水の音・7
◆◆◆◆◆
「ヒロ君、一緒にかえろ」
空港ロビーの玄関前、大きな手荷物を抱えた彼女がそう言って僕に声をかけてにっこりと笑う。大きな鞄の中にはきっと、カメラやレンズなんかも入っているんだろう。やたらに重そうだ。その鞄の他にも、お土産の入った大きな紙袋をいくつか提げている。
背中にかかる長い髪を、鞄の肩紐がぐっと抑え付けてしまう。彼女は一瞬顔を顰めて、肩紐の位置を調整し直した。これは、その荷物を持ってあげたほうがいいんだろうか。
少し考えて手を伸ばしたら、彼女は何の遠慮も無しに重い鞄を僕に預けた。
「なんでそんなに荷物少ないの? お土産買った?」
「買った。荷物はホテルから送ったから。手荷物しか残ってないよ」
彼女は僕を見上げ、は、と呆れたような、感心したような声をあげた。
「カメラなんてよく宅配業者に任せられるわね。高いものなのに」
「僕のはそんな高級品じゃないし、一応貴重品扱いしてもらえるように言ったから多分大丈夫。それより緑川さん」
「はい?」
「僕、峯岸先輩に送ってもらう予定なんだけど」
大きなガラス扉の向こうに、見慣れた一台のワンボックスカーが停まる。中から峯岸先輩が出て来て、ずぶ濡れになった顔を顰めながら扉を開けた。
「ヒロ君、荷物運ぶから貸して」
「あ、これ緑川さんの。僕はこれだけだから」
「……」
彼は僕の荷物をきょろきょろと探して、僕の言葉に唖然としたように緑川さんを見上げる。彼女は彼を見下ろして、なにが悪いの、と目で訴えた。
「奈緒も乗るの? 別にいいけど、めんどくせえな」
「ちょっと、その言い方はないでしょ。ついでなんだから送ってよ。ヒロ君家のすぐ近くでしょ。それにこの雨だし、この荷物だし」
彼女は僕の肩にかけた荷物を奪うように剥ぎ取って、峯岸先輩に差し出す。渋々受け取った彼は、滝のような雨のなか車に荷物を押し込んだ。
「ちょっとー! カメラ入ってんだから丁寧に扱ってよ! 壊したら弁償!」
ドア越しに言っても聞こえない筈だけど、先輩はしかめっ面を更に顰めて、べーっ、と舌を出した。
苦笑いして僕を見上げる彼女に同じような苦笑いを返してから、ドアを開けた。強い風と雨が、一瞬で身体中を濡らす。一応持っていた傘を差してみたけれど、気休めにもならなかった。
「ヒロ君の家、こないだ送ったあの公園の辺りだよね?」
「うん。なんかごめんね。お言葉に甘えちゃって」
「遠慮するなって。奈緒は予定外だからもっと遠慮してくれてもいいと思うけど」
遠慮して後部座席に乗った僕に、ルームミラー越しににっこりと笑ってから、助手席に乗り込んだ緑川さんをじろりと睨む。緑川さんは、ふん、と鼻を鳴らして、ああ疲れた、と欠伸混じりの声を上げた。
「だけど残念だったね。ほんとはあと一日あったのに、台風なんかで」
「仕方ないよ。大泉先生って毎年そうなんでしょ? 僕去年聞いて冗談かと思ってたんだけど、ほんとに嵐を呼ぶんだね」
「そう! そうなんだよ。毎年大泉先生の研修旅行は、大雨か台風かで予定が狂っちゃうんだ。あの先生絶対前世でなんか悪いことしたんだよ」
僕の通う大学では、毎年何組かに別れて研修旅行がある。去年入学したての頃に大泉先生の研修についての伝説を聞いてはいたけれど、信じていなかった。だけどもう五年も立て続けにこんなふうに嵐を呼んで予定を狂わせているそうだ。
お陰で最終日の自由行動をふいにしてしまって、心底残念な気持ちが拭えない。僕はこの峯岸先輩と一緒に札幌の街を観光する予定だった。札幌出身の彼が、北海道の事をなにも知らない僕をぜひ案内したい、と名乗りをあげてくれたのに。
「ヒロ君に海鮮丼食べさせてあげたかったなあ」
「ホテルで食べたじゃない。あれもじゅうぶん美味しかったわよ」
「俺、最終日に食べれると思ってジンギスカンにしたんだよ。まあ、あれもうまかったけどね、ヒロ君」
「うん。美味しかった」
「美味しかったわよー。やっぱり本州とは鮮度が違うわよねー」
味を思い出し噛み締めるように話す緑川さんの口ぶりに舌打ちをしながら、峯岸先輩はワイパーを最大にしてくるくるとハンドルを回した。
「札幌の街をまわって、ヒロ君の誕生日を前倒しで祝うつもりだったんだけど」
「え、ヒロ君誕生日もうすぐなの?」
「うん。二十九日」
「ええっ、明後日じゃない。二十歳よね」
「うん、二十歳になる」
記念だねえ、なんて盛り上がる二人を眺めながら、急激に襲ってきた眠気に欠伸を噛み殺した。後部座席の窓に、外灯に照らされた雨の粒が瞬く間に流れて行く。
僕は、明後日で二十歳になる。
目を閉じたら、後部座席の下から吹き上げるエアコンの風に、足裏を擽るつめたい水の感触と、さらさらと流れる水の音が蘇った気がした。
七年前のあの日、僕と隼人はちいさな約束を交わした。
大人になったらもう一度会って、その時もお互いに月が綺麗だったら。
幼い約束だ。今更叶うなんて、きっと隼人も思ってなんかいない。それに僕たちはどれだけ時が流れても血が繋がっていて、どれだけ想っていても手を繋ぐわけにはいかないんだ。
今年のはじめ、カメラのレンズを探して買い物をした帰り道。大きなマンションの前で隼人を見た。小さな軽自動車の助手席から降りてきた後ろ姿で、もう何年も会っていなかった隼人を見分けてしまう自分の目が憎らしかった。
声をかけようか躊躇っていたら、運転席から降りてきた綺麗な女の人が隼人の服の裾を掴んで、マンションの中に入って行った。隼人がどんな顔をしていたのかはわからないけれど、にっこりと微笑む彼女の目からは隼人への好意が感じられた。
お互いに好きな人が出来たらそのときは。
当時は僕のためを思って言ってくれた言葉だと思っていた。けれど今にして思えばあれは、自分にかけた保険だったのかもしれないと思うようになった。
隼人には綾子さんという恋人が居た事もある。隼人は女の人が嫌いな訳じゃないんだ。
僕だってもしかして、と思って女の子と付き合ったりもした事はある。だけど、どうやってもうまくいかなかった。最終的には、自分の事をちゃんと見てくれない、とか、他に好きな人が居るなら言ってくれ、なんて言われて僕の元を去って行く。だから、誰かと付き合おうなんて気持ちももう何処かへ行ってしまった。無駄に傷つけてしまうこともない。
「ヒロ君って浮いた噂ないけど、好きな子いないの?」
「え?」
物思いに耽っていた僕に、助手席の緑川さんが声をかける。好きな子、好きな人。そう言われて脳裏に浮かぶのは、ずっと隼人ひとりだなんて、そんな自分に心底呆れてしまう。
「……いないよ。僕、恋愛に興味ないから」
「ふうん。なんか今そういう人増えてるんだってね。でもヒロ君って、なんていうか」
「何だよ」
何だよ、と言ったのは峯岸先輩だった。何だか、むっとしたような口調に聞こえる。僕の勝手な思いあがりでなければ、彼は僕に好意を持っている。だけど彼は決して無理強いしない。それがわかっていて時々その気持を利用してしまいそうになる自分が、心底嫌いだ。僕は、ずるい。
「すごく大切な誰かが居て、その人への想いをずっと胸に秘めてるかんじ。女の勘だけど」
「そんなこと、ないよ」
かぶせ気味に言ってしまって、しまったと思う。いくらなんでも今のは不自然だった。彼女は軽口でそう言ったのかもしれないのに、これじゃあ、それが真実だと言ってしまっているようなものじゃないか。
「……まさか、ほんとに?」
信号が赤に変わって、ブレーキを踏んだ彼女がミラー越しに僕を見つめてそう言って目を輝かせる。前の車のブレーキランプが、雨の粒に反射して眩しかった。
「……そんなことないってば。そんな事より緑川さん、橘君と良い感じだって聞いたけど」
「ええっ! そんなこと誰に聞いたの! うわあ、噂になってる? 良い感じっていうか、ただの片想いなんだけどね!」
「橘!? 奈緒って趣味悪っ!」
「うっさいなあ! 人のことはほっときなさいよ、留年野郎!」
「俺は好きで留年してるの! 何年でもあの大学に居たいの!」
「親の迷惑考えなさいよ! この、成金!」
「成金言うな! 二度と奢んねーぞ!」
うまくはぐらかせたのかどうかわからなかったけれど、取り敢えず話は変わった。ほっとして窓の外に目をうつしたら、どこからか飛んできたビニール傘が歩道を滑るように飛んで行くのが見えた。
ずいぶん風が強くなってきた。予定を一日早めて帰ってきて正解だった。このぶんだと、明日の便は欠航になっていたかもしれない。
ポケットから携帯を取り出して、画面をスライドさせる。時間は、午後の十時を過ぎたところだった。
たくさんのアイコンが並んだうしろに、智也が送ってくれた僕の故郷の景色が映っている。
ハリウッドで映画を撮るんだと意気込んで留学した智也にだいたいの住所を言ったら、そんなに遠くない、と喜んで度々僕の故郷に立ち寄って写真を撮って送ってきてくれる。
子どもの頃によく遊んだ公園や、日曜日に近所の人に半ば強引に連れて行かれていた教会、学校に行くために乗っていたスクールバスなんかが写り込んでいて、その度に懐かしい気持ちになる。
はじめのうちはそれでも、写真を見る度にどこか感傷的になるんだろうと思っていた。けれど、意外にも落ち着いた気持ちで見ることが出来るのは、やっぱり僕も大人になったという事なんだろうか。
そのとき一通のメールが届いた。帰りは何時になるのかという確認だった。手早く返信をして、何気なくメールの一覧画面を開く。いちばん下までスクロールしても、隼人の名前は出てこなかった。
隼人から最後にメールが届いたのは携帯を替える前で、今年の春だった。僕はそのメールに返事を返すことが出来なかったんだ。それ以降、音沙汰はない。
花村の言うようになにかの誤解だったのなら、隼人だってどうにかして僕に連絡をくれる筈だと思ったし、他に理由があるのならそれも仕方のない事だと思った。
”ヒロ、何色が好き?”
最後のメールにはそう書かれていた。何の意味があって好きな色なんか聞くんだと思った。隼人と女の人を目撃した直後の僕には、そのメールがただただ腹立たしかった。そもそも、僕の好きな色くらい覚えていない隼人に、心底腹が立った。だから、返信が出来なかった。
子どもみたいだと思う。だけど、妙なプライドが邪魔をして、何度も書きなおした末にシンプルに纏まった”青と緑”という一文すら送信する事が出来なかったんだ。
そんなくだらないプライドは捨ててしまえばいいという事は知っていた。だから僕は、携帯を変えてもアドレスを変えることが出来なかったんだ。
「ヒロ君、寝ちゃった?」
黙り込んだ僕に、緑川さんが無理やり首を捻って振り返った。首を横に振ると、彼女は安心したように口元を緩めた。運転席の峯岸先輩も、ミラー越しに僕をちらりと見てにっこりと笑った。
――峯岸先輩は優しい。
いつだって僕を気遣ってくれて、なにか相談事はないかと、事あるごとに聞いてくれる。僕が少しでも首を傾げていたら飛んできて、困っていないかと心配してくれる。彼はとても優しいけれど、だから隼人のかわりに、とはいかない僕の頑なな心が憎たらしくて、情けない。そもそも、隼人のかわり、なんて失礼な事は決して出来ない。
素直に甘えてしまえば楽なんだろう、きっと。
峯岸先輩は緑川さんの言うように留年を繰り返してはいるけれど、僕や緑川さんと同じ二年だ。だから敬語は使うなと言われてそうしているけれど、呼び捨てはどうしても出来ない。「先輩」とつけることだけは許してもらったけれど、敬語を使うと返事すらしてもらえない。
噂によると去年までの留年は成績のせいだったけれど、今年の留年は僕のせいらしい。申し訳なく思いながらも、僕を気遣ってくれる人が身近に居る事が本当は少し、嬉しかった。それだけに、僕が彼を必要としていない事が心底、申し訳なかった。
「腹減ってない? ヒロ君。あれだったらコンビニ寄るけど」
「ちょっと、私には聞かないの? 私おなか空いたけど」
「知らねえよ。両手にわんさか土産持ってただろ。箱あけて食ってろ」
漫才みたいなやり取りに、笑いが込み上げてくる。肩を揺らして笑い出した僕に、二人は不思議そうな視線を投げかけた。
「……なんか、おかしかったみたいよ」
「……そうみたいだな。よくわからんが、もう一度聞く。腹減ってない?」
「うん、大丈夫。ありがとう。でも少し喉が乾いたかな」
じゃあコンビニ寄ろう、と言い終わるが早いか、彼はすぐそこにあったコンビニの駐車場に車を滑り込ませた。
「僕、買ってくる。なにがいい?」
「いや、俺行くよ。ヒロ君飲み物だけだろ。俺腹減ったし。なにがいい?」
そう言いながらもう財布を握ってドアをはんぶん開けている。大粒の雨がドアの内側を濡らして、小さな呻き声を上げて、彼は開けたばかりのドアを閉めた。
「すげー雨。一瞬でめっちゃ濡れたし」
「やっぱり僕が」
「いや、俺もう半分濡れたから。お茶でいい?」
「……じゃあ、お茶で」
「私、おでん食べたい!」
「ねえよ! 夏だよ! お前、おにぎりとかでいいだろ」
にっこりと笑って手を上げておでんを要求した緑川さんに、彼は半分笑いながら指を差してさっさと車を降りてしまった。
外の雨音が一瞬だけ大きくなって、ドアを閉める大きな音とともにまた遠ざかる。湿った空気が狭い車の中に充満して、一瞬だけ夢のなかに居るような気分になる。
「ヒロ君さあ」
「なに?」
緑川さんはお土産の入った小さな紙袋からひとつ、箱を取り出して僕に差し出す。これ食べて、と何だか威圧的に言われて、すごすごと受け取った。
「さっきの話、ガチなんでしょ」
箱には、六花亭、と書かれていた。ここのチョコが美味しいんだと彼女が皆に言って回っていたのを思い出す。
「……なんの事かな」
「とぼけないの。そんな可愛く首傾げたって誤魔化されてあげないわよ」
可愛く首を傾げたつもりもなかったけれど、どうやら彼女の目にはそう映ったらしい。苦笑いしてみせたら、彼女はにっこりと、だけどどこか威圧的な空気を出しながら笑った。
「ま、言いたくなかったらいいんだけどね。何だかヒロ君、辛そうなときあるから」
「え、そんなことない」
「自覚もないのねえ。その、ふと見せる辛そうな、寂しそうな表情に皆ほだされてるって言うのに。思わず手伸ばしたくなっちゃうのよ。……峯岸みたいにね」
峯岸みたいにね、という箇所だけ、やけに強調して言った彼女はきっと気づいているんだろう。彼の気持ちに。そして、それに応えられない僕の気持ちにも。
彼女の横顔、その視線の先を目で追ったら、カウンターに商品を置く峯岸先輩の姿があった。緑川さんはゆっくりと目を閉じると、もう一度目を開けながら振り返った。
「峯岸は駄目な奴だけど、良い奴だからさ。無駄に傷つけるようなことはしないでね」
「……緑川さん」
「ヒロ君の恋がうまくいく事を祈ってるわ」
彼女はそう言って、またゆっくりと前を向いた。手にした箱の乾いた感触がやけに肌に刺さる気がした。
「じゃあまたね。峯岸、助かったわ。ヒロ君、おやすみ」
「おー、またな。土産食い過ぎて腹壊すなよ」
「おやすみなさい。また」
先に降りた緑川さんは、自宅のあるマンションのエントランスでにっこりと笑って手を振る。雨にくわえて風も強くなってきて、長い髪が顔にまとわりついたのを鬱陶しそうに振り払った彼女は、すぐに自動ドアの向こうに引っ込んで髪を整え、改めて手を振った。それに手を振り返して、送迎用に張り出した屋根の下からそろりと車を出した。途端に、車の屋根に落ちる雨の音が大きくなる。
僕の住んでいるマンションはここから歩いても帰れる距離だ。ここでいい、と言い張ったけれど、少しでも濡れないほうがいい、と引き止められた。
「楽しかった? 北海道」
「うん、また行きたいなあ」
「行こうか、二人で」
「えっ」
マンションを出てすぐの信号に引っ掛かって、彼は緊張したような声でそう言ったあと、僕の反応を見てすぐに首を横に振った。
「冗談だよ」
「……あ、うん」
冗談で言ったのならいまの反応は失礼だったかもしれない。内心反省して、ミラー越しの彼に苦笑いしてみせた。彼はちらりと僕を見ただけで、すぐに前を向いてしまった。
信号が青に変わって、彼はゆっくりとアクセルを踏み込む。運転には性格が表れるというけれど、本当にそうだと思った。彼の運転は、やさしい。
そろそろ降りる準備をしようとペットボトルの蓋を閉めたその時、突然彼は車を路肩に寄せて、ハザードを点けた。目の端に、ちかちかと黄色い光を反射する民家の窓ガラスがうつった。
「ごめんヒロ君、あの……」
先輩はゆっくりと振り返って、喉の奥から絞り出すように僕の名前を呼んだ。その表情は苦しげで、視線はあちこちを彷徨っている。
「……どうかした? 気分でも悪い?」
「そうじゃなくて、あの」
ちらりと僕を見て、また視線を落とす。短く息を吸い込んで少し止めて、僕を見て目を逸らし、息を吐き出す。なにかを言おうとしている、というのはきっと誰の目にも明らかで。問題は、これから彼が言おうとしていることを僕が止めなきゃいけないって事で。
言わせてしまえば、彼はきっといつか後悔する。
「急用なら僕ここから歩いて帰るよ。もうすぐそこだし」
「違う!」
ドアに手を掛けてほんの少し開けた僕を、彼の声が制止する。あまりに大きな声だったから、驚いて肩を揺らしてしまった。道路に落ちた雨粒が跳ねて、足首のあたりが少し冷たい。ドアの隙間から大袈裟な風の音が入り込む。
「あ……ご、ごめん」
「いや……あの、ほんとに僕ここで大丈夫だから。家すぐそこだし、一応傘持ってるし」
「ヒロ君、俺」
「じゃあ、また!」
傘とかばんを掴んで、歩道に足を下ろした。頬を、叩きつけるような雨が濡らす。すぐに傘を差したけれど、あまり意味はないようだ。
「ヒロ君、待って!」
彼は傘も差さずに運転席から降りてきて、歩道の僕の前に立つ。行く手を阻まれた僕は、風に飛ばされてしまいそうな傘の柄をぐっと握って、彼を見上げた。
「先輩、風邪引くよ」
「俺さ、ヒロ君が」
「車に戻って」
「好きなんだよ!」
言わせてしまった。それこそ嵐のような後悔が襲う。視線を留めることが出来ずに、揺れる電線を見上げ、風に転がって行く空き缶を目で追った。
彼は僕を見下ろしたまま、微動だにしない。傘を差し出そうにも、身体がうまく動かない。
声を絞り出そうと喉の奥に力を入れた時、彼の両手が伸びてきて僕の肩を抱き締めた。飛びそうになった傘を風向きにあわせたら、傘が彼の肩を後ろから押してしまうことになった。
「……ごめん。ヒロ君、好きな人が居るんだろ? なのにこんな事言って、ごめん」
傘のなかでくぐもった彼の声が、耳元で響く。
「あの……」
「忘れてくれていいから。いまの、なかったことにしていいから。ただ言いたかったんだ。どうしても、伝えなきゃ死んでしまいそうだった」
「大袈裟だよ」
死んでしまいそうなんて。本当はその気持が痛いほどわかってしまう。だけど、同情ばかりもしていられない。
「大袈裟じゃないって。な、ひとつだけ教えて。ヒロ君の好きな人って、どんな人?」
耳の後ろで響く彼の苦しげな声に、胸の奥が痛くなる。彼の肩越しには、僕の青い傘にぼんやりと透ける外灯の光だけが見えた。
「どんな、って……」
一瞬で脳裏に浮かび上がった隼人が振り返って笑う。僕に手を伸ばす。僕の名前を、呼ぶ。
いま僕を抱きしめているのが隼人だったら、なんて、思ってしまう。
隼人に会いたい。
隼人に、名前を呼んで欲しい。
隼人はいま、誰を想っているんだろう。
隼人の腕の中には、誰が。
「ヒロ君……あっ! ご、ごめん、変なこと聞いてごめん! 今のなし! 今のもなし!」
僕を覗き込んで慌てる彼を不思議に思って瞬きしたら、ぼろぼろと涙が落ちて自分でも驚いてしまった。どうして僕は泣いているんだ。
「ごめん、泣かないで。もう聞かないから。嘘。さっきの嘘。ぜったい嘘。な?」
「あの、違う、なんで僕泣いて……これ、違うから」
なにが違うんだ、と自分で突っ込みながら薄い上着の袖で涙を拭いたら、傘を持っていた手の力が抜けた。当然のように傘は一瞬で遠くへ飛ばされてしまった。唖然として、口を開いたまま傘を目で追う彼の顔がおかしくて、笑った。
「あれっ、笑ってる……」
「ごめん、なんかおかしくて。……あの、ありがとう。僕あの……気持ちはすごく、嬉しかった。本当にありがとう。だけど僕」
「いやあの、違うんだよ。俺の方こそ、ありがとう」
叩きつけるような雨のなか、先輩はそう言って頭を下げる。顔を上げたとき、彼は本当にすっきりとした顔で笑っていた。告白を断ったのにこんなふうに礼を言われたのは初めてだ。不思議に思って首を傾げたら、彼は苦笑いを浮かべて照れくさそうに下を向いた。
「俺ずっと、誰のことも好きになれないと思ってた。今まで、そういう感情って知らなくて。だけど、好きになれるんだってわかったから。だから、ありがとう」
「……僕も」
「え?」
「僕も、たぶんそうなんだ。僕、誰のことも信じられなくて、だけどもう一度人を信じてみようって思えた。僕の……好きな人に、教えてもらったんだ。だから先輩の気持ち、よく、わかる」
そうだ僕は、人を信じられなくなっていた。信じていた世界中に裏切られた気がして、なにもかもが敵に思えた。だけど、隼人が教えてくれた。
「……そうか。うん」
「僕たぶん、その人のこと、諦めることなんか出来ないんだと思う。だから先輩には申し訳ないけど」
「あああ、いいよ、それは。でもあの、ちゃんと話してくれてありがとう。これですっぱり諦める。大丈夫」
彼はそう言って、すっかり雨で濡れてしまった僕の頭を撫でた。それから車のトランクを開けると、もうあまり意味ないかもしれないけど、と、黒い傘を差し出した。
「ありがとう。飛んでったらごめんね」
「そんときゃ弁償してもらう! しっかり握ってろ!」
冗談めかしてそう言って、彼は車に乗り込む。よせばいいのに助手席の窓を開けて、じゃあまた、と大きな声を張り上げた。
「ありがとう、おやすみなさい!」
雨の降り込む助手席に身を乗り出した彼にそう言って手を上げたら、彼は今にも泣き出しそうな顔をして笑った。すぐにアクセルを踏み込んで、見たこともないくらいの勢いで車を走らせて行った。
彼の貸してくれた傘の柄をしっかりと握って、すっかり濡れてしまった鞄の肩紐をぐっと持ち上げた。




