水の音・4
そのうちきっと両親からも連絡があるはずだ。大学の退学届けは結局まだ保留のままだけれども、先輩とヒロ君のことが落ち着いたらすぐにでも話しに行くつもりだ。
きっと実家に連れ戻されて暫くは胃の痛い日々を過ごすことになるんだろう。それで少しずつ働いてお金を貯めて、旅行に行って。そこではきっと新しい出会いなんかもあるはずで、だけどそうするには今きちんと自分の事にもけりをつけてしまわなきゃいけないんだ。
すっかり見慣れてしまった駅の改札を抜けたとき、スニーカーの紐が解けているのに気付いた。隅に寄ってからしゃがみ込んで、黒ずんだ紐を結び直した。
ロータリーの中央に立っている錆で赤茶けてしまった時計は、午後の十時を指している。その上に広がる四角く黒い空には、星ひとつ見えない。そのかわりに、遠く、ちいさな月がくっきりとした光を放っているのが見えた。
天気予報によるといま九州のはるか下の方に台風が発生しているらしいけれど、今のところ影響はない。月曜の夜中には雨が降り出して、こっちの方に風の影響が出始めるのは水曜あたりだと言っていた。
歩道の石畳が、乾いた足音を響かせる。この間ここを歩いたときも、一人だった。その前は、二人で。少し前を歩く、歪に磨り減ったかかとをぼんやりと眺めながら歩いたんだ。
通い慣れた部屋のインターフォンを一度だけ押して、一歩後ずさる。中からドアを勢い良く開けられたときに鼻先をぶつけてしまった事があるからだ。あの時は鼻血が止まらなくて大変だった。涼介は慌てて大量のティッシュを持ってきて、いつまでも心配そうに僕を見ていたんだ。両方の鼻の穴にティッシュを突っ込んだまぬけな姿の僕を見て、涼介はそのうちに笑い出した。僕は鼻が痛くて仕方なかったけれど、涼介の笑顔が見れたことが嬉しくて、一緒になって大笑いしたんだ。
僕は、涼介の笑顔が好きだった。――大好きだった。
「あれっ、ユウ。……どうしたの」
風呂にでも入っていたのか、腰にタオル一枚という格好でドアを開けた涼介に目のやり場がない。わざとらしく咳払いなんかして、視線をうろうろさせた。アパートの前を走る車のヘッドライトが、ドアの内側を滑っては消える。
「ああ、失礼。風呂入ってたから。ええと……なんか、話?」
「あー、うん。ちょっと飲もうと思って、持ってきた」
ここへ来る途中コンビニで買った酒の入った袋を掲げてみせると、彼は一瞬だけ僕の顔を見て戸惑ったように視線を斜め下に泳がせる。
「別に、やり直そうとかそういう話じゃなくて。ただちょっと、話したかったんだ」
もしかしたら、という可能性がいま、消えた。涼介の心のなかには、僕の居場所は既にない。胸の痛みを誤魔化すために、やわらかな笑顔をつくってみせた。僕はもう、なにも気にしてなんかいないよ。そう、伝わるように。
「……そう。だったら、上がって。なんかツマミ作ろうか」
「乾き物なら買ってきたけど、足りなかったら作って」
僕のセリフはあの頃と変わらない。涼介のセリフは、だったら、に全部持っていかれてた。だったら。もう俺のことをそういう目で見ないんだったら。それなら上がっても構わない。
少し前までは二人の共有の空間も同然だった部屋が、今は僕を他人然として迎え入れる。隅から隅まで知っているはずの場所なのに、はじめて訪ねた時のような気配があった。
「適当に座って。あ、ユウお前忘れものしてたぞ。そこ置いてるから持って帰ってよ。DVDとか、あと、いらないかもしれないけど、教科書」
廊下に繋がるドアの隅に置かれた小さな紙袋に、僕という存在が詰まっている。たった三十センチほどの深さの紙袋。そこに、涼介の中にいた僕が小ぢんまりと積み重なっている。
やけに寂しくなって、泣きそうになった。唇を噛み締めて堪えていたら、小さなキッチンから涼介が僕を呼んだ。
「ユウ、グラスいる?」
ユウ。
ユウ。
何度その声で呼ばれただろう。すこし掠れ気味の低い声が、いつも僕の耳たぶに引っかかっていた。それは寝ても覚めても消えることはなくて、彼にとってもそうであるようにと、何度も祈った。祈りながら、彼の名前を呼んでいた。
「聞いてる? ユウ」
「ああ、うん。グラスいらないよ。洗い物増えるだろ」
「相変わらずだな、ユウは。グラスひとつ洗うくらい何でもないのに」
涼介はじぶんの分のグラスを持ってキッチンから出てくる。窓際に置いた小さなテーブルに乗せて、僕の買ってきた酒の缶を取り出して開けた。
「はい、乾杯」
「何に?」
乾杯するようなこともない。別れに、なんて気障なことを言うような奴でもない。癖なのはわかっていたけれどつい訊いてしまった。涼介は、言われてみれば、と苦笑いしてから、いただきます、と言い直した。
「で、話って?」
グラスに注がれた薄緑色の酎ハイを一口飲んで、僕の開けたナッツを口に運びながらどこかよそよそしい声でそう言った。
そうして僕を斜め下から見上げて、腕組みをする。これは涼介の癖で、あまり親しくない相手の出方を窺っているときに必ずしてしまうんだ。そんな小さなことで、僕と彼のあいだに出来た深い溝を感じた。
「……うん。話っていうか、はっきりさせておきたいんだ」
「はっきりさせる?」
「うん。訊いてもいい?」
彼は眉を顰める。警戒がはんぶんと、あとは呆れているのか。終わったことを今更ほじくり返してなにをはっきりさせるって言うんだ、とでも言いたげな目だ。
「……いいけど、なにを」
「涼介にとって僕は、どういう存在だったのかなって」
言い終えてから、持ち上げていた缶に口をつけた。ざらりとした苦味が口の中に広がって、鼻に抜ける。細かな泡が上顎に張り付いて、喉に流れて行く。ごくり、と喉を鳴らして飲んだら、涼介はその音で我に返ったように顔を上げた。
「どういう、って。難しいことを聞くね、ユウは」
彼は立ち上がって、壁にかけてあったエアコンのリモコンを取って、スイッチを切った。ルーバー窓を全開にして、外の空気を呼び込む。時間はもう夜の十時半をまわっている。
きっと彼は、聞こえのいい事を並べて適当に僕を納得させて帰すつもりだったんだろう。だけどそうはさせない。涼介の目をじっと見つめた。本音を聞くまでは、帰らない。
僕の覚悟が伝わったのか、彼は観念したかのようにいちど目を伏せて、仕方なく笑う。それから少しの間沈黙が流れて、やがてゆっくりと口を開いた。
「俺にとってユウは、友達以上だったし、俺を支えてくれる存在だった。いつも背中を押してくれたし、俺がこうして大学に入れてやりたいことを目指して行けるのも、ユウが居たからだと思ってる」
友達以上だった。
恋人と呼ぶにはきっと、躊躇いがあるんだろう。付き合っていたとは言っても僕と涼介は、体を重ねたのはただの一度きりだった。彼は戸惑っていた。はじめは男同士だからなんだろうと思っていたけれど、きっとそういう事じゃなかったんだ。
「僕にとって涼介はね、ずっと片想いの相手だった」
「ユウ……」
「ねえ、最後だからさ。我儘言ってもいいかな。別に叶えて欲しい訳じゃなくて、ただ言ってみたくて」
もう、我儘を言っても困らせる事はない。だから誰も傷つかないし、なにも、変わらない。
涼介は戸惑ったように僕を見上げ、視線を泳がせる。でも、と言いかけた涼介になるべく明るく笑って見せたら、小さな溜め息のあと、言ってみろよ、とその目が言った。
部屋の壁にかかった、一昨年の夏に雑貨屋に出かけて二人で選んだ小さな時計が、かちかちと秒針を鳴らす。もう僕らの時間は重なることはない。
「責めてるわけじゃなくてさ。なにも言えなかった僕も悪かったんだと思う。でも、なにも言わせなかった涼介だってさ、少しは悪いって思えよ」
「何だよそれ。いいから、言ってみろよ」
「僕はさ、涼介とずっとおなじ方向を見ていたかった。涼介の行く先の未来に、僕の居場所をつくっていて欲しかった」
けれど涼介の描く未来にはいつも、僕はいなかった。弁護士になって事務所を開いて、いつか有名になって。そう話す涼介の隣で僕はいつも、傍観者だった。だからお前もついて来いよなんて事は、言わなかった。それは涼介なりの優しさだったのかもしれないけれど、僕は言って欲しかった。言って欲しいと思う気持ちを、理解して欲しかった。
「それからさ、すごくけちな話になるけど、僕と行こうって言ってた映画を友達と先に見ちゃったの、あれめちゃくちゃ腹立ったし」
「あれはその、悪かったと思ってるよ」
「僕がコーヒー苦手だって知ってるくせにいつも缶コーヒー買ってくれちゃうし」
「……それは、ごめん」
「二人で出かけた時の写真、保存したフォルダごと消しちゃうし」
「あれはほら、間違ったんだよ。ゴミ箱ってつい空にしちゃうだろ」
「二人で出かけた時、手くらい繋ぎたかったのにいつも涼介は僕の少し前を歩いてさ」
「そりゃ……だって」
「大学で会った時、下の名前で呼んで欲しかった。いつもみたいに。そんなに僕は恥ずかしい存在なのかって」
「あれは、だって、なんて言うか」
涼介は苦虫を噛み潰したような顔で項垂れる。もう、いいかげんにしてくれ。全身からそう聞こえた気がした。
「言い訳して欲しい訳じゃないんだよ。喧嘩しに来た訳でもない。だけど僕、涼介にこういうこと言ったことなかったからさ」
「そうは言うけど、言われた方は言い訳くらいしたくなる」
「僕はね。いつも涼介の側に居たかったし、涼介にもそう望んで欲しかった。いつも僕を求めて欲しかったし、僕だけを見ていて欲しかった。だけどそう思っているのは僕だけなんだって」
僕は涼介と付き合っている三年もの間、ただ、涼介のやりたいように、涼介の望む形で傍に居た。僕の勝手な我儘で涼介を傷つけて離れなければならなくなる事のほうが、怖かったんだ。
「……ごめん。俺、そういう事全然わかんなくて。そうだよな、男同士っつっても、恋人だったらそういうの、当たり前だよな」
「男も女も関係ないんだよ。愛情があれば結局、同じだよ」
「……そっか」
「ごめん、涼介。僕本当はわかってた。わかってて、自分のエゴで涼介を巻き込んだんだ」
わかっていた。涼介が解っていないことを僕は知っていたけれど、気づかないふりをしていた。それでもし涼介が苦しんだとしても、構わないと思っていた。そうしたら僕が包み込んで慰めればいいと、訳のわからないことを考えていた。
「俺、根っからノンケみたいだ。ただ単に今は好きな子がいないだけで」
「うん」
「でもユウは悪くないよ。俺はユウに逃げ込んでたんだから」
勉強勉強で辛かった日々に、無条件で励ましてくれて何でも許してくれるユウに、逃げ込んでいた。涼介はそう言って、ごめん、と頭を下げた。
「謝らないでよ。責めたかったのに、できないじゃないか」
「今じゅうぶん責めただろ。……俺にとって少なくともユウは大事な存在だったのに、大事に出来なかった。自分のことばかり考えて。寂しかったろ? ごめんな」
寂しかった。だけどそれを口にしてしまえば、涼介と過ごしたぜんぶの時間の想い出が「寂しい」という感情に彩られてしまう。寂しかったんじゃない。寂しい時もあったけれど、いつもそうだった訳じゃない。
僕が首を横に振ると、彼は、でも、と呟く。
「涼介にいつか好きな人が出来た時、僕に教えてよ」
「え、うん」
「涼介がどれだけ冷たい奴か、そいつに教えてやるから」
「勘弁してよ」
冗談で言ったつもりだったけれど、涼介の口元が引き攣っている。少なくとも、僕に冷たい仕打ちをしてしまったという自覚はあるらしい。それが確認できただけでも満足だった。
「嘘。そいつにね、涼介がどれだけ優しい奴か、教えてやる。優しくて、心配性で、おせっかいで、寝顔が可愛くて、それで」
「ユウ。泣いてるの」
そうだ僕は。
涼介のことを、本当に好きだった。こんなふうに泣いている僕をばつが悪そうな顔で見上げて、そのうちに困り果ててしまう涼介が。そして何も言わずにタオルなんかを持ってきて、こんなふうに不躾に人の顔をごしごしと拭いてしまう涼介が。
そうして僕が泣き止んだら、無理矢理な作り笑いで僕を笑わせようと頑張ってしまう涼介が。
涼介の、声が。手が。耳たぶが。二の腕が。
「好きだったんだよ。大好きだった」
「ごめんな」
「謝るなよ」
「ごめん。だけど、こんなこと……って言ったらあれだけど、こんなことで大学辞めんなよ。お前のこと心配してる友達だっているだろ」
「いないよ、そんなの」
乾いたタオルの感触が頬に痛い。擦りすぎてきっと、赤くなってしまっている。涼介は力加減というやつが出来ないらしい。
「いるって。ほら、大久保とか、斉藤とか、前田とか。あいつほら、何てったっけ、たけ、た、」
「武石。なんでそんなに僕の友だちの名前知ってんの」
「そりゃ、……知ってたらおかしいか?」
涼介は困ったような顔をして、僕を下から見上げる。僕は彼の友達の名前を覚える気はなかった。時々ふたりで居るときに邪魔しに来ていた菊池という男がどうにもいけすかなくて、覚えていた。だけどそれだけだった。
「おかしくはないけど、涼介がそんなに僕のこと見てたなんて知らなかった」
「見てたっていうかさ、気にはなるさ。お前、騙されやすそうだから、布団とか壺とか買わされるんじゃないかって」
気にはなる、という言葉に一瞬だけ喜びかけた自分を呪いたい。僕はそんなに騙されやすそうに見えるんだろうか。じっさい、妙なねずみ講の講習会に誘われてのこのこ付いて行って危うく契約しそうになったことはあったけれど。だけどそんなことは一度きりだ。たった一度きりのそんな些細な事を覚えていてくれた事に妙に嬉しくなってしまっている自分が少し、悔しい。
むっとした顔を無理矢理つくって涼介を睨んだら、涼介は大きな口をあけて笑った。
「俺んとこに来たんだよ。お前の友達。少しの間休んだくらいであんだけ心配してくれるなんてさ」
「え、ほんとに?」
「うん。みんな口揃えて、ばらばらにされて内蔵売り飛ばされたんじゃないかって」
「嘘!」
「嘘だよ」
多分今の僕は間抜けな顔をしているんだろう。驚いたままの顔を崩す間もなく騙された事がわかって、変な顔になってしまった。たぶん。
涼介は僕を見て大きな声でひとしきり笑ったあと、笑いすぎて涙が滲んだ目尻をごしごしと擦りながら、言った。
「皆心配してたよ。ユウはもう少しきちんと周りを見るべきだね。お前が思ってるよりずっと、本当は恵まれてるんだから」
そうしてまた、あたらしい酒を注いだグラスを少しだけあげて、乾杯、と呟いた。




