水の音・8
雨はますます強くなって、風は容赦なく街路樹を揺らす。手にした傘が吹き飛ばされそうになって、柄にしがみつくようにして持った。
峯岸先輩はこれから、誰かをまた好きになることが出来るだろうか。誰かをまた、抱きしめたいと思える日が、来るだろうか。
同性同士の恋愛は異性同士のそれよりきっと複雑で、受け入れて貰えない事のほうが多いだろう。それどころか勇気を出して想いを告げたとしても、それまでに築いていた友情や信頼関係まで崩れてしまう事だってある。
それだけに、彼が僕に想いを告げてくれたそのこと事態が僕にはほんとうは、嬉しかった。たとえ僕が首を横に振っても、それまでの信頼関係は崩れないと踏んだからなんだ、きっと。それだけ僕を信用してくれているんだと思えて、嬉しかった。
だけど彼への感情はそれに留まって、決して愛情へと変わったりはしない。
どうして。どうして僕は、こんなに隼人だけに拘っているんだろう。どうして、僕は――。
公園の木々がざわざわと揺れて、その上に広がる真っ黒な空にうかぶまん丸の月が、まるで真っ黒なスプレーで吹きつけたような雲の隙間から顔を出す。そして瞬く間にその姿を消した。
電線が踊るように揺れて、遠くで犬がけたたましく吠えた。
いつもならこの公園の中を通ってマンションへ帰る。だけどぬかるんだ地面で靴が汚れてしまいそうだ。そう思って、公園の外周を歩こうと決めた次の瞬間だった。
「ずっと先輩を想って待ってたヒロ君の気持ちはどうなるんですか?」
一瞬だけ、風が止んだ。そのたった一瞬の隙間、どこかで聞いたような声が聞こえた。そして、僕の名前。人違いかもしれない。でも。だけどもしそうだったとしたら、先輩、というのは。
こんなところに居るはずがない、とも思う。隼人の勤める店からここまでは電車を乗り継いで一時間近くはかかる。いや、タクシーなんかを使えばたいした距離でもないのかもしれないけれど。
恐る恐る公園を覗いたら、中央にある東屋の中にふたつの人影が見えた。外灯に照らされ闇に浮かび上がったちいさな東屋には、どう見ても遠慮なしに雨が降り込んでいて、とてものんびり座っていられる状況には思えない。
そろりそろりと公園に入ると、そのふたつの人影が泥だらけになっているのが見えた。何てことだ。これは、デジャブというやつか。
「なにしてんの、隼人……と、花村?」
慌てて近付いて、二人の前に立つ。隼人は僕を見上げて、目をぱちくりさせながら前髪を掻き上げた。白いシャツはすっかり泥水が染み込んで、髪にも泥がくっついてしまっている。一体なにをしたらこうなるんだ。
「ヒロ……、なんで」
「えっ、ヒロ君? えっ? え、だって帰るの明日って、え?」
隣で眼鏡を拭いたりきょろきょろと辺りを見回していた花村も僕を見上げ、見開いた細い目を白黒させている。こんな状況なのに、花村ってこういう顔をしていたんだ、なんて冷静に考えた。少し酔っているのか、顔が赤い。そういえば何だかお酒くさい。よく見ると隼人は、ビールの缶を持っている。
こんな台風の日に、どうしてこんなところで酒盛りなんだ。意味がぜんぜんわからない。
「台風で一日早く帰ってきたんだよ。なにしてんの、こんなとこで。そんな泥まみれになって」
外灯が隼人の顔をくっきりと照らし出す。前に見た時よりも少し痩せたかもしれない。辺りが暗いせいか、灯りの色のせいか、妙に色が白くみえる。
隼人は僕をじっと見上げ、すこし肩をあげて困ったように笑った。
「……鬼ごっこ、かな」
隼人の声だ。
今、図らずも隼人が目の前にいて、隼人の声がするのは当たり前の事だとわかってはいたけれど、その声がすぐそばで聞けた事が信じられなくて思わず自分の耳を疑った。
「うわ、懐かしすぎるでしょ、そのネタ」
花村の声に、我に返る。花村は足元に転がっていたペットボトルの水を持ち上げて、ごくごくと喉に流し込む。いま拭いたばかりの眼鏡が、もう雨で濡れてしまっていた。
「じゃあ僕そろそろ、帰ろっかな」
花村がそう言って、僕と隼人を交互に見る。気を利かせたつもりだと言いたいんだろうけれど。なんだその押し付けがましい感じは。それにしたって、そんな泥まみれの格好じゃ帰るに帰れないんじゃないだろうか。
「……その格好で帰るの?」
「あー、その服じゃ電車もタクシーも嫌がられるぞ。まあ、俺もだけど」
隼人はそう言って泥だらけのシャツの胸元を指で摘んで顔を顰める。首元に提がったネックレスが、外灯にきらりと光った。泣きそうになる。それはあのとき僕が隼人に贈ったもので。一生大事にすると、隼人が言っていたもので。
鼻の奥がつんとして、咳払いをしながら、傘を風から守るふりをして二人に背を向けた。傘の骨が、強い風で背中にぐいぐいと押し付けられる。少し、痛い。
脳裏に、先輩の背中越しに見たぼんやりとした青い光がちらついて、強い風に飛ばされるように一瞬で消えた。
「お前が引っ張ったりするから」
「知りませんよ。僕は起こしてもらおうと思っただけです」
「ふざけんな、わざと強く引っ張っただろうが!」
「いやまさか。先輩がこんな細腕に引っ張られちゃうわけないじゃないですかぁ」
「ああもうお前むかつく!」
うしろで、水溜りを踏む音がした。隼人が、振り返った僕の手を掴んで東屋の屋根の下に引き込んだ。風の音が小さくなる。こんな小さな屋根でも少しは雨風を凌げるんだと、妙に感心してしまった。
「傘差してたって濡れるだろ。まあ、ここもあんま変わんねえけど」
「この風だからね。隼人だっていい加減濡れてる。風邪引いちゃうよ」
飛ばされてしまわないように傘を畳みながら見上げたら、隼人は小さく笑って濡れた髪を掻き上げた。
以前より髪が伸びた。長い前髪を後ろに流したら、くっきりとした眉があらわれて、その下の瞼にきれいな二重の線がみえた。右目の下、際に小さなほくろがある。昔はこんなところにほくろはなかったはずだ。妙な色気があって、何だか見てはいけないものを見た気がして思わず目を逸らした。
「な、ヒロ」
「なに?」
隼人の手は僕の手を掴んだままだ。その体温があの頃とおなじで、躊躇いながら合わせた僕の目にうつった隼人の困ったように眉を下げるその表情も、まだ幼かったあの日とちっとも変わっていない。
胸の奥に、七年前のあの日に感じた温度が蘇った気がした。こんな天気なのに、こんな夜なのに、どこまでも続く青空と、川沿いを吹き抜ける湿った風が蘇った気がした。
「……その、誤解だから」
隼人は片手で目を擦って、なにか気まずそうに首の後ろを掻く。何のことを言っているのかわからず首を傾げた僕に、隼人は言葉を続ける。
「花村から聞いた。俺がなんか、女と暮らしてるって」
「あ……、そ、そうだよね。いや、その、別にだからどうっていう……あれじゃないんだけど」
僕はなにを言っているんだ。何だか頭に血がのぼって、うまくものを考えられない。こうして隼人が誤解を解こうとしているということは、つまり、だから。
「あんま言うと嘘っぽくなるんだけど、あれは不動産屋の人で」
あれ、と隼人が言うのはきっと、僕が花村に言ったあの女性のことなんだろう。そういえばあの時隼人の顔は見えなかった。冷静に考えてみれば、あの女性はきちんとしたスーツを着てなにか資料のようなものを手にしていたじゃないか。
少し考えればわかることを簡単に誤解していた自分が妙に恥ずかしくなって、頭に血が上る。
「うん、そうだよね。だけどほら、隼人って昔からモテるからね、付き合ってる人のひとりやふたりいても」
「は?」
そうだ、あの女の人のことは誤解だったかもしれないけれど、だからといって浮いた話がひとつもないとは限らないんだ。今だってもしかしたら他に好きな人なんか居てもおかしくはない。
隼人はなにかをじっと考えるように口元に手をあてて、黙り込む。それから短く息を吸い込み、じっと僕を見下ろして瞬きをした。
「ヒロ、明後日」
「え?」
「明後日、誕生日だよな」
さっきの話題は隼人の中でけりがついてしまったんだろうか。僕は何だかすっきりしない気持ちで、けれどそれを顔には出さないようにして、大人しく頷いてみせた。
隼人は離れている間もずっと、僕の誕生日には連絡をくれた。それはほんの短い言葉で、おめでとう、とか、大きくなったな、なんていう、僕の兄としての言葉たちだった。僕はその言葉を受け取る度に、隼人との距離を感じていたんだ。
僕は弟で、隼人は兄で。
だから僕はじぶんの誕生日が、すこし、嫌いだった。
「覚えてる? 七年前」
隼人は躊躇うように言葉を続ける。疑問符の付く言葉を口に出したとき、語尾にむかうにつれて傾げる首。せっかく掻き上げた髪がぱさりと落ちて、瞼にかかった。
「……そりゃ、覚えてるけど」
七年。まだ年若い僕らの七年は途方もなく長い時間だった。そして七年前の僕らは、当然今よりずっと幼かった。まぼろしのような約束事すら簡単に信じてしまえるくらい、こどもだった。
なにもかもを捨てて二人きりで生きていきたいと、どこか本気で思えてしまうくらい、こどもだった。
そう思っているのに、今でも変わらず隼人を想っている自分がやけにこどもに思えて、情けなかった。僕はいつまでたっても同じ場所に居る。ここから、動けずにいる。
「なあ、ヒロ」
隼人は東屋の中央にあるテーブルに腰掛けて、隣をぽんと叩く。行儀が悪いとは思ったけれど、今濡れずに座るにはそこに陣取るより他方法はない。大人しくその隣に座り荷物を置いて、隼人を見上げた。
花村はそのテーブルを囲むようにして設置してある四つのベンチのひとつに、だらりと横になっている。かろうじて起きているようで、ぼんやりとした目をこちらに向けている。だけどきっと僕らの話の内容なんて頭には入っていないだろう。
「ちょっと、聞いて。独り言だから、すぐに忘れてくれていい」
隼人はいつも僕に無理強いはしない。なにをするにしても、僕が嫌だと言えば大人しく引き下がって様子を見てくれる。そんなところも変わっていないんだと実感して何だか嬉しくなった。
僕が頷いたのを確認してから、隼人は長い息を吐く。それから短く息を吸って、いちど外灯を見上げてから僕に向き直った。
「俺は、ずっとヒロのことを大事に思ってる。あの頃からずっと。今も、気持ちは変わらない」
首元のネックレスを見た時に確信したことを、隼人は改めて口にしてくれる。僕が息を吸い込んだら隼人は片手をあげて、まって、と呟くように言った。
「それでさ、すげえ考えたんだよ。七年もあったからさ、考える時間なんか腐るほどあったし。色々余計なことも考えたし、何度も気持ちの整理だってした。それが正しいか間違ってるかって言えば、きっと間違ってるんだろうって、今でも変わらない結論しか、出せない」
「隼人」
「例えば軽い気持ちで、出来心なんかでそういう関係になったとして。多分それは軽々と乗り越えられてしまう問題なのかもしれない。親にも誰にも秘密にして、そういう秘密の関係っていう響きに囚われたふりをして、ふたりで遠くへ行ってしまう事だってきっと、出来るんだと思う」
「……うん」
隼人はいちど深い溜息を吐いてから、自分の足元を見るように視線を落とす。つられたように視線を追ったら、泥だらけになったレッドウイングの靴がみえた。右の紐が、解けてしまっている。
「だけど俺は、それが出来ないんだ。ちゃんと乗り越えたい」
隼人の言葉には強い決意が込められていて、僕はなにを言う事も出来ない。隼人は身を屈めて靴紐を結び直してから、その足を左足の上に組むように乗せた。
「ヒロの帰る場所を、失くしてしまいたくない」
隼人の言う事もわかる。だけどそんな事は到底不可能に思えた。あの父が、許すはずもない。だけどもしかしたら、という気持ちもあった。現に父は未だかつて、僕に恋人の存在を確認した試しがない。忘れた頃に出る隼人の話題の時は、僕を試すように、まるで僕の顔色を窺うようにしていた。父はもしかすると知っているのかもしれないとさえ、思えた。僕はそれを確かめる術もなかったけれど。
「今ヒロの気持ちがどこにあるのか、俺はわからない。だからこれは俺の勝手な決断で、ヒロには関係ない事だ。親父に話したって、ヒロは知らなかったで済ませばいい。俺が訳の分からない事を言ってるって、それで終わる」
「なに、言ってんの」
「だから、親父に俺の気持ちを話すよ」
隼人はずるい。いつだって自分だけ悪者になろうとする。
長野に来た時だって、結局は隼人が勝手に僕を連れ回したんだという話になった。何度父を説得しても、隼人がそう言っていた、の一点張りだった。僕は僕の意志で隼人について行ったのに。
「だめだよ、隼人」
「え、なんで」
「僕もそれ、一緒にやる」
「ヒロ」
「ねえ隼人。どうして僕たちが七年も会わなかったのか、その理由はわかるよね」
僕の手を握った隼人の手を、両手で握り返す。隼人の手は、暖かい。
隼人は眉を顰めたままいちどその手を見下ろして、僕を見た。
「お前が、大人になって自分の意志で何かを決める事が出来る歳になるまで、って」
「そう。だから僕はもう、自分で決めるよ」
「ヒロ」
「いつまでも子どもじゃない。隼人も僕も。だから、大丈夫。僕の気持ちも、あの時と変わってないんだ。正しいとか正しくないとか、そういう事じゃなくて」
隼人はまだなにかを言おうとしていたけれど、それを遮って唇をかさねた。隼人の手は一瞬戸惑ったように僕を押し返そうとしたけれど、それはすぐに僕の肩に乗せられた。
ゆっくりと唇を離すと、隼人は困ったように眉を下げて笑う。
「難しいかもしれないけど。それにお父さんのこと、きっと傷つけてしまう事になるだろうけど。だけど、生きてるから」
「……うん」
「お父さん、生きてるから。きっといつかね。解ってもらえる、かもしれない」
「うん」
天国の母には、何と報告するべきか。それは、いつか二人でお墓参りに行く時にでも考えよう。それに母ならきっと、苦笑いしながら何でもないことのように受け入れてくれる気がする。そういう、人だった。
「それで隼人」
「うん?」
話しているうちにはたと気付いた。隼人はもしかして、父がまだ長野に居ると思っているんじゃないのか。
そう思ったその時、うしろでなにか重いものが地面に落ちる音がした。隼人と目を合わせてから音のした方に目を向けると、花村が東屋の地面の端にごろりと転がっているのが見えた。泥だらけの服が更に汚れて、髪まで泥がついてしまっている。
「花村! おい! こら、寝るな!」
「え、寝てるの? こんなとこで?」
隼人が駆け寄り花村の顔を覗き込んで、ぴたぴたと頬を叩く。それでも花村は目を覚まさなかった。返事の代わりに妙に幸せそうに口の端を上げて笑い、すぐに大きないびきをかき始めた。
隼人は花村の顔に大袈裟なくらいのため息を降らせてから僕を見上げ、苦笑いする。雨と風はますます激しくなって、何も知らずに寝転がっている花村の頬を容赦なく濡らしていった。




