車輪の音・17
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沈みかけた陽が雲間から顔を出して、山の稜線を鮮やかな茜色に染めて行く。空を覆い尽くしていた重そうなねずみ色の雲もその端をオレンジに染めて、薄水色の空を覗かせていた。
俺たちの座ったすぐ側の砂利道に、大きな水たまりができていた。流れて行く雲をうつして、雨上がりの湿った風にゆらゆらと揺れる。
雨の音が止んだかわりに、川がさらさらと流れて行く音が辺りを包んだ。
「雨、止んじゃったね」
ヒロは名残惜しそうに呟いて、空を見上げる。その横顔がすこしだけ大人びて見えた。
これから別々の時間を過ごして、そのなかでヒロはどんどん大人になって行く。背も伸びるだろうし、肩幅だって広くなる。それはたぶん、俺も同じ事で。そんな当たり前のことが、今はすごく寂しい。
「これから、どうする?」
ヒロはそう言って俺を見上げる。擦りむいた頬の絆創膏の端がすこし、捲れていた。きっと泣いた時に擦ってしまったせいだろう。そこを指でつついたら、ヒロは片目を瞑ってくすぐったそうにわらった。
「どうするかな。自転車も使い物にならねえし、金もねえし。もう日も沈むから、ここで野宿か?」
「ここで? うーん、僕野宿ってしたことないからなあ。なんか面白そうだけど、虫に刺されそうだね。どこか泊まれそうな場所探したほうがいいかも」
言いながら想像して痒くなったのか、ヒロは背中をぽりぽりと掻いた。
「ごめんな、ヒロ」
「え、なにが」
「出てくなんて言って。俺、勝手だったよな。お前の気持ちも知らないで」
ヒロは俺がヒロの気持ちを知っていると思い込んでいた。それなのに俺はヒロを置いて家を出ようとしていた。あの時の俺はヒロの目にはどううつっていたんだろう。どうして俺はもっと早くヒロの気持ちに気付いてやれなかったんだろう。
俺はすぐ側でヒロを守りたかったけれど、だけど近付きすぎていたのかもしれない。俺がヒロをちゃんと弟として見ていることが出来たら、傷つけてしまうこともなかったのかもしれない。
そんな今更な事を思って、今更なことに変わりはないのに口から出てきたのは、どうしようもない謝罪の言葉だった。
「……ほんとに知ってたって、結果は変わらなかったと思うよ」
ヒロはゆっくりと立ち上がって、服の皺を伸ばすようにぱたぱたとシャツを叩いた。それから首元で揺れていたリングをそっと指先でつまんだ。沈みかけた夕日が反射して、一瞬だけきらりと光った。ヒロとふたりで歩いたあの海の、桜貝を思い出した。
「どういう事」
「だって隼人はやさしいから」
ヒロはそう言って、俺に手を伸ばす。ほそい腕だ。やわらかな産毛が雨上がりの風にふわふわと揺れる。その手のちいさな爪が桜貝のようで、思わずじっと見つめた。
「離れたほうがお互いのためになる、とかなんとか言って」
「そりゃ、そうかもしれないけど。だけど母さんとふたりきりはお前だって」
「うん。だから、今のこの状況ってラッキーなのかもしれない」
ヒロの手を右手で掴んで、自分の左手ではずみをつけて立ち上がるつもりだった。けれど思っていたよりヒロの力は強くて、軽々と引っ張りあげられてしまった。
「ラッキーって、なんで」
強がりを言っている訳でもなさそうな清々しさをも感じられる表情で、ヒロはわらう。湿り気を含んだ風が耳元でちいさな音を響かせた。ヒロにもおなじ音が聴こえているだろうか。
「だって、僕たちどちらかのせいにしなくてもいい。僕たちは取り敢えず、お父さんのせいにして文句を言えば少しは気が収まるでしょ。例えば隼人が自分で決めて家を出ていく状況だったとしたら、僕はきっと隼人を少しは恨んだだろうし」
「まあ、それはそうなんだけど」
「それにもし」
ヒロは、もし、と言ってから俯き、少しの間口を閉ざす。心配になって覗き込んだら、顔を上げたヒロは目を丸くして、苦笑いを浮かべた。
「もし本当に隼人にほかに好きな人ができたりしても、この状況なら少しはお父さんのせいにもできるでしょ。憎まれ役を買って出てくれたんだって思えば、可愛いものかも」
「憎まれ役、ねえ。まあ親ってのは少なからずそういう役割も担ってんだろうとは、常々思ってたけど」
少なくとも父は。
父は、ヒロを家に連れてきて俺や母に憎まれないはずがない事はわかっていたはずだった。それでも父はあえて憎まれ役を選んだんだ。
別々に暮らす事を決めて押し切る事は出来たのに、それでもあえてヒロの希望通りに一緒に暮らすことに決めたのは、俺や母がヒロを憎んだりはしないと解っていたからなんだと思った。
それは信頼かもしれないし、甘えなのかもしれない。どちらにしてもその判断がヒロを守った事にはかわりがなかった。月のうちに数日しか家には居なかったけれど、それでもそれが父なりの精一杯の罪滅ぼしだったのかもしれない。
そう思ったら、心の底にあったなにか重苦しいものがすうっと溶けていったような気がした。やっぱりどこか、悔しさは残るけれど。
「へえ、常々思ってたんだ」
そう言っておどけた顔をつくって感心したように声を高くしたヒロを軽くひと睨みして、立てかけていた自転車のハンドルを握る。切り返しに失敗して橋桁にペダルがぶつかった。自転車にくっついていた水滴が、ばらばらと音をたてて落ちた。
「隼人、かばん忘れてる」
ヒロがそう言って、橋桁に立てかけてあった鞄を持って自転車の籠に押し込む。濡れた革が、きゅっ、と小さな音をたてた。
「さんきゅ。そういやお前、携帯すぐわかった?」
「うん。なにか行き先がわかるもの入ってないかと思って開けちゃった。ごめんね」
「謝んなよ。そういう距離じゃねえだろ」
家族だから。そういう意味で言ったつもりだったけれど、どこか自分でも違和感を感じた。ヒロは一瞬だけ押し黙って、すこし俯いて短く息を吸い込んだ。
「……どういう距離なんだろうね」
思わず、ヒロの顔を見つめる。ヒロは言ったことを後悔したのか、困ったような顔をして、いまのなし、と小さく呟いた。




