水の音・5
月曜日の朝、カフェの前の歩道にある植え込みに座り込んで開店を待っていた僕を、重そうなテーブルセットを抱えて出てきた杉浦先輩が苦笑いしながら迎えた。
準備が終わるまで外で待つと言った矢先に細かな雨が降り出した。取り敢えず中に入れと促されて、勧められるままにカウンターの端の椅子に座る。まだ人にかき混ぜられていない空間は空気が肌に刺さる気がした。
カウンターの向こうで食器をがちゃがちゃと鳴らす音や、なにかの大きなモーター音が聞こえた。音はだんだんと近付いて、店員が大きな業務用の掃除機を引っ張りながらカウンターの向こうから出て来る。僕を見つけると顔を上げ、どうも、と口だけ動かしてにっこりと笑った。
「早すぎんだよ、てめーは」
掃除機の音にかき消されそうな声を耳元で張り上げて、苦笑いを浮かべた。手に持った布巾でカウンターを拭きあげて、ホールの丸テーブルにとりかかる。上げてある椅子をひとつずつゆっくりと床に下ろし、丁寧にテーブルを拭き上げていく。
「暇なんですよ。もう彼氏もいないし」
拗ねたような声をつくって無理矢理張り上げてそう言ってみたら、彼は大きな声で笑ってから、ブラインドの紐を引っ張った。まだ天頂に届くには間のある透明な日差しが入り込んで、壁に飾られた絵画やアンティークのランプが濃い影をつくった。
開け放たれたドアから吹き込む風にコンシンネの葉がさらりと揺れて、なにごともなかったかのように静まる。そうしてまた、揺れる。
「少し話していいですか」
「いいけど。開店まであと十分くらい」
「僕、ヒロ君に会いました」
「は」
「ここ連れてきたんですけど、先輩いなかったから」
カウンターの椅子が、きい、と音を立てた。いつの間にか音が止んだ掃除機を引っ張って、店員が忙しそうに動きまわる。彼はそれをちらりと目で追って、もう一度僕を見た。戸惑ったような目をいちど閉じて、また開けた目には諦めの色が浮かんでいた。
「……それで、元気だった? ヒロは」
「全然変わってませんでしたよ。あの頃とちっとも。先輩のことを知ってる人に会えたって、すごく嬉しそうにしてました」
「そうか。うん、わかった」
彼はうん、うんと頷くと、手に持った布巾を小さくたたんで、そそくさとカウンターの向こうに行ってしまう。もう一度戻ってくるものと思っていたけれど、いくら待っても彼は戻らなかった。
仕方なく僕はブレンドを注文して、店内をぐるりと見回した。
ホールには既に何組かの客が入っている。ざわめきのかたまりがまるで小さなしゃぼん玉のようにふわふわと揺れて耳元で弾け、微かに聞こえるボサノバのリズムと混ざる。その向こうに昨日のヒロ君の笑顔と泣き顔が浮かんで、消えた。
安心した。ヒロ君はそう言った。先輩のコーヒーを飲んで、彼が元気で居ること、今もかわらない優しさを持っていること、そんなことを感じ取って安心したのかもしれない。
「杉浦先輩に伝言しておいていただけますか」
「……杉浦なら裏に居ますけど。呼んできましょうか」
会計を済ませたあとレジを閉めた店員に声をかけたら、居ますけど、と言いながら首を傾げた。僕は首を横に振って、ドアに向けて一歩踏み出した。雨はもう止んでいる。
「また来るとだけ、お願いします」
逃げているのは、ヒロ君で。そして、先輩もまた逃げている。
もしかしたら心変わりをしてしまったかもしれないという不安から逃げたくて、お互いのために会わないほうがいい、なんていう高尚な理由をつけて。
電話やメールなんかじゃ気持ちなんて簡単に誤魔化せてしまう。同じトーンの同じ言葉でも自分の中の疑心暗鬼とミックスされてしまえば、途端にその言葉の裏に隠されているものを無理矢理にでも創りだして勝手に傷ついてしまう。
なんて弱いんだ。なんて、勝手なんだ。
僕はちゃんと向き合えたぞ。僕は、涼介と向き合って、やり直せはしないまでも、まだ引きずっていなくもないけれど、だけど自分がきちんと歩ける足を持っている事に気付いたんだ。
「もしもしヒロ君?」
やっと繋がった電話の向こうからは、無機質なアナウンスが電源の入っていないことを淡々と告げるだけだった。仕方なく終話ボタンを押して、彼の居る大学に向かう。
財布の中身と相談してバスを選び、大学行きに乗る。ほどなく大学近くのバス停に降り立ち、車道を挟んだ向こう側にある真っ白で近代的な造りの校舎を見上げた。
確か写真を勉強していると言っていた気がする。そこらに歩いている学生を捕まえて、彼を知らないかと尋ねた。
「さあ……専攻が違ったら全然わかんないから。工学? 芸術?」
「は……、いや知らない。写真勉強してるって」
「それ、両方でやってるから。写真学科だったら芸術のほうだけどなあ」
彼は眉を顰めて口元を曲げ、わからない、と首を横に振った。仕方なく軽く頭を下げてから、建物の中に入る。やけに大きくて見た目より複雑な造りをしていて、そう簡単に見つけられそうもない。
「あの、篠崎ヒロを知りませんか?」
「ああ、ヒロ君なら」
やっと彼の事を知っている学生に出会えたのは、探し始めて三十分ほど経った頃だった。神様に感謝したくなったのも束の間、教室の入口でかたまっていた学生たちは僕を見て何やらごそごそと話し合ってから、一枚のプリントを僕に突き付けた。
「それ、コピーなんであげます。ヒロ君先週の土曜から北海道に研修旅行行ってるんですよ。教授と、あと……何人くらいだっけ」
「五〜六人じゃない? 申し込み少なかったよね」
「そりゃそうだよね、大泉先生だし……。物好きっていうか」
真夏だというのに頭にニット帽を被ったコミカルな姿の女の子が、そう言って顔を顰める。渡されたプリントに目を落とすと、研修旅行の一団が北海道から帰ってくるのは水曜の夜だと書いてあった。
「ていうかさ北海道ってねえ、なに撮りに行ったの」
「ラベンダーと釧路湿原らしいよ」
「え、それならさ、来週の佐々木先生の沖縄のほうが良くない? スキューバダイビングのライセンス取れるって言ってたよ」
「えー、それ聞いてない。申し込みもう終わっちゃったのかなあ」
僕に説明しているのか単に雑談を始めたのかよくわからない状態になってきた。だけどなんとなく話は掴めた。貰ったプリントを畳んでポケットに突っ込んでから、どうも、と頭を下げて大学を出た。
そうか、彼は僕が探しに来るであろう期間に大学にいなかったから、あんな事を言ったんだ。
花村に僕は見つけられないよ。そう言っていたヒロ君の妙に澄ました顔を思い出して、ふん、と鼻息で吹き飛ばした。僕にだって足と口がある。こうやってその気になれば、何だって掴めるんだぞ。
再びバスに乗り込んで、こんどは自分の大学に向かう。肩にかかった大きな鞄の紐を両手で掴んで、ぐっと持ち上げた。
僕は涼介に言われたから辞めることを止めたんじゃない。だけど、もう一度探してみようと思ったんだ。自分に出来ることを。いままで見えていなかった、大切なものを。
「あれ、花村」
午後からの授業のある教室のドアをからからと開けたら、いちばん後ろの席に座っていた斉藤が顔を上げて僕の名前を呼んだ。斉藤は短く刈り込んだ髪を何だか良くわからない色に染め上げて、耳には痛々しいピアスなんかをぐさぐさといくつも刺している。見る度に顔を顰めてしまう僕に、斉藤はいつも苦笑いを返す。
今日もしかめっ面をしてしまった僕に苦笑いを浮かべながら、空いていた隣の席を、ぽん、と叩いてみせた。
「痛くないの、耳」
「その質問、今世紀何回目だよ」
斉藤とは小学校時代からの付き合いだ。何故か同じクラスになる事が多くて、ガキ大将だった斉藤に僕はいつも怯えて過ごしていた。けれどいつだったか、彼の意外過ぎるほど優しい内面を見つけてからは、そんな彼に親しみを覚えるようになった。
僕がヒロ君にふられて学校に行かなくなったとき、いちばん最初に電話をくれたのも、斉藤だった。中学に入ってからもなにかと僕をかばってくれたりする事が多くて、僕はこの斉藤には、感謝してもしきれないほどの気持ちを持っていた。そしてそれは、今でも変わらない。
斉藤は中学二年のときに親の仕事の都合でどこかへ引っ越して行った。けれど、この大学で再会した。その時から僕は、斉藤のピアスが気になって仕方がなくて、毎回同じ質問を浴びせていた。
なんというか、もう挨拶みたいなものだった。
「辞めるって噂で聞いてたけど、やめたんだな」
「うん」
「なんで」
「なんかね。色々、思う所があって」
「そっか」
「うん」
「なあ、今日、飲み行こうぜ」
授業開始のベルが鳴る。がたがたと椅子を鳴らす音があちこちから聞こえて、俄に騒がしくなる。口ひげを湛えた年配の教授がのっそりと教壇に立って、ごほん、と咳払いをした。
「飲みって、なんで急に」
「なんででも。あいつらも誘ってさ」
あいつら、と言うのは言うまでもなく、大久保と前田と武石の三人の事だった。どちらかと言えばこの三人は斉藤寄りの人種で、僕はひとりでかなり浮いてしまうことになるんだけれど。
「いいけど、どこに」
「こないだいい店見つけたんだよ。ごちゃごちゃしてるけど」
夜は先輩の店に行こうと思っていた事もあって少し躊躇ったけれど、斉藤が妙に嬉しそうにしていたから断る気になれなかった。楽しみだね、と言って見せたら、斉藤は口を横に広げ目尻に皺をつくって、そのままの顔で前を向いた。
教室の開け放たれた窓から見える大きな木々に、無数の蝉の鳴き声が貼り付いて揺れている。夏はまだ始まったばかりで、8月に入ればすぐに夏休みが始まる。
涼介のいない夏をどう過ごそうかと思っていたけれど、斉藤の屈託のない笑顔を見ていたら、なにかいい事が見つけられそうな予感がした。
斉藤の言う「ごちゃごちゃした店」は文字通り本当にごちゃごちゃした店だった。古民家のような外観で、カウンターの上に貼り付けた無数の細長いメニューや、赤ちょうちん、レトロな雰囲気のポスターや食玩なんかが所狭しと店の壁やニッチを飾っていた。
「ほい、俺たちから。プレゼントな」
「え、え?」
僕と斉藤を含む五人は座敷でテーブルを囲み、ビールを片手に乾杯をした。その直後、口の周りに白ひげのような泡をつけたままの僕に、なにやら白い長方形の紙の箱が突きつけられた。その外観から察するに、靴のようだった。プレゼントと言う割にはリボンひとつ掛けられていない所がなんとも言えず、にやりとしてしまう。
「靴? なんで?」
「お前、もうすぐ誕生日だろ。八月だから夏休み入っちゃうし、その前に渡しとこうと思って」
斉藤と同じように耳にいくつものピアスをつけた大久保が、長い前髪を指先で耳にかけながらそう言ってにやりと笑う。うっすらと色のついたメガネの向こうで、切れ長の目が更に細くなった。
「ほんとに? え、みんなから?」
「そ。俺と大久保と前田っちと、タケからね。お前いっつもボロ履いてるから」
斉藤はそう言って、座敷席の入り口に並べた、僕のやけに黒ずんだスニーカーを横目で見やって苦笑いした。大学に入学してからいくつか靴を買い換えたものの、履き心地が良くてついこればかり履いてしまっていた。僕のアパートの靴箱には、真新しいままのスニーカーが、いつまでもやってこない出番を待っている。そのことがちらりと頭を過ぎったけれど、皆の気持ちが嬉しかった。
「ありがとう! 早速今日履いて帰っていい?」
箱を開けてハトロン紙を剥がすと、見覚えのある靴が姿を現した。それは、僕が履き倒したものと同じデザインのものだった。驚いて目を丸くしている僕を見て、四人は満足そうに顔を見合わせて笑う。
「これ」
「お前それお気に入りなんだろ。言っとくけど、四人で探しまわったんだぞ。それだけ履き潰すくらいだから同じの買ってもいいだろって事になってさ」
こんどは武石が口を開く。短く刈り込んだ髪はいまどき珍しいくらいの金髪で、目にはカラーコンタクトを入れている。外国人にでもなりたかったんだろうか。だけどその顔は残念ながら生粋の日本人顔だ。武石は四人の中ではいちばん気が優しくて、なにかと斉藤にいじられて過ごしている。だけどそんなポジションが心地良いらしく、いつも楽しそうに笑っている。
「よく見つけられたね。すごいなあ。本当にありがとう!」
「感謝しろよ。最終的に見つけたのは俺。俺な。そんで消費税分多く払ったのも俺」
前田がドヤ顔でそんな事を言って、斉藤に肘鉄を食らっている。前田は見た目はどちらかというとイケメンで、だけど妙に顔色が悪いせいで残念なイケメンに仕上がっている、残念な奴だ。だけど顔が整っているという自覚はあるらしく、やたらにお洒落に気を遣う。まるで安いホストみたいな髪を、毎朝何時間もかけてセットして来るそうだ。だけど気のいい奴で、率先して文句を言う割りにはあれこれと世話を焼いてくれる。
「消費税分ってお前けちなこと言ってんじゃねえ!」
「まあまあ、今回いちばん頑張ったのは前田だろ」
「紐、出来る? やってやろうか」
「俺、すげえかっこいいやりかた知ってる」
四人で僕の靴を囲んで、ああでもないこうでもないと靴紐を整えて、改めて僕の前に差し出された靴を早速履いてみせた。やっぱり、履き心地がいい。
「本当にありがとう! 大事にするね。ずっと大事にする!」
そう言って笑ってみせたら、四人は満足そうに頷いて笑った。
「なあ、花村」
靴を脱いで席に戻った僕に、斉藤がやけに神妙な顔つきで僕を覗き込む。箸で付き出しの煮物を摘んでいた僕は、それを口の中に押し込めてから、うん、と返事をした。
「お前がなんで大学辞めようと思ったのかわかんねえけどさ、俺たち、お前みたいに勝手に妄想暴走させて周りのこと引っ掻き回すやつってめんどくせぇって思うけど、そういう奴が一人くらい居ても退屈しねえと思うんだよな」
「……ひどい言われようだ」
「だってその通りじゃねえか。今回だって俺たちに相談も無しに勝手に退学届けなんか出してさ」
不貞腐れたように唇を尖らせる斉藤に、ほかの三人もそれぞれに頷く。
「だって……、迷惑掛けたくないんだよ」
僕のひとりよがりな決断のせいで、この四人に迷惑を掛けたくはなかった。それぞれが皆他人のことで熱くなる奴らだって知っているから、余計に。
「ばーか。迷惑くらいかけろよ。今更ケチな事言ってんじゃねえ。何年付き合ってきたと思ってんだ」
「ぐ、」
斉藤はそんな事を言いながら、僕の首に腕をかけて、思い切り絞め上げた。苦しい。喉の奥から変な声が出た。そんな僕を見て、ほかの三人は笑う。
僕はこんな友人たちに囲まれて、こんなに居心地のいい空気のなかに居たのか。
この三年間僕は涼介に夢中で、身近にあった大事なものに気付けないでいた。僕を大事に出来なかったと後悔していた涼介を責めることなんか出来ないじゃないか。
「なに泣いてんだよ! うわ、感動したの? まじで?」
「花村泣くなー!」
「え、振られたってマジだったの?」
「それ言うなって、ばかだろお前!」
ずいぶんありきたりな光景だ。ありきたりだけれど、嫌いじゃない。僕みたいな思い込みが激しいだけの、何の取り柄もない奴だって、こんなに気にかけてくれる奴らがいる。そんなことが今更嬉しくて、妙に泣けてきたんだ。
斉藤はいつまでも僕の背中を摩って、よしよし、と繰り返した。
終電に飛び乗って最寄り駅に降り立ち、すっかり閑散としてしまった通りをふらふらとした足取りで歩く。まだ足に馴染まない真新しいスニーカーが、ぽすぽすと軽い音をたてた。
そのうちに先輩の店の前に辿り着いたけれど、既に閉店してしまっていた。もしかするとまだ中で仕事とやらをしているのかもしれないという淡い期待があったけれど、ガラスのドアのむこうにはひとつの灯りも見えなかった。
「また、明日必ず来ますから」
ドアに近付いてそう口に出したつもりだったけれど、思いの外呂律が回っていない。一瞬だけガラスが曇って、すぐに消えた。
妙に満たされた気分で踵を返して歩き始めた僕の頬に、ぽたりと大きな雨粒が落ちた。




