車輪の音・18
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風が草を揺らす音が辺りを包む。夜の闇は深くなって、自動販売機の灯りが真っ暗ななかにぼんやりと浮かび上がっていた。
走り去る車のタイヤがアスファルトに残った水たまりを踏んで、ただでさえ生乾きの服に泥水が跳ねた。隼人は既に遠ざかった車に大声で文句を言って、苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。
「あー、もうアキラの服ぐっちゃぐちゃ。お前もそれ、クリーニング出さなきゃな」
「それ山下の服だったんだ。やっぱ身長同じくらいなんだね」
「やっぱ、って」
「山下の前に立った時、思ったんだよ。隼人と同じくらいかなあって」
隼人は僕を振り返って一度立ち止まり、へぇ、と小さな声を漏らす。それからまた前を向いて、とぼとぼと歩き始めた。隼人の足元で、小さな水たまりが街灯を映してゆれた。サンダル履きの足指に巻かれた包帯は泥水を含んでしまって、もしかしたら全部解いたほうがマシなんじゃないかと思って声をかけた。だけど隼人はちらりと自分の足元を見ただけで、うーん、と首を捻るだけだった。
泊まれそうな所を探そうと歩き始めたのはいいけれど、僕らはたいしたお金を持っていない。隼人は一文無しで、僕のお財布の中にも数千円。いっそのこと、このまま朝まで歩き続けるのもいいんじゃないかと思った。
「……どこまで行くの?」
自転車のうしろ、隼人の背中で僕の頬を撫でた風のにおいを思い出した。隼人の体温の安心感と、期待と不安がないまぜになったあの瞬間。僕らの上で広がっていた空の色が、まだそこにあるような気がした。
「行けるとこまで行こうか」
「……どこまで行けるんだろうね。僕たちは」
このまま歩き続けて夜の闇に溶けてしまえばいいとさえ思った。隼人とふたり、この大きな夜に紛れて。朝になれば世界は昨日の続きのように見えてもそうでなくて、はじめから僕らだけがいない。そんなふうになってしまえばいいと、思った。
ふいに隼人が立ち止まって、籠の中に入った鞄を開けて中をがさがさと探りはじめた。それから首を捻って、小さく呻いてまた鞄を閉じた。どうやら、目的の物が無かったらしい。
「どうしたの。なにか失くした?」
「いや、なんか寒くなってきたから。お前にシャツ着せようと思ったんだけど、俺どこ置いて来たんだろ」
そう言って隼人はまた首を捻る。今、隼人は寒いと言った。だけど今日は寒くなんかないし、どちらかと言えば蒸し暑い。夜だと言うのにどこかで蝉が鳴いている声も聞こえるくらいで。
「寒くないよ。隼人、寒いの?」
「え、寒いだろ。なんかこう、ぞくぞくっと。なに、幽霊でもいるんじゃ……」
隼人はきょろきょろと辺りを見回して、見えないものに怯えたように肩を竦めてみせた。そういえば隼人は見かけによらずお化けなんかが苦手だ。いや、僕だってそういうものがいると知ってしまえば怖くて仕方ないけれど、そもそもその存在を信じていない。だから、テレビで流れている心霊特集をチラチラと見ながら大袈裟に怖がって見せている隼人が不思議で仕方なかった。
「そんなものいないよ。隼人、熱でもあるんじゃない?」
自転車のスタンドを立てて隼人の額に手を伸ばして触れた。途端に隼人の眉が下がって、そんなわけない、なんて呟く。
「いや熱あるし。だいぶあるよ。きついなら早く言ってよ」
「きつくねえし。寒いだけだって」
「……とにかく、どこか休める所。あ、ほらそこ階段がある。濡れてないかな」
川沿いの道は所々に河原に降りるための階段が作ってある。今通り過ぎたばかりの所に街灯に浮かび上がった階段が見えて、地面に手をつけて濡れていないか確かめた。幸い、なんとか乾いている。
「ヒロ! 大丈夫だって。まだ歩ける」
隼人はそう言って、自転車のスタンドを足で蹴って起こした。そのままハンドルを握って歩き出そうとしたから、自転車の前に走ってハンドルを掴んだ。
「……ヒロ。いこ」
「こんなこと言いたくないけど」
「……なに」
「どこに、行くって言うの」
夢は見ていたい。だけど僕らはもう、目を覚まさないことを選べるほど子どもじゃなかった。こうやって振り返ればすぐに現実が見えてしまう。このまま歩いていたって、朝は来るし、お腹は空くし、足は痛くなるんだ。そうしてやっぱり辿り着くのは今日の続きの明日なんだ。
「どこってお前、だからそれは」
「もう、いいから」
「なに言ってんのお前」
「もうやめよう。こんなこと。僕たちそんな、子どもじゃないだろ」
眉間に皺を寄せて僕を見下ろす隼人の視線を受け止める。どこか冷たくて、どこか淋しげなその目がゆっくりと伏せられる。隼人はちいさくため息を吐いてハンドルを切り返した。
階段の中ほどに座り込んだ隼人は、大きく息を吐き出して項垂れる。その表情は、陰になっていて見えない。思わず顔を覗き込んだら、こちらを向いた隼人の額に汗の粒が浮かんでいるのが見えた。
「僕、お水かなにか買ってくるから。ここにいて」
確か、ここに来る少し前に自販機があったはずだ。ポケットを探りながら財布を探して、立ち上がる。その時ポケットのなかの指先に、なにか乾いた紙の感触があった。
財布を持って一段上がった僕のシャツの裾を、隼人が掴んだ。ぐい、と引っ張られて、バランスを崩しそうになって何とか踏みとどまった。危ない、と文句を言おうとして隼人を見下ろしたら、まるで捨て犬のような目で見上げられてしまった。
「ヒロ、だめ。ここにいて」
その声が、今にも風に攫われてしまいそうなほど細くて、胸が痛くなる。仕方なく諦めて座り込んだら、途端に隼人は僕の肩に寄りかかった。熱い吐息が腕にかかって、どうしていいのかわからなくなる。
「やっぱりお水、」
「ばか、離れんな」
立ち上がろうとした腕を、強く掴まれた。思わず小さな呻き声が出てしまって、隼人は「ごめん」と呟いて、だけどその腕を離すことはしなかった。
「……だけど隼人。このままここに居ても。病院行こうか」
「ばか、病院なんか行ったら、すぐ連れ戻されるだろ」
「だけど」
「明日、ちゃんとするから。だから今日だけ」
ちゃんと、の意味がよくわからなかったけれど、隼人だってきっとわからないんだろう。ぐったりと僕の体に凭れて、目を閉じる。僕は膝を少しだけ伸ばして、隼人の体を包み込むようにして座った。高い体温が伝わって、汗がじわりとにじみ出てくる。
ポケットから、小さく折りたたまれた小さなメモを取り出した。開くと、そこには小西さんの連絡先が書かれてあった。思わず隼人の顔を見下ろす。相変わらず目を閉じて、浅い息を繰り返している。
「……僕ちょっと電話する」
「……誰、に」
「小西さん」
「小西……? 誰だ、そりゃ」
隼人は薄く目をひらいて、僕を見上げた。長い前髪が目に入りそうになっていて、指先でそっと掬う。額の汗が指先にぺたりとくっついた。
『もしもし、どちらさまですか?』
スピーカーから、すこしトーンの高い小西さんの声が聞こえた。思わず安堵のため息が漏れる。もし出てくれなかったらどうしようなんて、少しは思っていた。
「あの、ヒロです」
『あらヒロくん。あらあら。どうしたの? 嬉しいわねえ、電話してくれるなんて!』
小西さんが心底嬉しそうにわらっている顔が目に浮かんだ。
「すみません、図々しく電話なんか」
『なに言ってるの。……どうかした? なにか、切羽詰まってるみたいに聞こえるけど』
「実はお願いがあって」
ことの経緯を簡単に説明して今の状況を伝えると、小西さんは慌てた様子で僕らの居場所を尋ねた。さっき通り過ぎたばかりの橋の名前を告げたら、小西さんは、そこなら近い、と嬉しそうに言った。
「僕、どうしたらいいのか、わかんなくて」
『大丈夫よ。すぐに行くからね。いい? 動かないで待ってるのよ』
僕の返事を待つ間もなく、小西さんは電話を切った。
小西さんに見つけてもらえるように、隼人を階段の上まで引きずった。痛そうだったけれど、仕方ない。
「隼人。もうすぐ小西さんが迎えに来てくれるからね。そしたら、あったかくしてもらおうね。大丈夫だからね」
「……ヒロ」
「なに? なに、隼人」
「泣くな」
隼人はそう言って、ゆっくりと上半身を起こしながら僕の頭に手を伸ばした。隼人の背中を支えて座り込んだ僕の髪を、力の入らない指先が撫でて落ちる。
「……泣いてないよ」
「うん、大丈夫。……大丈夫」
「隼人ってば」
「……大丈夫だから、泣くなよ」
僕がよっぽど泣いてしまいそうな顔をしていたのか、隼人は何度も、泣くな、と繰り返した。喉の奥がぎゅっと詰まって、気が緩んでしまいそうになる。大丈夫だと言わなきゃいけないのは僕のほうなのに。
「隼人が、いなくたって。僕は大丈夫だよ」
「ふ。ばぁか、そんなこと、知ってるし」
「隼人は、僕がいなくても大丈夫?」
「……どうだろ。俺、毎日泣くかも」
「情けないこと言わないでよ」
「うん、でも、たぶん……」
そう言ったきり、隼人は目を閉じてぐったりとしてしまった。
「隼人? ……隼人? ねえ、返事して?」
頬を叩いたら、隼人はうっすらと目を開けて、蕩けそうなほど柔らかく、わらった。その顔が今の状況にあまりにも不釣り合いで、僕はますます不安になってしまったんだ。
小西さんの家は僕らが座り込んでいた場所から車で十五分もしない場所にあった。そんな近くまで来ていたなんて、まるで運命ね、と、小西さんは嬉しそうに笑って言った。
ちいさな商店街のはずれにある広々とした作りの平屋で、奥にある和室に布団を二組敷いてもらってそこに隼人を運んだ。小西さんは見かけによらず力持ちで、ひとりで軽々と隼人を持ち上げてしまった。
「目が覚めたらこれ飲ませて、ここ着替え置いとくからね。体拭いてあげて。お腹すいたらいつでも声かけて。ヒロ君の着替えはここに置いておくわね」
ラフなTシャツとジーンズという格好で髪を高い位置でひとつに纏めているせいか、小西さんは一昨日会った時よりも少し若く見えた。
「本当にすみません。迷惑かけてしまって」
「あら、いいのよ。なに言ってるの。私はあなたの役に立てて嬉しいのよ。沙智にはなにも出来なかったから」
立ち上がって和室を出て行こうとしていた小西さんは、振り返って僕を見下ろし、目尻に笑い皺をたくさんつくって笑う。この人は、本当に嬉しそうに笑う。母もこの笑顔が支えになったことがきっと、あったんだろう。
「今のうちにお風呂入っちゃいなさい。今日も暑かったから汗かいたでしょう」
「……いえ、僕ここにいます。目が覚めた時に知らない場所だったら、寂しいだろうから」
僕がはじめて篠崎家で夜を過ごした翌日の朝、隼人は僕が目を覚ますとき側にいてくれた。ぼんやりと目をこする僕に、安心していいよと、わらってくれたんだ。
「そう。じゃあ、入りたくなったら声かけてね。私そこの、リビングにいるから」
「はい。だけどこのまま朝まで寝ちゃうかもしれないから、眠くなったらちゃんと寝てくださいね」
「ありがと。そうさせてもらうわ。ヒロ君も眠くなったら寝るのよ」
小西さんはそう言い残して、ゆっくりと襖を閉めた。ぱたん、と空気が遮断されて、しんと静まり返った部屋に隼人の浅い呼吸音だけが響いた。
額のタオルを裏返して、氷嚢を乗せる。隼人の瞼がすこし動いて、小さな声が漏れた。
――ここにいて。
隼人の、ほそい声が蘇る。まるで心の奥にその寂しさが突き刺さってしまいそうな声だった。ひんやりとして、折れてしまいそうで、痛くて。
隼人の手を両手で握って、頬にくっつけた。すこし速い脈が、とくとくと伝わる。
「……すき、だよ」
隼人の呼吸音に紛れて囁いたら、途端に胸が苦しくなって、だけどどこか暖かくて。
「ここに居るからね。大丈夫だからね」
握った手の指を、親指から順にゆっくりと撫でた。隼人の手は大きくて、この手があるだけで僕は立っていられた。
この手で僕の手を握って、僕の髪を撫でて、僕を抱きしめた。
僕の手は、隼人になにをしてあげられたんだろう。そう思うと自分がひどくわがままな人間に思えて、まるで罪滅ぼしのような気持ちで隼人の髪を撫でた。何度も、何度も撫でた。
熱のせいか何度もうなされて目を覚ましそうになる度に、その寝息が静になるまで、何度も、何度も。




