじゃなくて、薬効成分がな」

「身体にもいい」


 隼人は苦笑いしながら首を横に振って、立ち上がってキッチンに向かう僕を見送る。リビングの、ベランダに続く大きな掃き出し窓を風が揺らした。ソファーの上の花村が、小さな呻き声をあげる。だけどやっぱり、起きる様子はなさそうだ。

 キッチンの側の壁に取り付けたエアコンのスイッチを押して、少しだけ温度を上げた。


「……涼子は、元気なのか」


 酔うと視界が狭くなると聞いたことがある。少しテーブルから離れてキッチンに入っただけなのに、父には僕の姿が見えなくなったのか、涼子さんの名前を出した。隼人と離れているあいだ、父が僕の前でその名前を口にする事は滅多になかった。僕に気を遣っていたのかもしれない。


「元気だよ。再婚するって言ってたんだけど、どうもうまくいかないみたいだ」

「うまくいかない?」

「三日にいっぺんは、電話で愚痴を聞かされる。気を利かせて家を出たつもりだったんだけど」

「お前、大学は」

「行かなかった。それより、やりたいことがあったし、今それで食って行けてるから」


 父は素早く話題を切り替えたのかと思ったけれど、隼人が家を出た理由、という所から繋がっているんだなと、ひとりで納得した。


「隼人ってカフェやりたかったんだっけ?」


 テーブルに、美奈子さん特製のお茶が入ったグラスを置いて座る。隼人は僕の前に置かれていたビールの入ったグラスをさりげなくよけてくれた。


「いや、あれはなんて言うか、惰性で」


 いや、と隼人が口にした瞬間、よそ行きの声だと思った。僕が知っている隼人の声じゃない。何だか少し、疎外感を感じた。父も時々こんなふうに、よそ行きの、仕事用の声を出す。それは大人にしか出来ない事だと思った。僕にはまだ必要がないことではあったけれど、二人に置いて行かれたような気がして、何だか寂しかった。


「惰性?」

「うん。端折って説明すると、こっち出て来てすぐにあのカフェで人の少なくなった閉店間際に仕事してたんだよ。パソコン持ってさ。単に人が少ないし落ち着くからって理由だったんだけど、店長が、そんなに気に入ってるんだったらここで働けって。それでまあ、本業が軌道に乗るまでって約束で」

「だから、本業はなんだ」


 父が、僕の疑問を代弁するように言う。隼人はすこし躊躇ったあと、いったん息を止めて、吐き出すように「作詞とか、作曲とか」と言った。

 果たして頭の堅い父にその職業は受け入れられるんだろうかと心配になった。隼人もそれは感じていたらしく、作詞作曲、と告白した声は何だか語尾に行くに連れて小さくなった。父は案の定眉を顰めて、そんなもので食っていけるのか、と声を少し、高くする。


「高校ん時にレコード会社の人に声かけられて。信じられないだろうけどこれでも売れてんの。名前出してねえから売れてる実感もねえけどさ」

「うん、隼人の書く詞ってすごくいいんだよ。知らないの、お父さん」


 息子二人に一斉に攻撃されて、面食らった父は片目を丸くして、片目を細めた。それから暫くそのままの顔で固まって、最終的には顔相を崩して嬉しそうに笑った。なにが嬉しかったんだろう。

 隼人と僕は目を合わせて、首を傾げた。その様子がおかしかったらしく、父はまた笑った。







「親父、あのな」


 隼人は父を、親父、と呼ぶ。七年前には、父さん、と呼んでいたはずだ。こんな所でも、あの頃とは違うんだと実感させられる。

 いい加減に酔った父は、そろそろ眠いと言って、僕たちに部屋で寝るよう促した。簡単に片付けを済ませた隼人は和室の襖をそろそろと開ける父に向かって、声をかけた。


「何だ」


 眠い、と言ったものの、父の口調ははっきりとしていた。隼人はひと呼吸置いてから、父を見下ろす。いまは、父より隼人のほうが背が高い。


「明日、仕事は休み?」

「……まあ、台風だしな。一応休みは取ってあるが、何だ」

「……俺も休みなんだ。それで、明日少し話せるかな」


 言いながら隼人は、僕の手を握った。僕は慌てて引っ込めようとしたけれど、やけに強い力で握られて、それも叶わなかった。見上げたら、隼人はじっと父の目を見ていた。


「話すって……なんだ、改まって」

「大事な話なんだ。出来たら三人で、人のいないとこで話したい」

「三人って」

「親父と、俺と、ヒロ」


 ヒロ、と僕の名前を挙げたあと、隼人がごくりと唾を飲み込んだのがわかった。隼人の緊張が伝わって、手足の指先がずきんと傷む。父は僕と隼人を交互に見つめて、そうして最後に、繋がれた手を見つめた。その表情からはなにも読み取れない。

 襖の取っ手に手をかけた父は、親の立場というものを考えろ、と吐き捨てるように言った。


「わかってる。だけど、ちゃんと話したいんだ」

「……はやく寝ろ」

「親父」

「話は聞く。それからの事は、それからだ」


 隼人の手から力が抜けるのと同時に、襖が閉じられた。あとに残った小さなエアコンの音が、静かに響く。

 隼人は僕を見下ろし、小さく息を吐き出して不器用に笑ってみせた。







 このマンションで僕に与えられたのは、東向きの大きな窓がある六畳ほどの小さな部屋だった。ほかに、父の書斎と、父と美奈子さんの寝室になっている和室がある。

 父は隼人がお風呂に入っている間和室から布団を出してきて、僕のベッドの傍に敷いた。机とベッドのあいだの、畳一畳ぶんのスペースだ。父は布団を敷き終えたあと、少し狭いけどな、と小さく呟いた。


「狭いけど、寝れる? なんなら僕が布団でもいいけど」

「充分。突然押し掛けといて布団出してもらえて、御の字だよ」


 隼人は早速布団に潜り込みながら、大きく息を吐き出したあとそう言って笑ってみせた。壁にかけた時計に目をやると、もう夜中の一時を回っている。


「明日、どんなふうに」


 冷静を装った声を出そうとしても、不安が滲み出てしまった気がする。隼人は手招きして、ベッドに座っていた僕を呼び寄せる。少し躊躇ったけれど、今は甘えていたほうが落ち着く気がして素直に隼人の隣に座った。

 僕の髪を、隼人の手が優しく撫でる。それがやっぱり心地よくて、その肩に身を寄せた。


「花村がさ」

「うん」


 隼人の肩に、声の振動が伝わる。高く、低く。僕は目を閉じる。

 やっぱり、好きだと思える。


「なんか、付き合ってた奴と別れて」

「ああ、言ってたね」

「な。それで、言いたいこと言えずに別れたみたいだったけど」

「もったいない」


 素直な本音を口にしたら、隼人の肩がちいさく上下する。頬が少し擦れて痛かったけれど、心の底はふんわりと暖かい。


「そう。もったいない。でもあいつ、ちゃんと向き合ったんだってさ」

「え、そうなの」

「うん」


 思わず見上げたら、優しく笑う隼人の顔がそこにあった。何だか照れくさくて、思わず視線を逸らす。


「そっか、花村、逃げなかったんだ」

「そう。逃げなかった。まあ、なんかすげえブツブツ言って……なんだっけ、紙袋がどうとか」

「なにそれ。紙袋?」

「うん、なんかよくわかんねえけど。それで、自分の居場所はもうあそこにはないんだとか何だとか言って、じめじめ泣いてた」

「じめじめ」


 言いたいことを言ってきちんと別れたのなら、その後に残る寂しさもきっといつか誰かを思いやる力に変わる。花村はきっと今、その寂しさに浸っている最中なんだろう。


「いいと思う。泣いたってね」

「うん。あいつは大丈夫だろ」

「花村、なんだかんだ言って思わず構っちゃいたくなるタイプだから、きっとまた良い人見つかるよね」

「甘え上手」

「そうそう」


 甘え上手、と言いながら隼人は僕の頭を撫でる。苦笑いしているという事は、僕は甘え上手じゃないという事なんだろうか。

 もっと甘えろ、と、何度か人に言われた事はある。そんな事を言われても僕は、隼人以外の誰かに甘える術を知らない。


「隼人は甘え上手だよね」

「は? なに言ってんのお前」

「無意識に誰かの懐に、すっと潜り込んじゃうんだよ。それで、いつの間にか甘えさせられてるタイプ」


 だから隼人の周りにはいつも、隼人のことを優しく見守る人間が集まるんだ。なにも言わずそっと、隼人が歩くだろう道を照らす。


「隼人はいつも、寂しがりやさんだから」


 こんどは僕が隼人の頭を撫でる。隼人は戸惑ったような目で僕を見下ろして、首を傾げた。自覚はないんだろう。あの頃だって、淳や智也に散々手を焼かせていたくせに。

 いま働いているカフェの店長さんだって、客が店を気に入ったからといってそう簡単に場所を提供する条件を提示するなんて、ちょっと考えられない。店長さんには、隼人の心の奥にある寂しい部分が見えたからなんだろう、きっと。


「だから誰かの寂しさにいちばん早く気付いてあげられるんだよね。寄り添って一緒に傷ついて、一緒に笑おうとするんだ。だから僕の居場所を守ろうとしてくれるんでしょ? あの頃も、今も」


 隼人はほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、黙り込んだ。

 僕は隼人のそんな優しさがあったから、もう一度誰かを信じてみようと思えたんだ。それは間違いじゃなかった。隼人が居たから、今の僕がある。いま隼人がここに居るから、未来の僕がきっと、ある。


「なに言ってるかよくわかんない」


 呆けた顔でそんな事を言って、わざとおどけてみせる隼人の頭を思い切り叩いたら、涙目で、ひどい、と文句を言われた。


「明日」

「うん」


 再び隼人の肩に凭れた僕の手を、隼人の手が包み込む。重なった四つの手を見つめながら、窓の外を吹き荒れる風の音を聞いた。


「明日もし親父がさ、反対したら……まあ、反対するのが当たり前だけど」

「うーん」

「多分もう、会えない」


 部屋の空気が一瞬で凍りついた気がした。こんなに近いところに居るのに、一瞬で隼人が遠くへ行ってしまったように思えた。


「でも、逃げたくない」

「……うん」

「だから少しでも、近くに居られるように」

「うん」

「魔法、かけて」


 そんな事を言いながら隼人は、ん、と唇を突き出す。その顔がおかしくて、泣きそうなのに笑った。

 目を閉じる隼人の前に向き直って、心のなかで呪文を唱える。

 大丈夫。大丈夫だよ。僕らを照らす月はいつだって綺麗なんだ。

 隼人の肩に手を置いて、ゆっくりと顔を近付けた。窓を揺らす風の音が響く。


 全ての音が、きえる。




 



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