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水の音  作者: さくら
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水の音・1

 







「僕、退学届け出してくる」


 ワンルームマンションの小さな部屋、隅に置かれたパソコンデスクに向かう恋人の涼介に向かって、僕は言った。先週から何度も頭の中で練習した、たったひとことを今やっと口に出した。声が震えていたかもしれない。

 涼介はキーボードをたたく手を止めて、ぎい、と椅子を鳴らしながら振り返る。短く切った髪の、てっぺんの所に一束、寝ぐせがついている。くるりと回した椅子を止めたとき、その束がふわりと揺れた。ベッドに座って涼介を見上げる僕の目をじっと見据えて、そう、とひとことだけ。

 ぼうっとした午後の日差しが差し込むルーバー窓のほんの隙間からやけに熱い外気が入り込んでいる。その前に置かれた、僕の背丈ほどもある鉢植えのコンシンネの葉が微かな葉ずれの音をたてた。


「なにも言わないの」

「言わないよ。ユウがひとりで考えて決めたことだろう。俺が止める権利はないし、なにより俺はユウがそうやって前に進もうとしていることを、応援したいと思ってる」


 涼介は抑揚のない声でそう言って、椅子を回してまたキーボードをかたかたと鳴らし始めた。

 申し訳程度に設置されたカウンターの上に、iPodのスピーカーが置いてある。微かに流れるクラシック音楽が昨日聴いた時よりももっとドラマティックに聴こえた。滑らかなフォルムの音符たちが高い天井のロフトに吸い込まれていくようだ。

 

「じゃあ僕が別れようって言っても、涼介は止めないの」

「……止めて欲しいの」


 振り向きもせずに、やっぱり抑揚のない声で涼介は言った。半袖のシャツから覗く日に焼けた二の腕、うすい筋肉の筋が張り出したり引っ込んだりしている。

 

「涼介は僕のこと、ちゃんと好きだった?」

「好きだったよ」


 わざと過去形にして質問したら、訂正もされずに返ってきた。

 堪らず、床に置いていた鞄を掴んでなにも言わずに部屋を出た。涼介は追ってきたりはしなかった。僕もそんな期待なんかちっとも、していない。

 

 涼介と出会ったのは高校三年の夏だった。涼介には目標があって、都内の大学を受験するために懸命に努力していた。僕はそんな涼介がとても魅力的にみえて、涼介に近づきたくて、同じ大学を受験した。晴れてふたりで入学する事ができて、ふたりで手を取り合って喜んだ。

 捨て身で告白したのは大学に入学して間もない頃で、まさか受け入れてもらえるとは思ってもいなかった。けれど涼介は躊躇いながらも僕の手を取った。

 

 そうして三年の月日が流れた。忙しい大学生活のなかですれ違いもうまれ、お互いに忙しさを言い訳に相手に辛く当たる日も増えた。たった三年のあいだに、小さな苛立ちをほんの少し抑えるだけの愛情が薄れていったんだ。

 だけど考えてみたら僕があの大学を選んだ動機は不純そのもので、ただただ涼介と一緒に居たいというそれだけの理由だった。その考えに至った先週の木曜、別れを決意したのとおなじ瞬間に退学を決めた。

 両親には申し訳ないと思っている。だけど、もう一度僕はなにかを探すんだ。こんどは、自分のために。


 涼介の住むアパートのある駅から電車に乗って三十分。最寄り駅に降り立ち、自分のアパートまでは歩いて十五分の距離だ。

 その間にはちいさなカフェや書店、いまどきの服屋やアクセサリーショップなんかが立ち並んでいる。大通りに面したこの道は人通りがまばらな割にはセンスのいい店が多い。いつもは通り過ぎるだけの通い慣れた通りを、今日はゆっくりと歩いた。空は先刻とは打って変わって重いねずみ色で、今にも雨が落ちてきそうだ。


 書店に入って、雑誌コーナーを物色する。海外旅行を扱った一冊を手に取ってぱらぱらと捲った。自分探しの旅をしよう、なんていう売り文句でたくさんのプランが紹介されている。

 僕は自分探しなんて高尚なことをするつもりも、聞こえのいい目標をインスタントに作って留学するつもりもない。ただ、気分転換になればと思って。いわゆる傷心旅行だ。

 自分に言い訳をするように心のなかで呟いて適当な雑誌を選んでレジに持っていった。本当は海外旅行なんて呑気なことは言っていられないんだけれど。

 まず僕がやらなきゃいけない事は、実家に帰って両親に頭を下げることだ。わかっている。わかってはいたけれど、なにか新しい空気を呼び込まなきゃやってられない。

 昨日までの僕とは違う。そうでなきゃ涼介とさよならした意味がないじゃないか。


 茶色い紙袋に入れられた雑誌を小脇に抱えて、書店を出た。その途端小雨が降り出して、傘を持っていなかった僕はそこらにあるお店のテントの下をまるで忍者のような動きで家に向かった。そのうちに本格的に降りだしてしまった雨を、通りの真ん中にあるカフェの張り出したオーニングの下で眺める。

 いま買ったばかりの雑誌をいれた紙袋は既に濡れてしまって、このぶんじゃあ中も濡れているに違いない。心のなかで大きなため息をついてから、少し雨宿りしようとカフェのドアをあけた。

 全体がガラスで出来ているドアは見た目より少し重かった。入ってすぐの床にコンシンネの鉢が置いてあるのが見えて、僕の頭の中は一瞬でたった一時間前のあの光景に引き戻される。薄暗い部屋の、ぎい、と響く椅子の音。硬いフローリングの感触。


 僕は、涼介のことが本当に好きだったんだろうか。

 高校三年の夏休み。夏期講習で郊外の塾に来ていた僕の隣に涼介が座った。一見無愛想にも見える目つきの悪さに戸惑ったけれど、話してみるとやけに気が合った。

 映画とクラシックが趣味だという涼介とはすぐに意気投合して、それから僕が涼介を好きだと思うようになるまでにそう時間はかからなかった。


「いらっしゃいませ。ご注文が決まりましたら声をかけてくださいね。本日のおすすめはトラジャとなっております」


 壁際にひとつだけ空いていた二人掛けの席に腰掛けると、白いシャツに黒いエプロンをした男の店員が音もなく近付き恭しくそう言って頭を下げる。小さな丸テーブルの上に置いたばかりの水の入ったグラスを掴んで、一口だけ飲んだ。細かい氷が、しゃらん、と音を立てる。革のような素材でできた縦長のメニューを差し出す店員を片手で制して、なるべく穏やかな表情をつくった。僕は、涼介との別れに取り乱してなんかいない。


「じゃあ、それで」

「かしこまりました」


 白とブラウンで統一された落ち着いた雰囲気の店内は、甘いコーヒーの香りで満たされている。高い天井からぶら下がったオレンジの照明が目に優しい。改めて店内を見回すと、他に何組かいる客は皆一様にコーヒーを飲んでいた。

 様々な種類のコーヒー豆が入った四角く透明な容器が、きっちりとカウンター下のスペースに収まってその出番を待っている。どうやらここはコーヒーの専門店らしい。

 コーヒーは正直苦手だったけれど、今更店を出るわけにもいかず覚悟を決めた。

 肩にかけたままだった鞄をテーブルの脚に寄せて置いて、手に持っていた紙袋もそこに立て掛けた。袋が少し破れてしまっている。改めて一息ついて、テーブルに両手を乗せて天井の照明を見上げた。


 僕は涼介を、好きだったのか。

 涼介は出会った頃となにか変わってしまったんだろうか。それとも、僕が。

 それともはじめから僕らはなにひとつ変わってなんかいなくて、ただ、気付いてしまっただけなんだろうか。涼介に僕が必要でないこと。僕は誰にも必要とされていないこと。

 そう思ってしまうと心にぽっかりと穴が開いたというより、僕自身が大きな空洞になってしまった気がした。僕はなにを持っているんだろう。僕は今まで、なにを掴もうとしていたんだろう。そうして僕は、一体なにが欲しいんだろう。

 頭を抱えて、カフェのちいさなざわめきに埋もれる。微かに流れるボサノバが夢の向こうから手を伸ばすように流れる。おいで、夢の中へおいで。もう目覚めなくてもいいよ。


「お待たせしました。トラジャでございます」

「あ、はい、どうも」


 すぐ近くで先刻の店員の声がして現実に引き戻された。テーブルに置いてあった手を下ろすと、彼は恭しく頭を下げながら湯気の立ち昇る白いカップを丁寧に置く。ソーサーの上で銀色のスプーンがかちゃりと音をたてた。彼は続いてミルクの入った小さな容器と、まるいガラスの容器に入った角砂糖をバランス良く並べる。


「それからこれ、本日のクッキーです。サービスなので良かったらどうぞ召し上がってください」

「えっ、あ、ありがとうございます。いただきます」


 カップの隣に、手のひらに乗る大きさの金属製の籠が置かれた。真っ白なレースのナプキンの上にふたつ、ちょこんと乗った小振りのクッキーはきっと焼きたてなんだろう。ナッツの甘い香りが立ちのぼって、お腹が空いていたことを思い出す。

 こんな状況でもお腹が空くんだと思うと妙な自己嫌悪に陥りそうになる。僕はそんな単細胞だったのか。

 カップを片手で持ち上げてひとくち飲んだ。美味しい。

 トラ、なんとか。なんだったか忘れてしまったけれどこれなら僕も飲める。何だか嬉しくなって、クッキーを摘んだ。ほそく刻んだココナッツが、噛み締めるたびに、きゅっ、と音を立てる。どこかほろ苦くて優しい甘さのクッキーだった。


 僕は、涼介の未来に必要ないと、そう言われたんだ。甘い味がふんわりと広がる口の中と、這いまわるような痛みが滲み出した胸の奥。咀嚼したクッキーを飲み込んだら、甘さまでもが痛みに変わってしまった気がした。


 オーニングに落ちる大粒の雨がリズムを刻む。とん、とん、ととん。耳の奥に残って消えない、薄暗い部屋のキーボードの乾いた音と混ざる。かた、かたかた、かたた、かたかた。そこに僕の音は必要ない。そこには僕の居場所なんかはじめからなかったんだ。

 そんなふうに思われていた涼介に別れをあっさりと承諾されてしまったのに、平気なふりをして本当は泣いて縋りたいと思っている自分。そんな僕は今すぐ消えてなくなってしまえばいい。僕がいなくても、誰もなにも変わらない。


 大学に入ったときに新調したブラウンの縁のついた眼鏡をテーブルに置いて、クッキーの下に敷いてあったナプキンを掴んで目に押し当てた。それはじわじわと水分を含んですぐにふやけてしまった。クッキーの粉がついていたのか、目の周りがざらざらする。ますます自己嫌悪に陥って、テーブルに突っ伏した。ちいさな嗚咽が漏れる。だけど構わずに泣いた。


「お客様、どうかされましたか?」


 うしろから遠慮がちに声をかけてきた店員を、顔も上げずに片手で制して、なんでもない、と吐き捨てる。ほっといてください、とも言った気がする。とにかく僕はそこで、きっと三年分の涙を流した。涼介と出会って今日までの三年間。なにも残っていないと思いたくない。だけど、今の僕にはなにも見つけられない。


「……お客様。お客様」


 また店員が声をかけてきた。しつこい、と思って小さく片手をあげてから我に返った。店内が異様なほどに静かだ。さっきまで僕を取り囲むようにして存在していたざわめきが消えている。ボサノバも、雨の音も。

 はっとして顔を上げたら、テーブルに置いたままだったカップが倒れた。まだ、半分しか飲んでいない。すっかり冷めたコーヒーの液体は零れて、テーブルの端から滴り落ちた。幸い、カップは落ちなかった。窓の外は、すっかり暗い。


「すっ、すみません! 僕、いつの間に……すみません!」

「いいえ。声をおかけしようかと思ったのですが……杉浦の知り合いだと聞いたので」


 店員はそう言ってにっこりと笑うと、小さな布巾でテーブルと床を拭いた。


「え、誰って」

「よお、花村。盛大に失恋でもしたか?」


 僕の反応に怪訝な表情をつくりかけた店員のうしろから、これまた白いシャツに黒いエプロン姿の男がぬっとあらわれた。僕を見下ろして、にやりと笑う。


「えっ! え、なんで、しの、す、杉浦先輩がここに!? え? どういうことですか?」

「俺ここでバイトしてんの。すげー久しぶりだな。高校んとき以来だから、まあ四年ってとこか」


 杉浦先輩はそう言って、もうバイト終わるからもう少し待ってろと言い残して奥に消えていった。残された僕は人気のない店内で、口をぽかんと開けたまま狐に摘まれたような気分でひとり待つことになった。

 歩道に面した大きな窓ガラスから、カフェの前に置いてあった小振りの看板や、テラス席に並べられた椅子やテーブルを手早く片付ける店員の姿が見える。その様子を見るとはなしに見ていたら、窓ガラスが木製のブラインドで覆われてしまった。最後に残った店員は僕の姿を見て軽く頭を下げて、奥に消えていった。


 それから十分もしないうちに私服に着替えた杉浦先輩が大きな荷物を片手にカウンターの向こうから現れた。店を出るのかと思って立ち上がったら、座ってろ、と声をかけられた。彼はいちど荷物を隅の椅子の上にどっかりと置いてから、またカウンターの向こうに消えた。また五分ほどして戻ってきたその両手には湯気の上がるカップがひとつずつ。


「俺のおごり。ていうか俺のオリジナルブレンド。店で出してるやつと同じなんだぞ。飲め」

「えっ、毒入ってないですよね」

「確かキッチンに漂白剤が……入れてくる」

「冗談ですってば! いただきます!」


 にやにやと笑う彼に苦笑いを返して、おとなしく椅子に座った。テーブルを挟んだ向こう側に、彼は座る。カップを置いて、短いため息をついた。

 彼のオリジナルだというコーヒーを口に含んだ。ふわりと甘さが広がって、あとに残る微かな酸味と苦味のバランスが絶妙だ。


「おいしい。なにこれ」

「美味いだろ。まあ、遠慮なく褒めろ」

「……ああ、はい」


 満足気に深く頷いた先輩を白い目で見上げたら、彼は声をあげて笑った。


「あの、いいんですか」

「なにが」


 閉店してしまったカフェで、我が物顔でコーヒーを傾ける僕らはもしかすると非常識なんじゃないか。そう思って辺りを見回しながら、ここ、と呟いた。


「ああ、いいんだよ。俺いつもバイト終わったらここでひとりで仕事してるから」


 そう言って彼は隅の椅子に置いた鞄を親指で示す。四角い、しっかりした作りの鞄だ。中にパソコンかなにか入っているんだろうか。


「仕事って」

「……仕事は、仕事だよ」


 言いにくそうにしていたから、もうそれ以上はなにも聞かないことにした。彼は昔からこういう所がある。絶対に踏み込んで欲しくない領域ではどうやっても隙をみせない。


「……でも先輩、本気で驚きましたよ」

「こっちのセリフだよ。見た顔があると思ったら、いきなりめそめそ泣きだしやがって。しかもそのまま熟睡ってお前、ありえねえぞ」


 彼はそう言って、あの頃とかわらない笑顔をみせた。高校の頃とは髪型も変わったし、雰囲気だってなんだか小洒落た感じになっている。だけど眉を下げて仕方なく笑うその癖はひとつも変わっていなかった。


「卒業してすぐ、こっちに?」


 僕の質問に小さく頷いた彼はコーヒーを一口だけ飲んで満足そうに、うん、と声を出した。店内に流れていたボサノバは静かなジャズに変わっている。彼の趣味だろうか。


「高校出る少し前に母さんが恋人と暮らし始めて。そんでまあ、俺なりに気使って出てきたわけだよ。居づらいだろ」

「……再婚ですか。そりゃ、そうですね」


 居づらいだろう、という彼の質問に同意したつもりでもあったし、再婚はしても仕方ないだろう、という意味合いでもあった。彼はそれを理解したのか口の端を上げて小さく笑った。


「やりたい事もあったし、ちょうど良かったと言ったらあれなんだけど」

「やりたい事って。カフェ?」


 店内を見回しながらそう言ったら、彼は苦笑いしてから首を横に振った。これは趣味みたいなもん。そう言って、隅に置かれた荷物をちらりと見やる。


「そろそろ軌道に乗ってきたからここ辞めてもいいんだけどな。恩があるから」

「恩? なんですか、よくあるやつですか? 東京に出てきてあてもなく彷徨ってたら拾われたとかいう」

「まあそんなとこ。ここのオーナー夫婦がやたらとおせっかいで」


 頭の中に一瞬で短いストーリーが出来上がって再生された。

 東京に出てきた先輩は荷物を片手に雨の中でひとり佇む。あてもなく彷徨い、寒空の下震えながら高いビルを見上げる。そこへ通りかかった顎髭を生やした男が、彼に手を差し伸べる。


「何だかドラマみたいですねえ」

「なにを想像した。まあいいけどそれより、お前失恋でもしたんだろ?」

「う。……まあ、図星ですけど。いいんですよ、もう。終わったことです」


 散々泣いたからか、少し気持ちが軽くなった気がする。もしかするとこの勢いで、すぐに想い出にできてしまうのかもしれない。それも少し寂しい気もしたけれど、前に進むにはそうするしかないんだ。


「ふうん。お前あれだろ、高校一年とき付き合ってたっていうあの、なんとかいう」

「それはとっくに終わりました。そうじゃなくて、三年の時に他の高校に通ってる人と知り合って。大学に入って付き合い始めたんですけど、その彼と、別れて来たんです。今日」

「なるほど。しかしまあお前よくもそんな相手居るよな。ある意味すげえ。俺もっとソッチの世界って狭いもんだと思ってたんだけど」

「ソッチって。別れた彼はノンケだったんです、もともと」


 涼介は、男と付き合ったのは僕が初めてだと言っていた。高校在学中にひとりふたり、女の子と交際していたのを知っている。だからほとんど諦めていたけれど。


「ノンケね。まあ、人を好きになるのに男も女もねえ気がするけどな。種の存続っていう壮大な人生の目的には反するんだろうけど」

「まあ、自然の摂理には逆らってますよね」


 そこまで言ってから、ふと思い立った。ヒロ君はどうしているんだろう。

 僕が中学二年の夏、ヒロ君は突然姿を消した。ヒロ君のクラスでは、転校したということで皆が納得していたけれど、他のクラスの連中が、夜逃げしたんじゃないかなんていう噂をたてた。それを聞いた彼が殴りこみに行ったとか、行ってないとか。

 僕の見た限りでは彼とヒロ君は心から惹かれ合っているようにしか見えなかったけれど。


「ヒロ君は、どうしてるんですか?」


 口に出した後、しまったと思った。もしかすると彼の中ではもうとうの昔に終わったことで、淡い恋心は隅に封印しているのかもしれない。僕はその傷をえぐるようなことを言ってしまったんじゃないだろうか。

 だけど彼はふっと顔相を崩して、なにか大事なものをそっと取り出すようにしてヒロ君の名前を口にした。


「ヒロ、元気かな。もうずいぶん会ってないけど」


 彼はそう言って、やわらかく、やわらかく笑う。そうだ、彼はヒロ君のことを話す時は決まってこんな優しい顔をするんだ。


「七年、くらいですか?」

「そう。メールとか電話はね、やってたんだけど」


 そう言って彼は、閉じてしまったブラインドの向こうを見つめる。雨が降ったあとの街はきっと、つめたく柔らかな空気が流れているんだろう。その向こうに彼はどんなヒロ君の表情を思い浮かべているんだろうか。


「元気だといいですね。今、大学に通ってるんですよね?」

「そう。写真勉強してるって言ってた。智也の影響なんだってさ。あのバカ留学したとか聞いたけど」

「あ、それ聞きました。なんでもハリウッドで映画撮るんだとか」

「ほんっと、あいつだけは。なにがハリウッドだっての。ま、せいぜい悪あがきすればいいさ」


 中原先輩の弟の智也君は、杉浦先輩としょっちゅう言い合いをしていた。お互いはっきりものを言う性格だからか、歯に衣を着せないものいいが何だか見ていて気持ちが良かった。はじめは仲が悪いのかと思っていたけれど、卒業して行く彼に泣きながらしがみついていたのを見て、そういう友情もあるんだなあなんて妙に感心した覚えがある。

 思えばあの行動も、彼が家を出て遠くへ行ってしまう事を知っていたからなんだろう。もっとも智也君は、二年に進級してからは吹っ切れたようにいつもの調子を取り戻していたけれど。


「中原先輩ってどこの高校行ったんでしたっけ」

「あー、なんかすげえ進学校。名前忘れたけど。あいつ今どっかの医学部行ってんだっけ」

「へえ、やっぱり医者になるんですかね」

「らしいね。ま、あいつならなれるだろ。智也と違って要領いいから」


 残りのコーヒーを飲み干した彼は、おかわり持ってくる、と言いながら立ち上がって、僕のカップも持ってカウンターの向こうに行ってしまった。ここからカウンターのなかは見えない。

 今から七年前、彼がまだ篠崎という姓だった頃。僕は彼にカミングアウトしたんだ。半ば無理矢理言わされた感もなくはないけれど、後悔はしていない。

 激しく降り続いていた雨のなか、泥だらけになって。思い出すとおかしくなって何だか笑ってしまった。あの頃は僕も、真っ直ぐに人を好きになれていた。ばかみたいに、真っ直ぐに。


「なに笑ってんだよ」


 新しいカップを持って現れた彼は、そう言って眉を顰める。けれど口元は笑っていた。


「何だか思い出しちゃって。覚えてます? 僕が、ヒロ君に告白したんだって言った日の事」

「……そんな事もあったか。あれはさあ、その、悪かったな。今更だけど」

「あはは。今更ですよ。いや僕、ばかみたいだったなあと思って。なんていうか、滑稽なほど純粋で。先輩に説教なんかして。あの頃はなんにもわかってなかったんだなあ」

「……これね、マンデリン」


 僕の言葉に反応を示さず、彼はコーヒーのカップを静かに置いた。どこかに残っていたのか、あのクッキーもソーサーの端に乗っている。


「マンデリン。いただきます」

「おう」


 はじめて、沈黙が訪れた。時間にしてきっと五分もないくらいだったんだと思うけれど、永遠にも感じられる沈黙だった。

 僕がコーヒーを飲み干したあと、彼は静かにカップを置いて僕を下から見上げた。真っ直ぐな、曇りのない視線が刺さる。


「えっと、どうかしました?」

「……お前さ、俺がどんだけあんときのお前に救われたか、知ってる?」

「え……」


 彼は短くため息を吐いたあと立ち上がり、壁に椅子の背をくっつけて深く座り直す。足を組んで、目を閉じた。ガラスのドアの隙間から吹き込む風が微かな音をたてて、コンシンネの葉が揺れる。


「あん時のお前を、そんなふうに言うな。今もお前はきっとなにも変わってねえよ」


 あの時の僕は。

 あの時の僕はまだなにも本当のことを知らないくせに、いろんな事を悟ってしまったかのように勘違いをしていた。マイノリティな恋愛感情を誰にも理解されずに過ごして、少し浮世離れした気になっていたのかもしれない。解ってもらえなくても、それでも僕は平気だと、どうしてだか自信に溢れていた。

 僕は僕の世界で家来のいない王様になったつもりで、怖いものなんてなにひとつなかったんだ。だけど気付いたら僕は。


「だけど僕は、だけど、なにも持っていなかった。好きな人について行きたいだけで必死で勉強して、それで別れたからって退学しちゃうような、空っぽの人間なんです」

「持ってねえもんばっか数えようとするからそういうふうに思うんじゃねえの? ちゃんと自分の手の中にあるもん数えてみろよ。退学してなにが悪いんだ。お前の欲しいもんがそこになかったって事だろ」


 彼の言葉に、思わずじぶんの手のひらを見つめる。僕は、なにを持っているだろう。


「そいつを好きになったのも、嫌いになったのも自分だろ。自分で選んで、それでここにいるんだったらそれでいいだろ。後悔したって、なにも残ってねえなんて事はねえよ」

「じゃあ、なにが残ってるんですか」

「知るかそんなもん」


 僕の中に残っているもの。それを数えるということは、これまでに通りすぎてきた道を見つめなおす事でもあるんだ。その道の途中には確かにきらきらと光る欠片もあるのかもしれない。だけど、そこここに存在する傷の痛み、泣きたくなるほどの存在の軽さを自覚したあの瞬間が蘇る。


「お前は前向いて歩いてんじゃねえか。別れて、次に進もうって思ってんだったらそれでいいじゃねえか。どっちが前かわかってんだろ」

「わかってますよ、そんなこと」

「……俺はあん時のお前に救われたんだよ。お前と話して、自分が持ってる気持ちを否定しないでいられた。そりゃ中学生の頃の話だし、いろいろ変わったとこもあって当たり前なんだけどさ。すげえ押し付けがましいかもしれねえけど、もっかい思い出して欲しい。お前がどんだけ真っ直ぐだったか」


 押し付けがましい、と、思ってしまった。あの頃の僕がどうだって言うんだ。今の僕とは関係ない。僕はもう二十歳を過ぎているし、色々な経験もしてきた。だから変わってしまったんだ。いつまでも真っ直ぐのままでいられるはずがないじゃないか。


「先輩は、ずっとヒロ君だけなんですよね。ヒロ君は先輩の気持ちを受け入れたんですよね」

「……まあ、一応な」


 どちらの質問の答えなのかわからなかった。思わず顔を上げて彼を見上げる。彼は天井を見上げて、ふ、と息を吐き出した。


「じゃあ、じゃあ先輩には僕の気持ちなんかわかんないですよ」

「なんで」

「世界って、広いですよね」


 僕の言葉に、彼は真意を図りかねたように片目を細めて首を傾げる。窓の外、通り過ぎる車の音が響いた。


「すごく世界は広いのに、僕を好きになってくれる誰かが存在するのか。いつも、不安なんです。数えきれないほどの人間が居るのに、そのたった一人を見つけるのがどれだけ困難なことか。だからいつもこんな時は、たった独りで死んでいく自分を想像するんです。それで怖くなって、自分の存在を消したくなる」


 たった一人で部屋の天井を眺めているときには感じない孤独を、人混みの中では痛いほど感じてしまう。みんな僕を見ていない。誰も僕を理解しようとしてくれない。


「自分をずっと好きでいてくれる誰かが存在するって、本当に奇跡なんですよ。だけどみんないつかは僕から離れていく。別れる度に、出会う度に、怖いんですよ。そんなこと、考えたこともないんじゃないですか」

「なに言ってんのお前。それくらい俺だって」

「わかんないですよ。先輩にはヒロ君が居るんだから。ずっと自分を好きでいてくれる、自分も好きで居られる誰かがそこにいて、離れてたって気持ちが通じあってて、そんな相手僕には居ないんです」


 思わず声が大きくなった。丸いテーブルの端をてのひらで叩いたら、そこに乗せられた二組のカップがかちゃりと音をたてた。


「だけど居たんだろ。ちゃんと見つけられた」

「だけど手放した。自分の意志で」

「どうして」

「理解して欲しいと思えるほどの愛情がなくなったからです」

「どうして」

「彼が僕を見てくれないからです」

「お前は見てたのかよ」

「見て、み……、見てました」

「嘘つけ」


 息をつかせない言葉の応報に、思わず奥に隠していたはずの本音が出てきてしまった。ほら、僕はまた涼介のせいにしている。涼介が見てくれないから。涼介が理解してくれないから。だから、僕も。


「なんでそいつがお前を見てくれなくなったのか。わかってんの」

「忙しいからですよ。勉強や、友達付き合いとか、そういう……。だから、でも、本当に愛情があればそんなの」

「そりゃお前、ただ単にお前が冷めただけだろ。人のせいにしてんじゃねえよ」


 彼は苦笑いしながら僕のカップの下に敷いたソーサーに乗っていたクッキーを摘んで、口の中に放り投げた。ぼりぼりと、乾いた音がする。彼はまるで苦いものでも食べているような顔をしてそれを飲み込んで、甘い、と吐き捨てた。


「それ、僕のじゃなかったんですか」

「腹減った。なんかねえかなあ。冷蔵庫見てくる」

「僕が冷めたんですか」

「……そういう事じゃねえの。忙しいそいつのこと、ちゃんと待ってようって思えなかったんだろ。そういうの、時間の無駄だって思ったんだろ」


 確かにどこかでそんなふうに思っていたかもしれない。日々勉強にあけくれる涼介を、側で息を潜めてじっと待っているあの時間が、やけに無駄なものに感じられたのは確かだ。だから自分もなにか探そうと、考えに考えた結果別れるという結論に至ったんだ。


「待つってのはな、自分より相手のほうが大事だって思ってなきゃ出来ねえ事だろ。時間はどうやっても取り戻せないし」

「先輩はずっとヒロ君を待っているんですよね」

「……待ってるっつーか、ヒロにはヒロの人生があるから。俺を選ぶ事があいつにとって決していい事じゃないってわかってるから、だから会わなかったんだよ」


 彼はそう言って、遠くを見るような目で僕の肩の辺りを見つめた。それから眉を下げて、仕方なく笑った。






 


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