水の音・6
傘を差していても、横殴りの雨に濡れてしまう。あれこれと工夫しながら雨を避けて、それでも濡れてしまうスニーカーに、なんだか申し訳ない気持ちになる。今日くらい別の靴を履いてくるんだった。
既に時間は夜の十時半を回っている。大学で授業を受けた後みんなで斉藤のアパートに集まって課題を片付けていたらこんな時間になってしまった。
再び杉浦先輩の勤めるカフェの前に立つ。当然、店は閉店してしまっている。
だけど昨日と違って、下ろされたブラインドの隙間からは灯りが漏れていた。先輩がまだ中にいるに違いない。そう確信した僕は傘を畳んで、躊躇いながら、濡れたガラス戸を押してみた。
ぎい、と錆びた音をたててドアは開く。ふつう、閉店した店は入り口の鍵を閉めるものじゃないのか。無用心だなと顔を顰めながら中を覗いたら、カウンターに近い壁際のテーブル席で、杉浦先輩が椅子の背に凭れて目を閉じているのが見えた。
「入りますよー。おじゃましますよー。花村ですよー。」
怪しくない事をアピールするために、カウンターの奥に向かって声を張り上げた。かなり大きな声を出したつもりだったけれど、奥からは何の反応も返ってこないうえに先輩も目を開けない。畳んだ傘を入り口に立てかけ、先輩の傍まで寄って顔の前でぶんぶんと手を振ってみた。反応はない。
白いシャツの襟元が少し開いて、首元に提げたネックレスが見えた。彼が中学の頃からずっとつけているものだ。もしかして、お守りなのかもしれない。
「先輩。寝てるんですか?」
つん、と額をつついてみても、少し眉を顰めただけでいっこうに目を開けようとしない。これは困った。少しの間考えて、先輩の座っている席の、テーブルを挟んだ反対側にある椅子に腰掛けた。そのうち起きるだろうと諦めて壁に凭れたら、濡れてしまった服がしっとりと肌に張り付いた。
ふと、テーブルに置いてあるノートパソコンの画面が目に入る。たくさんの風景写真が次々と現れるスクリーンセーバーが起動していて、ぼんやりと眺めた。そのうちに僕まで眠くなって、つい船を漕いだのを立て直した拍子に、パソコンのキーに手が触れてしまった。
スクリーンセーバーが解除された画面に現れたのは、灰色の雲の隙間から真っ直ぐに幾筋もの光が落ちている、そんな画像だった。半分寝ぼけた頭でそれを眺めて、懐かしいなと思った。
あれは僕がまだ小学生の頃。
ヒロ君に想いを告げて、あっさりと振られて。それから暫くの間学校を休んでいた僕の前に現れたヒロ君が、僕に教えてくれた。
店の外に静かに響く雨の音。その音に誘われるように、真っ直ぐに前を見据えていたヒロ君の横顔が蘇る。そうか、あれからもう十年近くの時が流れたんだ。
「あれ……、うわ、なに花村。いつからいたの」
「え? あ、先輩起きましたか」
過去の映像がそれこそスクリーンセーバーのように次々と蘇りはじめた僕の思考を、先輩の少し間延びした声が遮った。彼は寝ぼけ眼を擦って、訝しげな表情で僕を見上げる。
「鍵開いてた? 俺閉めたと思ったんだけどな」
「開いてました。無用心ですよ」
彼の横で船を漕いでいた自分を棚に上げてそう言ってみせたら、彼は大きなあくびをしながら、悪い悪い、と、悪いなんて一欠片も思っていなさそうな調子で言った。
「三日カンヅメだったから、ろくに寝てねえ。仕事しようと思ってたのに、座った途端に寝ちまった」
「仕事って、パソコンひとつで出来る感じですか?」
僕と先輩の間にあるパソコンを指差したら、彼は、うーん、と唸って、画面を眺めた。
画面はもうスクリーンセーバーに切り替わっていて、どこかの国の風景写真が延々と、眠くなってしまうくらいのテンポで流れて行く。
「あとギターとか……。なきゃないでも出来るけど」
「え、なにそれ、作曲?」
「作詞作曲。これでも一応売れてんだぞ。名前出してねえけど」
「名前出してないって、なんで」
「色々めんどくせぇだろ、目立つと」
眠いせいか、どうも今日はガードが緩い。こないだはその情報を大きな壁のむこうに隠していたはずだぞ。今の彼は何だかふわふわした表情で、まるで真夜中に目を覚ました小さな子どもみたいだ。今ならカードの暗証番号すら聞き出せてしまえそうな気さえする。
「先輩、帰って寝たほうがいいんじゃないですか? なんか、危なっかしいですよ」
「は? なにが。てか花村なにしに来たんだよ。お前ストーカー疑惑かけられてんぞ」
立ち上がって伸びをした彼は、むっとした表情で僕を見下ろす。どうやら少し目が覚めてきたようだ。
「なにしにって……。僕、ヒロ君に会ったって言いましたよね」
「……ああそうだった。そうだったな」
座り直した先輩は二度繰り返してそう言って、長めの前髪を両手で掻き上げた。意外にも綺麗な眉が現れて、思わず二度見した。そうか、この人は俗にいうイケメンなんだ。改めて整った顔立ちを眺めていたら、彼は顔を顰める。
「何だよ」
「いえ……。先輩、モデルにでもなったらいいのに」
「は? なに寝ぼけたこと言ってんの?」
多少寝ぼけたことを言ってしまった自覚はある。だけどはんぶんは本気だった。まあ本人にその気がなければ関係ない話だ。苦笑いを返したら、先輩は呆れたように短いため息をついてから、天井を見上げた。
「ヒロ君、誤解してますよ」
「なにが」
「先輩が、女の人と暮らしてるって。そんなわけないですよね」
「何だそれ……。女って、幽霊? 超こえぇ。最近金縛り多いんだけど、そういう事?」
どうやら本当に誤解らしい。本気で怖がっている彼を見て安堵のため息をついたら、彼は暫くの間肩を竦めたまま視線をあちこちに巡らせて、ふと我に返ったように、なんで、と呟いた。
「なんか今年の初めに、マンションに先輩と女の人が一緒に入っていくのを見たとか言ってましたよ」
「今年の初め。マンション。女……」
腕組みをして、低く唸る。だけどわからないようで、ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしった。上げた手をテーブルの上に落としたとき、パソコンのトラックパッドに指が触れた。再びスクリーンセーバーの解除された画面にうつった風景画像に、きっと、僕と先輩は同時に目をやった。
「これ、綺麗ですね。先輩が撮ったんですか?」
「いや、拾いもん。俺、写真の才能なんかねえもん」
「天使の梯子って言うんですよね、これ。ヒロ君が言ってました」
「……ヒロが?」
訝る先輩にことの成り行きをかいつまんで説明したら、彼はちいさく笑って、それからゆっくりとパソコンを閉じた。
閉じたパソコンをきれいに鞄に仕舞ってから、立ち上がる。もう少し話したかったけれど帰るのなら仕方がないと諦めて、ポケットに入った紙を取り出して彼に差し出した。雨で少ししっとりしてしまっている。破れないように丁寧に広げたら、彼も慎重な手つきで受け取った。
「ヒロ君、今研修旅行で北海道らしいです。帰りは、水曜の夜」
「北海道。ふうん……帰りは明日ね」
さして興味も無さそうにそう言って、紙を僕に返す。仕方なく受け取ってまたポケットに畳んで入れた。
それからパソコンの入った鞄をカウンターの向こう側に置いた先輩は、財布と携帯をポケットに突っ込みながら出てきて、言った。
「花村、時間あるか? 少し出よう」
雨脚の強くなった通りでタクシーをつかまえて、適当に飲める店に行こうということになった。どこかいい所はないかと尋ねる先輩に、滅多にお酒を飲みに行かない僕は当然適当な店なんか知らなくて、つい昨日行ったあの店の名前を出した。
「遠い」
僕の小さな傘を広げながらタクシーを降りた先輩は、そう言って眉を顰める。店ののれんを潜って、傘を畳んで傘立てに押し込んだ。小さな傘立ての奥で、ぎゅっ、と苦しそうな音が聞こえた。
「僕ここしか知らないんですよ」
ふうん、と言いながら先輩は引き戸の取っ手に手を掛ける。からからと軽い音をたてて開いた引き戸の向こう、昨日と変わらずごちゃごちゃとした光景が僕らを迎えた。眼鏡にくっついた水滴に照明の灯りがきらきらと反射する。いちど眼鏡を外して服の裾で拭いた。
カウンター席は既にいっぱいで、仕事帰りの男女や家族連れ、微妙な雰囲気の飲み会らしい団体で座敷席やテーブル席もほとんど埋まっていた。
料理と酒の匂いが混ざって、身体中を包む。先輩はカウンターに向かって、窓際のひとつだけ空いている席を指差す。店の主人はにっこりと笑いながら頷いた。
「えらくごちゃごちゃしてんな。お前こういう店来るんだ」
「あー、僕の友達が。なんかここお気に入りらしくて」
「へえ。普段小洒落たとこに居るから、なんか新鮮だな」
先輩はそう言って、口の端を上げて笑う。テーブルの隅に置かれていたメニューを取って一通り目を通した彼は、難しい顔をして僕にメニューを差し出した。
「なんかよくわかんねえから任せる。俺ビールね」
「ああ、はい」
「なあ、思い出したわ」
テーブルに運ばれてきたおしぼりで雨で濡れてしまった腕を拭きながら、彼は唐突に言った。なんの事かわからずに、メニューから顔を上げてその顔を見た。
「いま住んでるマンション。今年の初めに借りたんだよ。で、そん時案内してくれた不動産屋が女の人だった」
「あー、なるほど。それを、一緒に住んでる女性だとヒロ君は誤解した、と」
「そういう事みたいだな」
黙り込んだ僕を、彼は頬杖をついて見下ろす。木製の細長い板をいくつも組み合わせて造ったテーブルで、シャツの袖を捲っている彼の肘がその僅かな段差で何だか痛そうだ。
何故か今日の彼はあのカフェの制服であるかっちりとした白いシャツのままだった。下だけはカジュアルなジーンズを履いている。普通に着ていたらえらくアンバランスな組み合わせの筈なのに、彼が着たらそのアンバランスさが逆に味になっているから、ずるい。
長い前髪が少し濡れて、ぺたりと額に貼り付いていた。指で掬いたくなって、ぐっと堪える。僕はこういう人間だから、誤解されても困る。先輩は誤解したりしないんだろうけど、やっぱり。
「お疲れ、です」
「……ああ、お疲れ」
お疲れ、と言ってビールをひとくち飲んだあと、先輩は改めて手を合わせて、きちんといただきますを言ってから箸を持ち上げた。
「先輩て意外と、なんていうか、きちんとしてますよね」
「は? なに言ってんのお前」
「いや、だから」
箸の先で器用に突き出しの豆を摘んで、そう言ってから口の中に押し入れる。もぐもぐと咀嚼してから、もうひとくち、ビールを飲んだ。
小さなテーブルには、次々に注文した料理が並べられて行く。はじめのうちはひとつ運ばれて来る度に、うまそう、とか、これ好き、なんて言っていた先輩も、料理でテーブルが埋め尽くされた頃には、ただ苦笑いを浮かべていた。なんだその顔は。だって、任せるって言ったじゃないか。
「うるさいです」
「なんも言ってねえだろ」
「ビールおかわり。先輩は?」
「じゃ俺も」
いい具合にアルコールが入ってきた頃、先輩は窓を少しだけ開けて胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。煙は、窓に向かってゆっくりと吐き出す。アンニュイなその仕草や表情がいちいち格好良くて悔しい。僕が同じ事をしても、そんな雰囲気は出せないぞ。
「煙草吸うんですか」
「飲むときはね。いる?」
「ください」
僕も煙草は時々吸っていた。だけど、涼介が嫌がるから控えていたんだ。いちど涼介のアパートのベランダで吸っていたら、それとなくたしなめられた。体に悪いのも、経済的じゃないのも充分解っている。解っているけれど、なんだかそういう問題じゃないんだ、こういうのは。
差し出された煙草を受け取って火を点けると、久々に吸い込んだ煙に頭がクラクラした。だけど心地良い。
「なんか、話あったんだろ」
「え?」
「話したいって顔に書いてたから。だから誘ったんだけど」
紫煙のむこう、先輩がそう言って片目を細め、椅子に背を預ける。いま置かれたばかりの彼のジョッキは既にはんぶん減っていた。心なしか、目が据わっているような気がする。もしかして、酒はあまり飲めないのか。
ジョッキを持ってビールを喉に流し込む。どん、とテーブルに置いてから灰皿に置いたままの吸いかけの煙草を手に持ったら、盛大なげっぷが出た。先輩は横目で僕を見て眉を顰める。失礼、と片手を上げたら、彼は、うん、と頷いた。
「話っていうか。言いたいことがあったんです。言ってもいいですか」
「あー、お前さ……」
僕の真意を察したのか、彼は煙たそうに瞬きをして、視線を落とす。お前さ、と言ったきり黙り込んだから、言っていいものと勝手に判断して、息を吸い込んだ。
「先輩は、なにを怖がってるんですか?」
「……別になにも、お化けは怖いけど」
そんな事を言いながら、煙草を灰皿に捩じ込む。最後に残った煙が一筋、すうっと天井に昇って行った。思わずそれを目で追ったら、ヤニでくすんだ天井が目に入る。隅の方に、埃をひっかけた蜘蛛の巣がゆらゆらと揺れているのが見えた。
「そんな話してません。ヒロ君のことですよ。わかってるくせに」
「お前なんで他人のことにそんな一所懸命なわけ? めんどくせぇな」
彼は僕を下から見上げ、片目だけ細めていかにも面倒くさそうに言って咳払いをする。また煙草を取り出したけれどジッポのオイルが足りなかったのか、うまく火がつかない。諦めて、火の点いていない煙草を灰皿の隅に置いた。
先輩を見ていたら、自分の指に挟んだ煙草が短くなっているのに気付けなかった。指先が熱くなって、慌てて灰皿に押し付けて火を消した。指先から、煙の匂いがする。
「お互いに好きな人が出来たら手を離すとかなんとか、約束したって聞きましたけど」
「……そうだよ」
奥の座敷席から、団体客が大きな声で歓声をあげているのが聞こえる。続いて盛大な拍手が沸き起こり、笑い声が響く。先輩は声のほうに一瞬だけ目をやって、またすぐに視線を落とした。
「でも他に好きな人なんていないんですよね。じゃあ、誤解を解けばいいじゃないですか」
「いいんだって。このままで。それであいつの中で会わない理由になるんだったら、いいんだよ」
「なにがいいんですか。好きなんですよね、ヒロ君のこと。今でも大事だって思えるんですよね?」
「そりゃあそうだけど、でも」
「わけわかんないとこで似ないでくださいよ……。そんな遠慮しあってたってらちあかないじゃないですか」
遠慮しあっている、という言葉に反応したのか、俯いていた先輩が顔を上げた。だけど少しの間視線を巡らせてから、カウンターに向かって、火を貸してください、と声を張り上げた。
店の主人がカウンターに置いたライターを取りに立って、丁寧に礼を言って戻ってくる。すぐに煙草をくわえて、火を点けた。わざとらしく僕の方に煙をはきかけたから、わざとらしく大袈裟に咳き込んだふりをした。
「この際、先輩とヒロ君の関係がどうとかもういいじゃないですか。お互いもう大人なんだし。好きなら好きって、あの時は伝えることができたんですよね? じゃあどうして今できないんですか? 勇気がないんですか?」
「お前さ、声がでかい」
窘められて、気づく。酒のせいか少し興奮して、声が大きくなっていた。周りを見回したら、僕らの周りの客が何人か、眉を顰めてちらちらと視線を送っていた。
咳払いをして、ほんの少しだけ椅子をテーブルに近付けて、声を潜めた。
「先輩ってなんていうか、かっこつけてばっかりで。結局保身に走ってるだけじゃないですか」
「どういう意味だよ」
「ヒロ君のためだとか言って、優しさに見せかけた弱さを隠れ蓑にして逃げてるんですよ」
わかっている。本当はもっと、別の理由があるはずで。だけど先輩はそれを意地でも口にしない。だから腹が立っていた。その理由ときちんと向き合おうともしないで逃げようとしている先輩に腹が立つ。そのくせそれを、ヒロ君のせいにしてしまっている所も、更に腹が立つ。
ヒロ君はきっと今でもあの頃と変わらず先輩を想っていて、だけど怖くて立ち竦んでいるんだ。それを、その手を取っていちばんに安心させるのは先輩の役目じゃないのか。
「なんだよ、それ。お前さ、なんも知らねえくせにごちゃごちゃうるせえんだよ」
「そうですよ、僕はなんにも知らない。だけど、だけどヒロ君の気持ちはたぶん先輩なんかよりずっと理解できます。だけど先輩は、解ろうともしない。自分ばっかり、自分が弱いから、自分が傷つくのが怖いから……!」
気付いたら、胸ぐらを掴まれていた。煽った自覚はある。だけど酒が回ってきたのか、自分でも自分が止められない。
隣のテーブルに座った客が眉を顰めてちらちらと視線を送る。一瞥したら、一瞬で視線を逸らされた。気を取り直して先輩を見上げたら、彼はじっと僕の目を見ていた。意外なほど綺麗な黒目に、僕の眼鏡がうつっている。四つ並んだ四角が、この状況に似合わず妙に間抜けだ。
「無責任ですよ、先輩は。今更世間が何だって言うんですか。あの時追っかけてまでヒロ君を巻き込んだのは先輩なんですよ。あとでそんなふうに思い悩む事になるって、わかってなかったんですか」
「じゃ、どうしろってんだ」
「僕に聞かないで、自分で考えて下さいよ!」
胸ぐらを掴んでいた手を無理矢理引き剥がしたら、僕の肘にビールのジョッキが触れて、倒れた。運悪くジョッキはテーブルを転がり落ちて、かたい床の上で派手な音をたてて割れてしまった。
「うわ……! す、すみません!」
「あーあ……なにやってんだよお前」
店の客という客の視線が、一斉に僕たちに注がれる。駆けつけた女性店員が、大丈夫ですか、なんて言いながら割れたジョッキを片付けにかかった。
「ごめんなさい……、弁償します」
「いいんですよ。それより、他のお客様の御迷惑になりますから……少し静かにして頂けると」
店員は苦笑いを浮かべながら、ぺこりと頭を下げて申し訳なさそうにそう言った。先輩を見上げたら、彼はテーブルの向こうで気まずそうに店の中を見回しながら煙草を揉み消し、小さく頭を下げていた。
缶を持った右手の甲に、風で煽られた大粒の雨が当たる。夏とはいえ、こんな日は結構冷える。缶に雨が入らないように、左手で飲み口を塞いだ。隣で先輩も同じように、雨に気を使いながら缶を傾けている。なにが楽しくてこんな台風の日に公園なんかで飲んでいるんだ。しかも、空気は最悪だ。
あのあと結局店には居づらくなって、隣にあったコンビニで酒を買い込んで、店を挟んでコンビニの反対隣にある大きな公園の東屋で缶を開けた。酒が回っていた筈なのに、先刻の騒動ですっかり覚めてしまった。
東屋と言っても屋根が小さく、その意味を成さないほど濡れてしまう。だけど構わず缶を傾ける先輩に、何だか負けられない、なんて思ってしまって、僕も勢いをつけて缶ビールを飲み干した。
空っぽになった缶を勢い良くベンチに置いたら、強い風に一瞬で飛ばされてしまいそうになる。慌てて缶を掴んで、飛ばないように足で抑えている袋に突っ込んだ。新しい缶を取り出して顔を上げたら、一気に酔いが回ってきた。
「お前、さっきも結構飲んでたけど。ザル?」
先輩は半ば呆れたような声でそう言って僕を見上げる。足を組んで猫背になった彼は、何だか小さく見えた。公園の外灯は意外なほど強い光を放っていて、屋根の下に居る僕たちにもお互いの表情がはっきりと見える。
「平気っす! それより先輩、結局先輩はどうしたいんですか? どう、ヒロ君を、どう」
「……酔ってんな。吐くなよ」
「はぐらかさないでくだ、ください!」
半袖の腕に、容赦なく雨が叩きつける。皆に買ってもらったスニーカーも、既に中まで水が入ってしまっている。帰ったらすぐに洗って、乾かさなきゃ。靄のかかったような頭で、そんなことを考えた。
「別にはぐらかしたつもりはねえよ。けどな、お前にそれ話したとこでなにが出来るっつーんだよ。てめぇだって逃げてんじゃねえか。人のことつべこべ言う前に」
「僕は! 逃げるのやめて、ちゃんと向きあってきましたー! 話し合いましたー! 本音でー!」
顔を顰めて僕に悪態をつく先輩の態度が頭にきて、ベンチの端に座る彼にぎゅうぎゅうと体を押し付けてよく聞こえるようにそう言ったら、彼はえらく迷惑そうな顔をして僕を見下ろした。
「お前、うるさい。え、なにそれ、いつ」
「土曜。部屋行って、したら、紙袋に、僕の……」
部屋の隅に置かれた紙袋を見たあの時の胸の痛みが、強烈に蘇った。あの小さな紙袋を部屋から持ち出したあの瞬間、僕の居場所はあの部屋のどこにもなくなってしまった。ドアを閉めたあの瞬間僕の心に吹いた木枯らしのような風を、僕は一生忘れることはないんだろう。
本音でぶつかった後はさわやかな気分で、なんて聞いたことがあるけれど、あんなの嘘だ。やっぱり寂しいものは寂しいし、やっぱり別れというのはすぐに吹っ切れたりするものじゃないんだ。
「は? 紙袋? 何の話」
「先輩にはわかんないですよ! 僕の気持ちなんて! もう涼介のどこにも僕の居場所なんてないんだ! わかってる! そんなことわかってんだよばーか!」
「ちょ、勘弁して。俺に当たるな!」
「うわっ!」
先輩の胸ぐらを掴んで、ぐらぐらと揺する。抵抗した彼に突き飛ばされて、僕は見事にぬかるんだ泥の上に転がってしまった。シャツに泥水が染みこんで、べったりと重い。手に持っていたビールの缶は、どこかへ転がって行ってしまった。眼鏡に雨があたってほとんど前が見えない。
「お前ちょっと頭冷やせ。まともに話できねえだろ」
先輩は呆れた声でそう言って、泥だらけの僕の手を引いて起こそうとする。僕だけ泥だらけになったのが悔しくて、ぼやけた視界の中、その手を思い切り引っ張った。彼は冷静なふりをしていてもいい加減に酔っていたんだろう、僕のもやしのようだと言われる腕にも簡単に引っ張られてあっさりとバランスを崩し、顔から泥水に突っ込んでしまった。
「ぶっ……! 花村ぁ……てめ俺に何の恨みがあって……!」
「顔! 顔から突っ込んだ! あはは!」
彼はごしごしと目を擦りながら立ち上がり、東屋の端に転がっていた、飲む予定で買っていた水を開けて自分の顔にかけた。なんてことをするんだ。
「それ飲むやつ!」
「うるせぇばか! ふざけんな! これ店のシャツ……あああ、これ汚れ落ちねえぞ……」
「そんなもん着てくるのが悪いんじゃないんですかー!」
「お前さ、ほら、水飲め。ちっと酔い覚ませ」
差し出された水を奪い取って、喉に流し込んだ。雨が顔にあたって、水を飲んでいるのか雨を飲んでいるのかよくわからない。もう、どっちでも良かった。
起こしてもらおうと先輩に手を伸ばしたけれど、無視されてしまった。それもそうか。仕方なく自分で立ち上がってベンチに座ったら、すっかり泥水を含んでしまったスニーカーが、ぐしゃりと音をたてた。真っ白だった靴紐も、もう真っ黒だ。
不意に悲しくなって、涙が溢れてきた。嗚咽を漏らしながら鼻を啜ったら、苦しくて噎せた。
「訳わかんねえ……。お前また泣いてんの」
「だって、靴、みんなにプレゼントしてもらって……! なのにこんなに汚しちゃって、僕ってなんてばかなんだろう!」
「……靴もらったの」
「そうです。もうすぐ、誕生日だから、僕が履き倒したお気に入りと同じやつ、探してくれて」
さっきまで綺麗だったのに。みんなの気持ちを汚してしまった気がして、申し訳なくて、情けなくて。おいおいと泣いている僕に構わず、先輩は隣でごくごくと喉を鳴らして酒の缶を傾ける。
「いい友達持ってんじゃねえか。大事にしろよ」
「……言われなくても。先輩こそ、ヒロ君のこと、もっと大事にしてあげて下さいよ。ヒロ君を幸せに出来るのは、先輩しかいないんですから」
ベンチに足を乗せて膝を抱えて目を閉じたら、妙に頭がぐらぐらした。このまま寝てしまいそうだ。
「先輩がヒロ君を幸せに出来ないって言うんだったら、僕がします。僕の中でヒロ君はやっぱり、ずっと大切な人なんです。どんなに好きな人が出来ても、ヒロ君はずっと特別なんです。なんで、とか聞かれても僕にだってわかんないけど」
風の音が強くなってきた。東屋の端、雨どいを伝って落ちる雨の音が勢いを増す。公園のまわりを囲むように植えてある木々が、ざわざわと揺れた。
「だからヒロ君には絶対に幸せになってもらいたいんです。でも先輩がここで諦めちゃったら、ずっと先輩を想って待ってたヒロ君の気持ちはどうなるんですか? ヒロ君が先輩を想ってる気持ちは、どこへ行ったらいいんですか?」
想っても想っても、届かない。好きだと、愛していると何度伝えても、耳を傾けてさえ貰えない。そんなみじめな気持ちを、ヒロ君に味わって欲しくなかった。ヒロ君にはいつだって、笑っていて欲しい。その視線の先に先輩がいて、ヒロ君を包み込むように笑っていてくれたら。
きっと僕は涼介に対してもこんなふうに思うんだろう。好きな人には幸せになって欲しいなんて、ただのきれい事だと思っていた。けれど、自分の中にそんな感情があったことを、どこか誇らしく思えた。押し付けがましいのかもしれない。だけど。――だけど。
「なにしてんの、隼人……と、花村?」
公園の木々を揺らす雨と風の音に混ざって、今ここに居るはずのない人の声が耳に届いた。顔を上げたら、眼鏡がずれてなにも見えない。隣で息を飲む声が微かに聞こえた。
「ヒロ……、なんで」
「えっ、ヒロ君? えっ? え、だって帰るの明日って、え?」
ナイロンの傘に雨があたる音が東屋の前まで近づくと、眼鏡を拭いてかけ直した僕の前に、黒い傘を差して怪訝そうに眉を顰めたヒロ君がいた。




