車輪の音・21
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「智也から伝言」
「うん?」
「ヒロの、好きなようにやれって。それで、もし嫌なことあったら、いつでも電話してこいってさ。笑わしてやるからって、言ってたぞ」
「……そっか。うん、伝言、ちゃんと受け取りました」
「電話で言えばいいのに」
「そうじゃないんだよ。それを隼人が伝えるって事に意味があるんだよ。たぶん」
「たぶんって。けどまあ、あいつのお陰でヒロに会えたようなもんだからな」
「ふうん。智也って箱入り息子だと思ってたけど、意外とやるね」
「俺の捜索願い取り下げるために帰ったんだよ。結局だめにしちゃったけど、時間は稼げたからな」
「お土産のひとつでも持って帰らなきゃね」
「お土産ねえ。まんじゅうかな」
「まんじゅう……。地味だね」
小西さんの家のすぐ裏手に、きれいな小川が流れている。幅は狭く、古い木製の橋がかかっていて、そこにふたりで座り込んだ。足の裏を冷たい水が滑るように流れていく。
透明な流れの水の音が辺りに響いて、広い空に響く風の音と混ざり合う。こうして座っているだけで、日常のごちゃごちゃした事を忘れてしまいそうだった。
「大人って、何歳かな」
「ええ……普通に考えたら二十歳じゃねえの。成人式あるし」
「二十歳……てことは七年かあ」
「ちょ待て、七年後つったら俺二十二とかだし」
「だって僕が大人になんなきゃ家出られないんだったら仕方ないでしょ」
「……なんか不公平っうか」
「ゴネないの」
俺の左隣に座ったヒロはそう言って、目を細める。長い睫毛が上下して、きれいな鼻筋の下の唇が、にっ、と横に広がった。惹きつけられるように、その唇にキスを落とす。
「……何回目。僕たちキスばっかりしてる」
「だって、暫くできねえもん」
「だからってこんなにしてたら腫れちゃうんじゃないの」
「腫れないって。な、もいっかい」
「もー」
ヒロは文句を言いながらも目を閉じて、俺の頬にその指をあてがう。少しつめたい体温が心地よくて、そっと手を握った。ちいさな手だ。これからこの手はなにを掴むんだろう。この指は、なにを数えるんだろう。
「ねえ隼人」
「うん?」
「……月が、綺麗ですねえ」
ヒロはやけに幸せそうにわらってそう言ったあと、照れたように目を伏せた。一瞬何のことか解らずに辺りをぐるりと見回してから、思い出した。そういえばいつだったか、保健室で智也が教えてくれたんだ。
「俺も、そう思います、よと」
「ぶ。そういう返しでいいんだっけ」
「わかんね。けど、まあそういう事だろ」
「隼人が知ってるって思わなかった」
「まあな。俺も知らないのが自然だと思った」
「なにそれ」
ヒロはくすくすとわらって、裸足の足指を川の水にすこしだけ浸けた。つめたい、と呟いて、肩を震わせる。それから首元にかかったネックレスの指輪を指先で摘んで、ちらりと俺を見上げてからまた目を伏せた。
「ねえ、七年後ね」
「うん」
「その時も、月が綺麗だったら……いいね」
「きっと綺麗だよ」
「うん。きっとね」
誰もいない早朝の駅に、ゆるゆると顔を出した朝日が差し込む。透明な日射しがホームの屋根の小さな穴からまっすぐな線を描いて、サンダル履きの足を照らした。
幅の狭い階段を下りて、また上る。両手に持った大きな紙袋が、がさがさと音を立てる。中には小西さんに持たされた着替えと、山ほどのお土産が入っていた。
改札を通って駅のロータリーに目をやったら、ふたりがけのベンチにあぐらをかいて座る智也の姿があった。不貞腐れた顔をして、欠伸を噛み殺している。
「朝はええなお前。じいさんか」
「……開口一番それかよ。お帰り」
大きく伸びをして、長いこと同じ姿勢でいた体を解す。腰をひねったら、骨がばきばきと乾いた音をたてた。智也は苦笑いしながら俺の両手に提がっていた紙袋を奪うように取って、自転車の籠に押し込んだ。片足でスタンドをたてて、振り返る。
「後ろ乗れよ。家まで送ってやる」
「智也が優しい。世界の終わりが近いのか?」
「うるせぇばーか! 乗せねえぞ!」
目を丸くしておどけた俺を本気で睨んで、サドルに跨る。遠慮なく後ろに座ったら、重い、と吐き捨てられた。
閑散としたロータリーには俺たちの他に人影はなく、隅に一台、ぽつりとタクシーが停まっているだけだった。自転車でそのすぐ横を通り過ぎるとき、運転手は帽子を顔に乗せていびきをかいていた。
やけに段差のある歩道を乗り越えて角を曲がると、つるりとした太陽の光が目に刺さった。思わず呻いて目を閉じたら、智也が低く笑う。
「ちゃんと話できたか」
「ああ。ちゃんと大人になってまた会おうって事になった」
「へえ……。それで、どうするんだよ」
「どうするって」
「大人になって、会って。それからだよ」
智也は拗ねたような声でそう言って、ちらりと俺に振り返る。すぐに前を向いて、大きくカーブした道でペダルを強く踏んだ。ここは少しだけ、坂になっている。
大人になって、会って。それから俺とヒロは一体どうするんだろう。
「まだ考えてねえよ。大人にならなきゃわかんねえことも、あるだろ」
「……あ、そ」
「うん」
「……ちゃんと、伝えたのか。気持ちは」
「あー、あれ、ほら。月が綺麗って。ヒロが言った」
「お前が言えよ。情けねえな」
智也は苦笑して、ぎ、ぎ、と錆びた音をたてながらブレーキをかけた。止まりきれずに、片足で地面を擦る。家の前を少しだけ通り過ぎて、智也が振り返った。
「ほら降りろ。お前今日学校どうすんの」
「あー、どーにか行けるわ。電車ん中で寝たし。あ、お土産」
籠の中の紙袋から小西さんに貰ったまんじゅうの箱を取り出して差し出すと、智也は喜んだ表情をつくっていたのを一瞬で取り消して、まんじゅうかよ、と文句を言った。仕方なく煎餅も渡したら、苦笑いだけ返されて無言でペダルを踏んだ。
「智也!」
走り去る背中に呼びかけたら、智也はブレーキをかけて振り返る。
「その……、ありがとな。一緒にいてくれて」
「……おう。じゃ、学校でな」
智也は照れたように笑い、少し俯いてから軽く手を上げて、軽快にペダルを漕いでいま来た道を引き返して行った。
寂しかったわけじゃないと思っていたけれど、寂しかったのかもしれない。あの夜にひとりだったらきっと、大きすぎる闇に飲まれて立っていられなかったかもしれない。
「……も一個お土産持ってくか」
呟きながら、玄関の取っ手に手をかけた。
次回から最終章に入ります。