水の音・3
タクシーに乗って二十分ほどで昨日のカフェに着いた。降りるのを躊躇ったヒロ君の腕を引っ張って歩道に降り立つ。下を向いている彼を促して店のドアを押し開けたら、昨日とおなじコーヒーの香りに包まれた。
「いらっしゃいませ」
昨日とおなじ黒いエプロン姿の店員が僕らを窓際の席に案内して、昨日と同じようにトレイに乗せた水を置く。
「マンデリンください」
「かしこまりました」
「……ヒロ君は?」
椅子に浅く腰掛けたヒロ君はメニューに顔を埋めるようにして唸っている。
「……オリジナルブレンド、ください」
ヒロ君はどうやったって先輩を見つけてしまうんだ、きっと。僕が思わず頬を緩ませると、彼は不思議そうに僕を見上げて曖昧に笑った。
「ここに先輩がいること、知ってたの?」
「知ってたよ。だって隼人が電話で言ってたし。だけど僕近付いたことなくて」
「なんで」
「なんでって……来いって、言われなかったから」
「なんでそう受け身なの」
先輩がもっと強引ならそのくらい受け身でも構わないのかもしれない。だけど見る限りでは彼は、ヒロ君に対してだけその強引さが薄れる。
思えば、ふたりの間にはなにか見えない壁のようなものがある。遠慮というか、立ち入らないように気を遣っているような。それは他人よりははるかに近いけれど、家族よりは少しだけ遠い。
「……花村にはわかんないよ、そんなこと」
「わかんないよ。そりゃ」
「なんで僕におせっかい焼くの。ほっといてよ、もう」
ヒロ君は相変わらずメニューで顔を隠している。これじゃあ先輩だって、ここにヒロ君がいることがわからないじゃないか。店員に先輩を呼んできて貰おうかとも考えたけれど、どうも今は皆忙しそうだ。このぶんなら先輩だって中でばたばたと動き回っているに違いない。別に僕らは仕事の邪魔をしに来た訳じゃない。
「……ごめん、そんなに嫌だった?」
「なに今更弱気になってんの? 花村が連れてきたんだろ」
「そうなんだけど、なんか、急にとんでもない事しちゃったって思えて」
もし。もし、万が一。なにかの間違いで。運命のいたずらで。彼の言うように先輩が嘘をついていたとして。もしそうなら、僕は彼が酷く傷ついてしまうきっかけを作ってしまう事になる。
先輩に好きな人が出来て、例えば一緒に暮らしていたとして。
「マンデリンと、オリジナルブレンドでございます」
店員が、僕らのあいだからそっと、カップを差し入れる。メニューよろしいですか、と声をかけられたヒロ君は仕方なくメニューを閉じて、店員に渡した。そのかわりに窓のほうを向いて、店員から顔が見えないようにしてしまう。
「ヒロ君って意外と臆病なんだね」
「……花村は意外と無謀なんだね」
カップの取っ手にかかる指が微かに震えている。これは、悪いことをしてしまったと思った。事実を確かめることくらいなら僕ひとりだって出来たじゃないか。それで、聞かなかったことにして優しい嘘を彼に伝えることだって、出来たはずだ。
「……ごめん」
「今更、だってば。いいよ、ちゃんと吹っ切れるから。僕、そんな弱虫じゃないから」
弱虫じゃない、なんて言いながら、声まで震えている。何だかこっちまでその緊張が伝染してカップをうまく持てそうになくて、ただじっと立ち昇る湯気を見つめた。
「美味しい……。すごくこれ、優しい味がする」
ヒロ君はそう言って、短く息を吐く。俺のオリジナル。そう言って得意気に笑った先輩の顔を思い出す。
「……それ、彼がブレンドしたって、言ってた」
「……彼、って」
「杉浦先輩」
僕が言い終わらないうちに、ヒロ君の両目からぽろぽろとガラス玉みたいな涙が零れた。びっくりして手を伸ばそうとしてテーブルの縁に指をぶつけてしまった。痛い。
「痛っ! あの、ほんとにごめん! 泣かないで」
「ちが、なんか安心しちゃって」
手の甲で涙を拭って、短く息を吐く。窓ガラスの向こうの景色が一瞬だけ曇った。
「あの……、もしかして昨日の、杉浦のお友達ですか?」
「は」
誰かが僕の後ろから遠慮がちに声をかける。振り向いて顔を見上げたら、昨日僕にコーヒーを出してくれた店員だった。彼は僕の顔を確認してから、やっぱり、と呟いて、それから残念そうに眉を下げた。
「杉浦は今日から三日間お休みなんですよ。何でも、本職の仕事が押してるとかで」
「え」
ようやくこちらを向いたヒロ君と顔を見合わせて、もう一度店員を見上げる。彼は、すみません、と頭を下げてから、なにか伝言があれば伝えておくと言った。
「伝言はないです。大丈夫です」
返事を返したのはヒロ君だった。明らかにさっきとは打って変わって落ち着いた表情で、きっぱりとそう言い切った。その勢いに圧されたのか、店員は戸惑ったように苦笑いを浮かべながら頷いて、ではごゆっくり、と言い残して去って行った。
「……わかりやすいね、ヒロ君は」
「うるさいな。僕だって緊張くらいする」
ヒロ君はそう言って、心底安心したようにお腹の底から息を吐き出して項垂れた。それから首の骨を鳴らして、椅子の背に思い切り背中を預けて目を閉じた。前髪が、通りのビルに反射した光に透けてさらりと流れる。薄いブルーのTシャツの首元にほそい銀のネックレスがかかっている。彼の動くのにあわせて微かな金属音をたてて揺れた。
「三日間だって。月曜にまた来てみれば居るんだよ」
「来ない。もう来ない」
「だめだよ。逃げたって無理矢理連れてくるからね」
「花村に僕は見つけられないよ。それに花村、学校だってあるでしょ」
僕がその言葉に首を横に振ってにやりと笑うと、ヒロ君は怪訝な顔をして首を傾げた。恋人と別れて退学を選んだという事を説明すると彼は暫くの間黙り込んで、そっと窺うような目で僕を見上げた。
「言わないで。僕だって、どれほど自分がばかなことをしてるか解ってるつもりだから」
「……解ってるなら、言わないよ」
ヒロ君はそう言って苦笑いを浮かべた顔を窓の外に向けた。街路樹の葉がざわざわと揺れて、ビルとビルのあいだの空でゆっくりと雲が流れて行くのがみえた。
「ヒロ君は、まだ先輩のこと好きなんだよね」
ずっとヒロ君の心のなかには杉浦先輩が居て、いつだって優しく笑っているんだ。
彼は応えずに、ゆっくりとカップを傾ける。こくりと喉を鳴らして、カップを置いて目を閉じた。
「だから会うのが怖いんだよね」
「花村は、その別れた人の事好きだったの? もう嫌いになっちゃったの?」
ヒロ君の心境を改めて分析しようと思ったら、あっさりとその思考を遮られた。突然話をふられて、頭が一瞬混乱する。僕は、涼介のことを本当に好きだったのか。
僕は涼介が好きだった。本当に、心の底から。だから涼介の視界からはみ出して行くことが怖かったし、涼介が僕でなくほかの人の名前を呼ぶのを耳にするのが嫌だった。ただの子どもじみた独占欲だと言われてしまえばそうなのかもしれないけれど、涼介に名前を呼ばれればそれだけで僕は、それだけで良かったんだ。
「好き、だったよ。尊敬してたし。いや、今でも尊敬はしてる。でも僕が臆病すぎたんだ。だから僕は逃げ出した」
「……自分は逃げたくせに人には逃げるなって言うんだね。ずうずうしいにも程があるっていうか」
ヒロ君は見かけはすごく線が細くて優しげな印象なのに、ひとたび近づけばその棘に驚かされる。しかも正論をあっさりと言い放ってしまうから、結局彼の周りには強い人間しか残らない。僕がその一人なのかどうかはわからないけれど。
「それは自分でもよくわかってるよ」
「他人のキューピッド役なんかやって自己満足で終わらせちゃだめだよ。おなじ状況にいる誰かのことが気になるのはわかるけど、それって自分だって本当はどうにかしたいって思ってるって事なんだからね。別に僕で実験したって構わないけど、打開する方法が見つかったらその時は花村もちゃんと前に進みなよ」
ヒロ君はひと息でそう言い切って、テーブルの上に千円札を静かに置いた。それからゆっくりと立ち上がってから、じゃあね、と笑って店を出た。ありがとうございました、と声をかける店員につくり笑顔を浮かべてみせて、ガラスのドアを潜り、通りの向こうに消えていった。
「実験って。もうちょっと他に言いようがなかったのか……」
頭を抱えて、コーヒーの表面にうつる自分の顔を見下ろした。情けない顔をしている。眼鏡が光を反射して目がよく見えないけれど、困り果てた顔をしているのはわかる。
僕はヒロ君に同情するふりをして実験していたのか。彼がこの先どういう行動を取れば最善なのか一緒に考えて、出来ればふたりの関係を修復しようと思った。僕が出来ることなんか限られているけれど、それでも動かずにはいられなかった。
それは、ヒロ君と杉浦先輩の事だからという事ではなくて単に、自分の状況に似ていたからそうしたくなったという事なんだろうか。
ヒロ君の去っていったほうを見て、うーん、と声を出して唸った。ちょうど僕の後ろに居た店員が、小さく吹き出した声が聞こえた。