車輪の音・20
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ちいさく開けた窓から、風が草を揺らす音と微かな水音が聴こえてくる。うっすらと目を開けると、もう夜が明けていた。微かに揺れるカーテンが、白い壁に影をうつす。
朝が来てしまった。そう実感して、隣の隼人に目をやった。
隼人は静かな寝息をたてて、ぐっすりと眠っている。指先でそっと額に触れて、熱がない事を確かめた。
そっと布団から這い出して窓の側に立つ。ぜんぶ開けてしまって、伸びをしながら外の空気を思い切り吸い込んだ。うしろからなにか声が聞こえた気がして振り向くと、隼人が眩しそうに目を細めて僕を見上げていた。
「隼人、おはよう」
「ぅおはよ……。朝から元気だな、お前」
掠れた声でそう言いながら伸びをして、呆れたようにわらう。その顔がいつもと同じに優しくて、やっぱり好きだと思った。そう思った途端に胸の奥がなにかに掴まれたように苦しくなって、鼻がつんとする。くるりと隼人に背を向けて、深呼吸するふりをして息を大きく吸い込んだ。
「腹減ったなあ……。めっちゃ腹鳴ってるわ」
ごそごそと布団を出る気配がして、足の裏と畳が擦れる音が近付く。目の端からじわりと広がってしまった涙を、あくびで誤魔化した。
「寝過ぎて、さっきからあくび連発」
「今何時なんだろ。俺の携帯充電切れたから時間わかんねぇ。お前携帯どこ」
振り返らずに僕の寝ていた布団を指差したら、ああ、と言いながら布団の側に座り込んだ。かちっ、と携帯を開く音が聞こえる。
「七時ってお前、はええな。今日、日曜だし。もうちょいゆっくり寝ようかな……あー、でも腹減ったし!」
隼人はいつもと変わらない態度で、いつもと変わらない声で。それが妙に悔しくて思わずため息が出た。薄水色の空に、小さな鳥が群れをなして飛んで行くのが見える。横目で追ってまばたきをしたら、次に目をあけた時に目の前に隼人の顔があって本気で驚いてしまった。
「そんな驚くなって。なんか、ぼーっとしてんな」
「びっくりするって。いま気配しなかったし」
「なに見てんのかなーって。空? すげーいい天気。散歩でもしたいなあ」
窓は小さくて、ふたりで並んだら僕の耳のあたりに隼人の肩がぶつかる。声が低く響いて、その細かな振動が心地よくてそっと目を閉じた。
「ヒロ? まだ眠かったら寝てろよ」
「ううん。ね、隼人。なんか喋って」
「は? なんかって。なに、どした、いきなり」
隼人は僕の顔を覗き込んで、片眉を下げる。その腕を掴んで、無理矢理座らせた。戸惑った顔が面白くて思わず笑ったら、隼人は眉を下げたまま首を傾げて仕方なくわらった。
「……膝、座っていい?」
「え、膝? え……いいけど、なに」
「いいから。ね、僕になにか話して聞かせて。長い話」
隼人の鎖骨の辺りに耳をくっつけて、目を閉じる。隼人は暫く戸惑っていたけれど、うーん、と低く唸ってから、ぽつりぽつりと話を始めた。
「……言うの、忘れてたけどさ。実はここに来る時、智也も一緒だったんだよ。もう帰ったけど」
「え、智也も? なんで?」
「知らねえよ。あいつ、いきなり電車に飛び込んで来やがった。それで、一緒にヒロ探すって聞かなくて。けどあいつ、金持ってねえの。ばかだろ」
隼人の声が高く低く、響く。呆れたように息を吐き出すと、お腹が小さな音をたてた。そういえばお腹がすいたと言っていた。
隼人は時々お腹を鳴らしながら、智也と過ごした夜のことや、夜明けの空の色のこと、飲み込まれそうなほどの蝉の声のこと、やわらかそうな稲穂のじゅうたんのこと、ちいさな川の水の音や空の色。そんなことをゆっくりと、噛み締めるように話した。
僕は目を閉じて、その光景を思い浮かべる。
隼人はどんな顔をしてそこに居たんだろう。どんなことを思ったんだろう。
「朝焼け、綺麗だったなあ。下のほうがオレンジで、上が濃紺で。あ、ほら、テキーラ・サンライズってカクテルあるじゃん。あれみたいだった。色とか違うけど、イメージ的に」
「イメージ的にって。テキーラ・サンライズはオレンジとざくろだよね」
「そう。だから、違うけど、まあサンライズだし」
「イメージ的に、ね」
「うるせぇよ」
うるせぇよ、と言いながらわらって吐き出した息が髪にかかって、擽ったい。隼人を見上げたらやけに近い距離で目と目が合って、一瞬、沈黙が流れる。隼人の視線が僕の口元にうつったのが、わかった。次の瞬間隼人は窓を見上げて、咳払いした。
「足痺れた。もー下りて」
「えー、やだ」
「あー、もう。お前、襲うぞ」
苦笑いしながらそんなことを言った隼人を見下ろしながら立ち上がって、妙な空気を誤魔化したくて大きく伸びをした。
「そんなこと、できないくせに」
「……しないだけだよ。すげー我慢してる。だから、あんま挑発すんな」
「ちょ、挑発なんかしてないよ」
隼人の顔を見ないようにして、布団に座り込んでシーツを剥がしながら少しおどけたようにそう言って振り返ったら、いつの間にか隣に来ていた隼人に腕を掴まれた。いま窓の所にいた筈なのに、瞬間移動でも出来るんじゃないか、なんて妙なことを一瞬で考えた。
「はや、」
そのまま布団の上に押し倒されて、隼人は僕の上に覆いかぶさるようにして僕を覗き込んだ。心臓の鼓動が大きくなる。苦しくて、息が止まりそうで。だけどやけに甘やかなその空気に、一瞬で引き込まれそうになる。
隼人は僕の髪を撫でて、やわらかく微笑む。だけどその表情はどこか余裕がなくて。ゆっくりと近付いた唇がかさなり、息を吸い込もうとひらいた唇から隼人の舌が入り込んだ。パジャマの裾から差し入れた手の、長い指が脇腹を這う。思いがけずちいさな声が漏れて、その途端に隼人の体が跳ねたように離れた。隼人は気まずそうに僕から目を逸らし、短いため息を吐いた。
「……ごめん。ちょっとなんか、ムラッとした」
隼人は視線を落としたまま吐き捨てるようにそう言って、ゆらりと立ち上がる。そのまま襖に向かって歩いて、ぽりぽりと後ろ頭を掻いた。
「あ……、あの」
「頭冷やしてくる」
僕を振り返りもせずにそう言って、襖の向こうに消えてしまった。ぺた、ぺた、と、隼人のたてる足音が遠ざかって行く。中途半端に畳まれたシーツのうえに放り出されたままの僕は、少し捲れてしまったパジャマの裾をそっと整えてから、起き上がった。
まだ、速くなったままの鼓動が落ち着かない。自分の体を抱き締めるようにして、うずくまった。
隼人の困ったように笑った顔が脳裏に焼き付いている。唇に、口内に残る隼人の温もりが、胸を締め付けた。
「あら、おはようヒロ君。よく眠れた?」
きょろきょろと家の中を見回しながらリビングを探し当てたら、細くて短い竹を繋げてつくった暖簾の向こうから、小西さんがそう言ってにっこりと笑った。
「おはようございます。すみません、何だかのんびり起きてきちゃって」
あれから布団のうえで自分を取り戻すまでに、かなりの時間がかかってしまった。我に返って畳みかけていた布団を片付けてしまって、ようやく部屋を出たのはもう八時を過ぎた頃だった。隼人はまだ戻っていない。
「隼人くんにおつかい頼んじゃった。すぐそこのコンビニなんだけどね。もうすぐ戻ると思うけど」
小西さんはきょろきょろしている僕の心を読んだかのようにそう言って、冷蔵庫から卵を出してボウルに割り入れた。
「僕、手伝います。なに作ってるんですか?」
「あら、助かるわ。なにって、何の変哲もないオムレツなんだけどね」
「オムレツ好きです。じゃあ僕……ええと、なにしたらいいですか?」
「そう、良かった。そうねえ、じゃあサラダでも盛りつけてもらおうか」
「わかりました。ええと……お皿これでいいですか?」
食器棚からサラダボウルを取り出したら、小西さんは小さく頷いて冷蔵庫からドレッシングを取り出した。
「隼人くん、ヒロ君とお散歩するんだって張り切ってたわよ。すぐ裏に気持ちのいい場所があるから、ご飯食べたら行ってみてね」
そう言えば隼人は、散歩したいと言っていた気がする。拗ねている訳じゃなかったことを知って少しほっとした。
洗ったリーフレタスをちぎっていたら、コンビニの袋を提げた隼人が戻ってきた。
「ただいま。小西さん、十円足りなかった」
「え、ほんとに? でも買ってきてるじゃない。どうしたのよ」
「悩んでたら、横に居たおばちゃんが十円くれました。かわいそうだからあげる、って」
「あはは。それは良かったねえ。隼人くんおばちゃん受けする顔だもんね」
隼人は苦虫を噛み潰したような顔になって、袋をテーブルの上に置いた。袋の中にはコーラと、牛乳のパックが入っていた。
「……お帰り」
「……おー。えっと、牛乳。飲む分なかったから、コンビニ行ってきた、ぞ」
「ああ、うん」
隼人はどうやら、気まずくなった原因をなかったことに出来る性格じゃあないらしい。視線を泳がせて、どこからどう見ても挙動不審だ。そんな隼人の様子に、小西さんは首を傾げて苦笑いをしている。なにがあったの、と聞かれないことを密かに祈った。
「あ、ヒロ君今のうちにシャワーでも浴びてきなさい。着替え、少し大きいかもしれないけど、脱衣所に置いてあるから。息子のお下がりで悪いけど」
「ありがとうございます。じゃあ、そうします」
隼人をよく見ると、ズボンの裾が少し短い。着ているシャツも肩のところが少し幅が狭いようで、何だか窮屈そうで笑えた。
「なに笑ってんだよ」
「いや、なんか捉えられた猿みたいだなって」
「お前ね。……ああ、だからコンビニのおばちゃん笑ってたのか。かわいそうってそういう事」
カウンターの向こうで、小西さんが大きな笑い声をあげた。
小西さんの息子さんのお下がりだという服は、僕には確かに少し大きかった。ズボンの裾を折り曲げて、ぶかぶかのウエストはベルトで無理矢理締めた。たぼだぼのTシャツを頭から被って肩にタオルをかけたままリビングに行ったら、すっかり完成した朝食を並べていた小西さんが僕の姿を見て頬を緩めた。
「あら可愛い。やっぱり、少しじゃなくてだいぶ大きかったみたいねえ」
「……僕だって、すぐに大きくなります」
「そうね、隼人くん背高いもんね。兄弟だし、似るわよね」
少し唇を尖らせてみせた僕を慰めるふうでもなく、ひとりごとのように小西さんはそう言った。そうだ、僕たちは兄弟だ。忘れていた訳じゃなかったけれど、改めてそう言われると何だか、思いなおせ、と言われているような気分になる。あんな事があった後だから、余計に。
「……隼人は?」
「ああ、お腹すいてたみたいだったから先に食べてもらったの。携帯の充電器貸したら部屋に引っ込んだわよ。彼女にメールでもするのかしらねえ」
そう言って小西さんは笑う。隼人がメールを送るのはきっと智也たちなんだろうけれど、本当なら彼女という存在が居ても当たり前だと思うと妙に申し訳ない気持ちになった。
僕と出会いさえしなければ隼人はきっと普通に女の人と恋愛をして、普通に結婚して家庭を築くはずだった。それは隼人だけじゃなくて、僕にも言える事だけれど。
「ご飯食べたら邪魔してきます。あとでドライヤー貸してもらっていいですか」
「はいはい。ええと、確かこのへんに」
小西さんはキッチンを出てリビングのサイドボードの引き出しを開けると、ドライヤーを出してソファーの上に置いた。
「ここ置いとくからね。ごはん食べちゃって」
「はい、いただきます」
手を合わせてからフォークを手に持ったら、小西さんはにこにこと笑いながらテーブルの向かい側に座る。
「ヒロ君も隼人くんもいい子ね。ちゃんと、いだだきますが言えるのね」
「涼子さんが……、隼人のお母さんが言ってたんです。いただきますっていうのは、自分がこれからその命を頂いて生きる力にします、っていう、感謝の気持ちを伝える言葉だそうです」
「そうね。食べ物はぜんぶ、命で出来てるんだもんね。涼子さんもいい事言うねえ」
小西さんが涼子さんを褒めるとは思わなかったから、少し驚いた。何だか嬉しくなって、僕が褒められた訳でもないのに頬が緩んだ。
「ヒロ君も隼人くんもねえ、なんていうか、同じ空気持ってるね」
「え? なんですかそれ」
「うーん。うまく言えないんだけど、感性が似てるって言うか、あと、雰囲気が似てるっていうか。兄弟なんだからそれはそうだと言われちゃえば黙るしかないんだけど、もっとこう、根っこのほうが」
小西さんはそう言って、眉間に皺を寄せて考え込む。根っこのほう、というのはどういう事なんだろう。困惑して首を傾げていたら、まあ、とにかくそういうことよ、と誤魔化されてしまった。
「……夕方? うん。まあ仕方ないよな。わかってるから」
部屋の前に立つと、中から隼人が誰かと話している声が聞こえた。電話をしているんだろう。邪魔をするのも悪いと思って、話が一段落するまで部屋の前で待つことにした。
「そんなんじゃねえよ、頭おかしいんじゃねえの。勝手に決めつけんな」
隼人の声がすこし高くなる。棘のあるトーンで、無意識に背中が強張った。電話の相手はきっと父なんだろう。なにを決めつけられたって言うんだろう。
「……ヒロのこと、頼むよ」
急に声が弱くなって、喉の奥から絞り出すようにそう言った。電話の向こうで父は、なんと返事をしたんだろう。
「好き嫌い多いから。納豆食えるようにしてやってよ」
「納豆はだめ! 絶対無理!」
この世でいちばん大嫌いな納豆という単語が出てきて、思わず襖をがらりと開けて飛び込んでしまった。隼人は目を丸くして、僕を見上げる。それから、ふ、と気を抜いたように笑って、隣をぽん、と叩いた。
「ヒロ帰ってきた。納豆は絶対無理だってさ。少し話す?」
父に言ったのか僕に話しかけたのかわからなかったけれど、小さく頷いたら、充電器の刺さったままの携帯を僕に差し出した。座って受け取り耳に押し当てると、そこにはまだ隼人の体温が残っていた。
「……お父さん?」
『ヒロか。……その、すまなかったな』
「なにが?」
隼人は僕から離れて、畳の上に大の字になって寝転んだ。葦草の香りが微かに漂う。
『強引にお前を連れてきた事だよ。隼人に散々怒られた』
「ほんとだよ。いい迷惑だってば」
壁に凭れてそう吐き捨てたら、隼人が楽しそうに声をあげて笑った。
『けどな、わかって欲しいんだ。もう父さんはあの家には帰らない。お前も』
「わかってるよ。お父さんが僕のためを思ってここに連れてきた事も」
『そうか……』
「だけど大人になったら自由にさせてよね。それまでは寂しいだろうから一緒にいてあげる」
僕は自分の意志で、ここに居ることを選ぶ。そう思ったら少しだけ気持ちが軽くなった気がした。隼人は上半身を起こして、じっと僕の目を見つめる。少しだけ寂しそうな、だけどやわらかな視線で。
『それは有難いな。じゃあもう切るぞ』
「うん」
『夕方にはそっちに迎えに行くからな。帰り支度をしておけ』
「うん。……お父さん」
『何だ』
「心配かけて、ごめんなさい」
『本当だな。いい迷惑だ』
「真似しないでよ」
父は、ふっ、と息を吐いて笑って、電話を切った。暫く携帯を眺めてゆっくりと手を下ろすと、僕を見つめ続けていた隼人と目が合った。
「ヒロは」
「うん」
「それでいいの」
こくりと頷いたら、隼人は少し困ったように眉を下げて、だけど柔らかくわらった。
「隼人は、隼人の意志であの家に帰る。僕は僕の意志でここに残る。それから大人になって僕たちがまた会うのも、僕たちの意志だ。なにか問題がある?」
きっぱりと言い切ったら、隼人は目を細めた。それからゆっくりと僕に手を伸ばして、おいで、と囁くように言った。言われるままに側に行ってぺたりと座り込んだら、隼人の大きな手が僕の後ろ頭をぐりぐりと撫でた。それから、そのままその手に力を入れて僕を引き寄せて、軽い口づけをした。
「俺さ。今なんにもできねえけど。ヒロにまた胸張って会えるように、いろいろ頑張る」
隼人は僕の髪をドライヤーで乾かしながら、僕にちゃんと聞こえるように耳元でそう言って、気合いを入れるように大きく頷く。
「それ、かっこいいこと言ってるようでちっとも具体的じゃないけど」
「そう言われるとそうだけど、まあ許せ」
すっかり乾いた僕の髪を手櫛で梳いて、手の甲で、ぽん、と後ろ頭を叩いた。終わったよ、という、いつもと変わらない合図だった。振り返って隼人を見上げると、やさしい目で僕を見下ろす。
「ちゃんとかっこ良くなってないと、隼人に会ってもスルーして帰るからね」
「それは辛いな」
「僕がまた惚れ直すくらい、かっこいい大人になっててよね」
至近距離で目を合わせたまま、くすくすと笑いながら遠い日の約束を交わす。もやにかかって見えないくらい遠い未来の話だけれど、僕らにはきっと現実になる日が来るんだ。
隼人の頬に手を添えて、唇をかさねた。隼人は驚いたように目を丸くして、幸せそうにわらった。その笑顔につられて、僕もわらった。




