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水の音  作者: さくら
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水の音・2

 




 



 四角い天井に、まるい染みが浮き出ている。

 引っ越して暫くはその染みが人の顔に見えて仕方なくて、夜中に目を覚ますのが怖かった。図らずも目が覚めてしまった時は、迷惑を顧みず涼介に電話をかけた。真夜中でも涼介は文句ひとつ言わずに、意味のない雑談に付き合ってくれたんだ。

 ベッドサイドの小さなテーブルに置いた時計は夜中の三時を指している。むっくりと起き上がって、カーテンの隙間からみえる外灯の刺さるような光をぼんやりと見つめた。

 

 もう一度ベッドに身を沈めて瞼の裏に焼き付いたばかりの光を遮るように腕で顔を覆った。エアコンの室外機が大きな機械音をたてて、しんと静まる。遠く、大型車の通り過ぎる音が聞こえた。

 目を閉じて大きく息を吸い込んで、吐き出す。横になっているのに身体が重い。寝返りを打ってから、もう一度大きく息をした。


 次に目を覚ました時にはもう昼前だった。慌てて準備を済ませてアパートを飛び出す。飛び出してから、思い出した。そうだ、僕は退学するんだった。

 肩からかけた重い鞄に目をやって、アパートを見上げる。部屋に戻るか。そう思って、玄関の階段に足をかけた。いや、退学届けを出すならどっちみち大学に行かなきゃ。そう思い直して、踵を返した。

 通い慣れた駅のホームから、見慣れた電車に乗る。すっかり覚えてしまった路線図に、飽きるほど歩いた近道。

 大学の構内、学生課に退学届けを出そうと普段は通らない建物の前を通った。


「花村、お前神崎の講義出てなかっただろ。代返してやったからな。感謝しろ!」


 すれ違いざまそう言って僕の肩を叩く友人に苦笑いしてみせて、軽く手を上げる。そのまま学生課に行って、一週間前から鞄に忍ばせてあった退学届けを取り出し、なにも考えないように意識しながら差し出した。


「退学するんですか? 休学という手もありますけど」


 眉を顰めて退学届けを受け取りそう言った事務員に、考えます、とだけ言って中庭に向かった。

 なにが、考えます、だ。頭の中でそう吐き捨てて、蔦の絡まる古い建物を見上げる。あの窓の向こうにきっと、涼介は居る。無数の蝉がけたたましい声で鳴いて、鼓膜を震わせた。額に、じんわりと汗が滲み出る。


 ――俺、弁護士になるんだ。

 高校三年の秋、涼介は僕にそんな事を言った。小さな頃からの夢だったという。中学ではサボってあまりいい高校には入れなかったけれど、その夢は捨てていない。そう言って文字通り血の滲むような努力をしていた。

 そんな涼介が好きで堪らなかった僕は、彼の夢を応援すると意気込んで、側で支えようと決めた。だから必死で成績を上げようと努力したし、法学部は望めなかったけれど同じ大学に入ることができた。

 けれど涼介にはほかにたくさんの友人がいたし、僕の支えなんか必要としないくらい自立していた。だんだんと自分の存在意義がわからなくなって、成績もみるみるうちに落ちた。退学届けを出さなくても、きっと辞めざるを得ない状態だということはわかっていた。

 僕は怖かったんだ。振り返らない涼介の後ろ姿を見つめ続けるのが怖くなって彼から逃げ出してしまったんだ。自分が臆病なのを涼介のせいにして、勝手に傷ついて。


「僕ってなんて奴……。最低だ」


 まるで女の腐ったような奴だ。こんな自分がますます嫌になる。そりゃあ、杉浦先輩にも呆れられるはずだ。

 中庭のベンチに座って狭い空を見上げると、風に揺れる無数の葉のあいだから午後の光が刺す。眩しさに思わず目を閉じた。


 ――俺があん時のお前にどれだけ救われたか、知ってる?

 僕を覗き込むようにしてそう言った杉浦先輩の真っ直ぐな目が、閉じた瞼の光の渦の中に浮かんだ。

 あの時の僕は、彼になんと言ったんだろう。確か、誰かを好きになるという気持ちを大事にしろとかなんとか、そういう意味合いのことを言った気がする。なんて僕は、なんて偉そうな。


 ――俺を選ぶ事があいつにとって決していい事じゃないってわかってるから。

 彼の、喉の奥から絞り出すような声が蘇る。ゆっくりとその言葉を頭の中で反芻して、彼らが兄弟であることを思い返した。

 穏やかな春の風のなか、やわらかく微笑みながら彼の手を取って歩いていたヒロ君の姿を思い出す。ヒロ君を見下ろす彼の表情は穏やかで、幸せそうで、どこか淋しげで。無邪気に笑うヒロ君の頭を撫でて、今にも泣き出しそうな顔をして笑っていた。

 先を歩く彼の背中を見つめるヒロ君もまた、いつもなにか言いたげで。

 だから僕は、ヒロ君を心から笑わせてあげたいと思ってしまったのかもしれない。結局僕にそんな事は出来なかったけれど。



 ヒロ君が忽然と姿を消したあの夏、夏休みも終わりに近付いた頃、偶然先輩と商店街の楽器店で鉢合わせた。

 店の奥でパイプ椅子に腰掛けて高そうなギターを手に、聴いたことがあるようなないような曲を延々と奏でていた。側には店のおじさんが居て、おなじようにパイプ椅子に腰掛けて目を閉じ、彼のギターを聴いていた。僕も彼が見える位置に立って、その演奏を聴いた。

 ひとしきり弾き終えた先輩は満足そうに笑ってから、おじさんにギターを渡した。ギターを受け取ったおじさんは何度も深く頷きながら、ありがとう、と言った。先輩は照れたように笑い、それから僕に気付いた。


「うわ、いつからいたの」


 言ってから、ばつが悪そうに苦笑いする。僕は彼を誘って、近くにある小さな喫茶店に入った。すこし話を聞いてみたいと思ったんだ。ヒロ君のことや、これからの事。


「篠崎先輩の好きな人って、ヒロ君ですよね」


 単刀直入にそう言ったら、先輩は面食らったように半笑いの顔をかためたまま押し黙った。運ばれてきたアイスコーヒーとクリームソーダが僕らの前を横切る。重いグラスがテーブルに置かれた音が耳に届いたとき、ようやく彼は諦めたように息を吐いた。


「だったら、何だよ」


 彼は突き刺さっていたストローを抜いて、グラスを持ち上げて濃い琥珀色の液体をひとくち飲んだ。僕の顔を下から見上げて、様子を伺っている。僕が敵か、味方か。きっと判断しかねているんだろう。


「別に誰にも言いませんよ。おかしいとも思わないし」


 本心からそう言ったら、彼は安心したように顔の力を抜いて頬杖をついた。席の真上に埋め込まれたエアコンの風が冷たい。こんなとこに長い時間居たら凍えてしまいそうだ。


「ちゃんと大人になって。したら、また会うつもり」

「大人になったら、ですか。じゃあヒロ君の居場所はわかってるんですね」


 彼はフッと笑って、頷いた。それからゆっくりと、ヒロ君が居なくなった翌日に意を決して会いに行ったことを話して聞かせてくれた。話し終えた彼はどこか遠いところを見ている目でグラスを見つめ、だけど、と付け足す。けれどその続きを口にすることはなく、すぐにアイスコーヒーを飲み干した彼はエアコンを見上げて眉を顰めた。




 あの時彼は、だけど、の続きを何と言おうとしたんだろうか。今考えるとそれは昨日の彼の言葉ときれいに繋がってしまう。俺を選ぶことがあいつにとって決していい事じゃないってわかってる。そう彼は言った。

 

 携帯のメモリーから懐かしい名前を呼び出してボタンを押したのは、ほとんど無意識だった。通話ボタンを押して暫くしてスピーカーから飛び出した声はあの頃とちっとも変わっていなかった。

 都内の大学に通っているという彼を、大学近くの喫茶店に呼び出した。彼はふたつ返事で了解して、すぐに行く、と電話を切った。

 携帯番号が変わっていなかったことに驚いたけれど、その声の雰囲気から彼の真っ直ぐな性格があの頃と変わっていない事が伺えて、もっと驚いた。あの頃からもう七年だ。少しくらい捻くれたりもしているのかと思ったけれど。


「花村! うわあ、久しぶり! すごいねえ!」

「な、なにが?」

「だってすごいよ! 七年ぶりだよ!」


 待ち合わせの喫茶店のドアを勢い良く開けて入ってきた彼――ヒロ君は僕を見つけると、大きな目を丸くしてそう言って、あの頃とちっとも変わらない笑顔をみせた。大荷物をどっかりと長椅子の上に置いて、よいしょ、よいしょ、と声を出しながら腰掛ける。

 テーブルに腕を乗せて、にっこりと笑った。相変わらず、可愛い。


「ヒロ君、今年二十歳になるんだっけ」

「うん、そう。あ、アイスコーヒーください」


 ヒロ君は手を高く上げて、カウンターの向こうにいるマスターに向かって声を張り上げた。マスターは、はいはい、と二度返事をして小さく笑う。


「ミルクいらないんだったよね」

「うん!」


 どうやらヒロ君はここの常連らしい。マスターはまた、はいはい、と二度返事をして、冷蔵庫を開けた。


「花村、元気そうで良かった。で、なにかあったの?」


 四角いテーブルの向こうでヒロ君はそう言って、僕を覗き込む。あの頃は杉浦先輩によく似ていると思っていたけれど、今のヒロ君を見てもそうは思わない。けれど、長い睫毛と微妙な翳りを湛えた黒目がちなよく動く目、白い肌、色素の薄い髪、ほそい腕はあの頃となにひとつ変わっていなかった。背くらいは伸びたのかもしれないけれど。


「なにかって、あの、杉浦先輩に偶然会ったから」

「……隼人に? え、ほんとに?」


 ヒロ君は身を乗り出して、また目を丸くする。薄い色のステンドグラスから差し込む午後の日差しが、紅味の差した頬を照らした。ああ、ヒロ君もずっと杉浦先輩を想っているんだ。だけど何か、何か引っかかる表情だ。


「昨日偶然ね。雨宿りしようと思って飛び込んだカフェに居たんだよ。ちょっと垢抜けたけど、全然変わってなかったよ」

「へええ、そっかあ」


 何だか照れたように笑うヒロ君が妙に可愛く見える。早速運ばれてきたアイスコーヒーのストローの袋を指先で開けて、テーブルでとんとん叩いて抜き出した。その間にも、ヒロ君の口元は笑みを湛えている。


「ヒロ君も変わってないね。先輩のことだと、そんなふうに笑うんだね」

「えっ。えーと、だって、なんか嬉しいもん」

「嬉しい?」

「うん。隼人のこと知ってる人に会えるなんて、すごく嬉しくて」


 そう言って、蕩けたように笑った。そうか、彼のことを言ったからじゃなくて、彼を知っている僕に会ったから嬉しいのか。そう思ったら、こっちまで何だか嬉しくなってきた。


「先輩に、会わないの?」

「えっ」


 会いに行くよ、という答えを期待して言ったつもりだった。けれどヒロ君は戸惑うような視線を僕に投げて寄越してから、その視線をうろうろさせて、俯いた。

 

「……なにか、あったの?」

「別に、なにも」


 ヒロ君は汗をかいたアイスコーヒーのグラスを指先で撫でながら、ごくりと喉を鳴らした。グラスの水滴は大きな粒になって、下に敷かれたコースターの色を変えた。重い沈黙が流れて、エアコンの音だけが耳に届く。そういえばこの店には音楽が流れていない。



「だって隼人はもう、僕のことなんて」


 ヒロ君はそう言って唇を噛み締める。どうしてそんなふうに思うんだろう。昨日見た彼はどう見たってあの頃とかわらずヒロ君を想っていた。それにヒロ君だって。


「なんでそう思うの」

「……僕、見たんだ」

「見たって、なにを」


 ヒロ君は俯いて、テーブルに置いたストローの袋を指先でちりちりとこよりのように撚っている。どこか子どもじみたその仕草に、擁護欲を掻き立てられる。思わず頭を撫でてしまいそうになった手を、引っ込めた。


「……どこかのお姉さんと、仲良くマンションに入っていくとこ。見たもん」

「は? なにそれ、見間違いじゃなくて? なにかの間違いとか、誤解とか」


 昨日の彼を見る限りではそんなこと、あるはずがない。だけど見たことが事実ならなにか事情があるはずで、ヒロ君の認識にはなにか誤解があるはずだ。


「そんなこと……。だけど僕もう、いいんだ。隼人が幸せならそれでいいし、そういうふうに約束したんだ。お互い好きな人が出来たらちゃんと手を離そうって」

「それ、いつの事なの」

「いつって……見たのは、今年のはじめくらいだよ。僕が二十歳になったら会おうなんて言ってたんだけど、そんな約束はもう。まだ子どもだったし」


 そう言ってヒロ君はなにか吹っ切るように大きく頷いてみせた。それからポケットかなにかに入れていた携帯を取り出して、開いて、閉じた。かち、かち、と乾いた音が鳴る。


「ヒロ君、ちゃんと確かめなきゃだめだよ。絶対なにか誤解してるって」

「誤解かもしれないけど、だけど隼人だって本当はもう会わないほうがいいって思ってるよ。僕もそう思うし、だからいいんだよ。平気だから気にしないで」


 ヒロ君はそう言って、えへへと笑う。だけどその目にはうっすらと涙なんか浮かんでいて、僕は堪らず、立ち上がった。頭の中で昨日の先輩の言葉が再生される。ヒロにはヒロの人生があるから――。


「花村、どうしたの。顔、怖いよ」

「だめだよ。絶対ちゃんと確かめなきゃだめだよ。君と杉浦先輩は一緒にいるべきだ。だって君の話をするときの杉浦先輩は、見たこともないくらい優しい顔をしていた。彼が君を忘れてしまうはずがない!」


 僕はなにを興奮しているんだろう。他人のことじゃないか。いま僕は自分のことで精一杯で、他人のことなんかに構っていられる余裕なんかないはずで。涼介との事だってきちんと自分の中で整理もついていないし、これから先のことだって考えなきゃいけない時なのに。

 僕は、なにをしているんだ。


「行こう、ヒロ君」

「行くって、どこに」


 カウンターに千円札を置いて、ヒロ君の腕を掴んで店を出る。ドアを開けた途端街路樹にとまった蝉の声が鼓膜をびりびりと震わせた。アスファルトが熱い。


「ここからそんな離れてないから。タクシー拾えないかな」

「ちょ、花村。離して。僕、会えない」

「会わなきゃだめだって。会ってちゃんと目を見て話さなきゃ、解ける誤解だって解けないんだよ。疑問はぶつけて、好きなら好きってちゃんと言って、怖いなら怖いって口に出して言わなきゃ伝わらないんだよ」

「かっ……勝手なこと言うな! 僕は、隼人のことは花村よりずっとわかってる! 何年離れてたって、隼人の考えてる事くらいぜんぶ!」

「自分だけは解ってるなんて、そんな考え方のほうが勝手じゃないか! じゃあ君は一緒に暮らしていたとき彼のことを全部解ってやれてたのか?」

「それは、」

「ほら、側にいたってわからない事がどうして離れててわかるんだよ! 家族だって恋人だって、どうしたって理解出来ない事もあるんだよ! それを理解しようとするのが、理解してもらおうと努力するのが愛情だろ!? もう君の中で彼は、そんな努力をする必要すら感じないくらい小さな存在になってしまったのか!?」


 これは、自分のことだ。涼介に解ってもらおうとしない自分と、誤解を解こうとしない涼介。僕らはもう前には進めない。僕らはもう一緒には歩けない。だけど、だけどこのふたりは。


「でも、でも花村。僕、だけど怖い」


 タクシーが一台、手を上げた僕の前に停まる。先にヒロ君を押し込んで、ぎゅうぎゅうと奥に詰めさせながら僕も乗り込んだ。運転手に行き先を告げてから、ヒロ君が逃げないように腕を掴んだ。


「花村。……そんな、強引だっけ」

「僕は昔から結構強引だよ。好きな人には、弱気になっちゃうけど」


 僕は涼介に対してはなにを言うことも出来なかった。冗談で我儘を言うことはあったけれど、本当に欲しい物を欲しいと口に出して言ってしまうことはなかった。怖かったんだ。彼を失うことが怖くて、だから僕は彼と一緒になにひとつ生み出すことが出来ないままだった。


「怖がったって、いいんだよ。だけど、誰かを好きでいられるって、それだけで奇跡なんだから。もっと大事にしてあげてよ。自分の気持ちを」

「そんなこと言ったって、隼人の気持ち次第じゃないか。もし僕がこれで傷ついてぼろぼろになったら、どうしてくれんの」

「……一杯おごるよ。二十歳になった記念ついでに」


 ヒロ君は窓の外に目をやりながら大きく息を吐き出して、じゃあ一週間待ってもらわなきゃ、なんて言って苦笑いした。




 



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