車輪の音・19
◆◆◆◆◆
誰かが髪を優しく撫でる感触がして、目が覚めた。薄暗い闇の中に、豆電球のオレンジがぼんやりと浮かぶ。白いカーテンの隙間からのぞく空に、綺麗な月が佇んでいた。
痺れたような感覚の頭を少しだけ動かして隣を見たら、布団を被りもせずに俺の枕に手を置いたまま眠るヒロの姿があった。静かな寝息をたてて、長い睫毛が揺れている。
思わず手を伸ばして、白い頬に触れた。滑らかな肌のうえで指先が、何の引っ掛かりもなく落ちる。もう一度手を伸ばしたら、音がしそうな勢いでヒロの目が開いた。
「うお、びびった」
「隼人。目、覚めた?」
ゆっくりと体を起こしたヒロはそう言って、俺を覗き込む。額に手を押し当てて、少し下がったね、と安心したようにわらった。
「……ここ、どこ?」
「小西さんの家だよ。隼人が目回してぶっ倒れたから、救助要請したの」
「ちょ……、なんかそれ人聞き悪いし。てか小西さんて誰」
薄暗い闇の中、ヒロがごそごそと立ち上がって電気を点けた。蛍光灯の灯りが目に刺さった気がして思わず呻いたら、ヒロが、ごめんね、と言いながらひとつだけ電気を暗くした。
「薬、飲まなきゃ。風邪薬みたいなんだけど、何錠かわかんなくて」
「……眩しい。溶ける」
「一回二錠。おっけ。電気消すね」
枕元に置いたトレイの上、グラスにコポコポと水が注がれる音が聞こえた。膝が畳を擦る音がして、目を開けたら心配そうな顔をしたヒロが俺を覗き込んでいた。
「そんな眩しかった? ごめんね。はい、薬」
「これ、粒大きい……」
「文句言わないの」
ヒロの手に乗った少し大きめの錠剤を指先で摘んで口に放り込んだ。水で流し込んで布団に潜ったら、ヒロが小さく、待って、と呟いた。
「着替えて。汗かいてるし。体拭くから脱いで」
ヒロは部屋の隅に置かれたタオルと着替えを持って枕元に座り込んだ。ぼうっとした頭で、ヒロの言葉を反芻する。
「脱ぐの?」
「え? 脱がなきゃ着替えられないでしょ?」
「……まあ、そうなんだけど」
ヒロは不思議そうに首を傾げてから、俺を見上げる。そうして、みるみるうちに暗闇の中でもわかるくらいに、顔を赤くした。
「あ、あの、僕ちょっと出てるから。着替えたら教えて!」
「いいい、いいって。違う。ごめん、俺が考えすぎた!」
勢い良く立ち上がったヒロの腕を掴んで懇願するようにそう言ったら、ヒロは首を横にぶんぶん振って、無理、無理、と顔を背ける。
「なんか、そう言われると。一回意識しちゃったらもう無理!」
「意識しちゃったか」
「隼人、そんなことばっかり考えてるから」
「いや俺そもそも今病人だし。なんも出来ねえし」
「なにもって……もう! 出てるから、自分でやってね」
余計なことを言ってしまった。そもそも男同士なんだし、気にしなきゃ気にしないでいられたはずなのに。
勢い良く襖を開けて部屋を出たヒロを苦笑いしながら見送ると、ヒロは相変わらず赤い顔をしたまま苦笑いを返して襖を閉めた。
「……なにやってんだ、俺は」
大きく息を吐いたら、天井から吊り下げられた照明の紐がゆらりと揺れた。
なんとか着替えを済ませてヒロを呼んだら、そろりそろりと襖が開いた。どこかぎこちなさを感じる動きで部屋に戻ったヒロは、脱いだ服を手早く纏めて部屋の隅に置いてあった籠に入れた。
ヒロは、少し空気を入れ替えよう、と言いながら窓を開けた。揺らいだカーテンの隙間から夜気がするりと部屋に忍び込んで、山の上に佇む月の明かりさえ呼び込んだ。青白い光は畳の縁を踏んで、枕元に座り込んだヒロの肩のうえで留まった。白い頬が浮かび上がって、長い睫毛が陰を落とす。
「小西さんはね、お母さんの親友だった人なんだ」
落ち着いた声で、ヒロはそう切り出す。ヒロの声は高くもなく低くもなく、耳たぶを擽るようにして、胸のいちばん深い所にやわらかく届く。目を閉じて、夢見心地でヒロが話すのを聞いていた。
「長野のおなじ施設で育って、小西さんのほうがお母さんよりだいぶ年上らしいんだけど」
ヒロのちいさな手が俺の頭に乗せられて、ゆっくりとつむじの辺りから額までを往復する。額に下りてきた指先が残って浮き上がる度に、すこし擽ったい。思わず頬を緩ませると、ヒロの声もわらったように軽くなった。
「ここに来てすぐに、僕とお父さんに住む所を紹介してくれたり、制服を持ってきてくれたり。すごくお世話になってて」
「そっか」
「それで僕に、なにかあったら連絡して、って電話番号なんかを書いたメモをくれてたんだ。朝、ポケットに入れてたのさっき思い出して」
「そっか」
「あまり知らない人に甘えるのもどうかと思って申し訳なかったんだけど、さっき小西さんが」
すん、と鼻を啜る音が聞こえた。泣いているのかと思ってうっすらと目を開けたけれど、ヒロはどこか幸せそうに、やわらかくわらっていた。
「お母さんに、なにも出来なかったから。だから僕にこうやって手助け出来ることが嬉しいって、そう言ってくれたんだ」
「……そっか。優しいな」
「うん。優しいね」
それからヒロはぽつりぽつりと、ここに来てからあったことを、まるで夢のなかの出来事のように途切れ途切れに話した。そのうちに眠くなったのか、静かな寝息をたてて眠りについた。
少し体を起こして、ヒロの布団を肩まで引き上げる。ヒロはちいさく、俺の名前を呼んだ。起こしたのかと思って顔を覗き込んだら、規則正しい寝息が耳に届いた。
脱いだ服とタオルの入った籠を手に部屋を出ると、廊下のつきあたりに灯りがついているのが見えた。足音を立てないようにそっと部屋を覗いたら、大きなソファーの上でパジャマ姿の女性がひとり、ビールを片手に雑誌を捲っているのが見えた。俺の姿を見てにっこりと笑い、軽く手を上げた。
「すみません、ご迷惑かけてます」
「いいのよ。それより、具合はどう? 薬は飲んだ?」
小西さんは立ち上がって洗濯物の籠を受け取りながら、下から俺を覗き込む。それから手を伸ばして、額に軽く触れた。カサカサとした、よく働く手だと思った。母の手に、少し似ている。
「熱は下がったわね。良かった良かった。あ、りんご剥いてあげようか」
「まじですか。りんご、いただきます」
「風邪引いた時にはりんごがいちばんよ。そこ適当に座って」
そう言って指差したあたりに律儀に腰掛けたら、小西さんは楽しそうに笑ってキッチンに向かった。大きな対面式のキッチンで、カウンターの向こうでばたばたと冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえた。
カウンターの端に置かれた小さな置き時計を見たら、時間は夜中の十二時を回っていた。
「ご主人、まだお仕事なんですか」
「うん、夜勤でね。帰るのは朝になってから。だからこの時間は羽根伸ばしてるの」
そう言って、小西さんは楽しそうに笑う。鼻歌を歌いながら剥いたりんごは、うさぎになっていた。
「うさぎさん。目つける?」
「……目つけたら食べれなくなりそうなんで、いいです」
「隼人くんって可愛い」
あはは、と笑いながら小西さんはそう言って、白い皿に乗ったりんごを差し出した。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なあに?」
ソファーに深く腰掛けてうさぎを頭から齧っていたら、小西さんは冷蔵庫から新しいビールを持ってきて開けた。炭酸の抜ける音と乾いた缶の音が混ざって、アルコールの匂いが微かに漂う。
「ヒロの母親……沙智さんって、どんな人だったんですか」
「え……そんなこと聞くの?」
「え?」
小西さんは俺の言葉に目を丸くして、いかにも驚いたようにそう言った。そんなに驚くような事を言ったつもりがなかったから、戸惑ってしまう。こんな事を俺が聞くのはなにか違うのか。そう思い直して、やっぱりいいです、と言おうと口を開きかけた。
「それはそうよね。大事な弟のお母さんだもんね」
「……あの、だめなら、もう聞きません。だけどヒロに聞いてもあまり話してくれないから」
ヒロの口から時々思い出したように出てくる母親の想い出はいつも断片的で、どんな人物だったのか未だに掴めないままだった。知る必要はないのかもしれない。だけど、知りたかった。
「だめなわけじゃないのよ。だけど」
「だめ、ですよね」
「だって、もったいないじゃない。ヒロ君の中でも私の中でも、沙智の想い出は宝物なの。誰かに話せばそのぶん磨り減っちゃうのよ」
小西さんは困ったように首を傾げたままそう言った。やけに深刻なその声に、自分は部外者だと言われているような気がして、ずんと気持ちの底が重くなった。
「違うのよ。別にあなたをのけ者にしようとか、そういうつもりは全然ないの。そうじゃなくて、ただ」
「いや、いいんです。わかってますから」
「違うの、だだ、大事にしたいの。何だか、消えてしまう気がして」
顔の前で手を振って、気にしていない、と笑ってみせた俺を制して、小西さんは真剣な目を向けて絞りだすような声でそう言った。
「沙智はもうこの世にいなくて、だから、口に出せば風に乗って、想い出まで天国に消えて行っちゃう気がして」
「……想い出まで」
「うん。まだ私のなかでも、ヒロ君のなかでも、沙智がもうこの世にいないって事が全然整理出来てないんだと思う。突然の事だったし、特にヒロ君はまだ納得も出来てないんじゃないのかな」
ヒロが母親のことを話した後は決まってぼんやりと中空を見つめて物思いに耽る。どんなことを思っているのか気にはなったけれど、そこは立ち入ってはいけない空間なんだと自分に言い聞かせて、そっとしておくことに決めたんだ。ただ、ヒロの気持ちが少しでも軽くなるように、なるべく一人になってしまわないように側にいた。俺に出来ることは、探しても探しても、そんなことしか思いつかなかった。
「もう少し大人になって、ヒロ君のなかで整理がついたら。そうしたらまた、聞いてみるといいと思う」
時間がすべてを解決してくれる訳じゃないけれど、痛みは少しずつやさしくなって行くから。小西さんはそう言って、申し訳なさそうに頭を下げた。
「だけど沙智は、隼人くんのことも気にかけてたのよ」
「……え、俺? なんで」
思いもよらなかった言葉が小西さんの口から飛び出して、少しぼんやりしていた頭がさえた気がした。目を白黒させて瞬きを繰り返していると、小西さんは優しい顔で俺を見上げて笑う。
「あなたとヒロ君のお父様がね、一人になると決まって、あなたの写真を取り出しては眺めていたそうよ。日本に置いてきた可愛い息子に、本当は会いたくて仕方なかったんじゃないかって。隼人くんも寂しい思いをしてるんじゃないかって。沙智はそう言ってた」
あの父がそんなことを。無愛想な父が俺の写真を手にため息なんかを吐いている姿を想像して、何だか背中が痒くなった。思わず身震いしたら、小西さんはいかにも可笑しそうに笑った。
「申し訳ないって気持ちももちろん、あったと思うのよ。だけど沙智はね、きっと幸せだった。大好きな人の子どもを授かって、親子三人で暮らせて。こんなに恵まれていていいのか、って」
「……それ聞いて、安心しました。俺、ずっとそれが気になってて」
そう言ったら、小西さんはまた驚いたように目を丸くして俺を見上げた。手にしたビールはきっと、もう生ぬるくなってしまっている。
「そっか。隼人くんはヒロ君のことが本当に大切なのね」
小西さんはそう言って、ほっとしたように頬を緩めた。
「よし、今日はもう一本飲んで寝よう。何だかいい気分だわ。隼人くんも飲む?」
「いや、俺まだ飲めないです。ていうか話おわりですか」
「終わり。大人になったら、またここに来て一緒に飲みましょ。あなたが沙智を嫌っていないのがわかったから、今日はそれでいいわ」
「嫌うわけ、ない。だって沙智さんがいなきゃ、ヒロだっていなかったし」
空の缶を持って立ち上がった小西さんを見上げたら、小西さんは、ありがとうと言って心底嬉しそうに笑った。




