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水の音  作者: さくら
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車輪の音・15





 ◆◆◆◆◆ 






 耳に届くのは車輪の音と、川を縁取る草木を揺らす風の音。

 空はうすい水色で、傾きかけた太陽は黄色がかった強い光を放つ。

 土手のアスファルトのでこぼこが痛くて文句を言うヒロに、ごめんごめんと笑ってみせた。

 ヒロがちいさく、眩しいね、と呟いた。


「どこに行くの」


 ヒロが言う。


「どこ行こうか」


 答えたら、うしろでヒロが俺のシャツの裾を掴んで引っ張る。


「どこ、行くの?」


 もう一度ヒロが呟く。


「……行けるとこまで、行っちゃおうか」


 出来るわけない、と思いながらもどこかで。


「行っちゃおうか」


 笑い合った。笑い飛ばしたのか、賛成、の笑いなのか、きっとわからなかった。俺にも、ヒロにも。




 




 長い長い川沿いの道を、なにも言わず進んでいく。このままペダルを漕ぎ続けても、どうやっても、ふたりきりで居られる世界に繋がったりはしないとわかってはいたけれど。


 ヒロは今、どんな顔をしているんだろう。振り返りたいと思う。だけど、怖くて。

 突然目の前に現れた俺に、なにを感じたんだろう。

 灼けたアスファルトに落ちた自分の影に、やわらかな影がかさなったあの時。顔を上げたら、戸惑いを隠せず、困ったように眉を下げ俺を見つめるヒロがそこにいた。胸が、痛くなった。一瞬で、嵐のような後悔が身体中を駆け巡った。


 いま俺のシャツを掴むヒロの声もどこかいつもと違って。

 俺はこんなふうにヒロを困らせるためにここへ来たんじゃないのに。どうしたらヒロをちゃんと笑わせてやることが出来るんだろう。サンダル履きの足でペダルを漕ぎながら、そんなことばかりを考えていた。


「ね、訊いていい?」


 ヒロが呟く。

 ちゃんと聞こえたけれど、聞こえなかったふりをした。なにか言った、とも言わず、黙ってペダルを漕いだ。ヒロが、ふっと肩を落とす気配がした。そして、雨が降りそうだね、と呟いた。それには、うん、と頷いてみせた。


 ヒロはきっと、俺がどうしてここへ来たのかを訊きたいんだろう。

 どうして。それを言ってしまえば、結果はどうあれこの旅の目的は果たされるんだろう。けれど、今更怖気づいている俺がいる。

 例えば好きだと伝えてしまって、なにかの間違いか奇跡か、ヒロが微笑んだとして。だからといってこれから先の未来を約束する事が出来るのかといえば、それは誰にもわからないし、きっと俺たちにもわからない。


 例えばヒロが首を横に振って俺を遠ざけたとして、だからといって俺たちはこの先もずっと変わらずきょうだいなんだ。今日と繋がったいつかの未来にまた会う時が来る。その度に俺たちはちいさな傷をかくして笑うしかないんだ。


 だけど。

 俺が考えているよりもきっと俺は強いし、俺が思うよりもきっと、ヒロだって強いんだ。

 いつかの未来にはきっと昨日と変わらない日々が続いて、ヒロの居ない日常をちゃんと笑って過ごせてしまうのかもしれない。ただ想い出の中のちいさな傷として、ぼんやりと、ゆらゆらと、漂っているに過ぎないんだ、きっと。


 だからこそ、と思う。

 だからこそ、今ここにこうして居る事を、噛み締めていたい。ヒロをうしろに乗せてどこまでも行きたいと思えたこの気持ちを、忘れたくない。いつまでも覚えていたい。この背中に伝わるやわらかな体温を。


「お父さん、どうなったかな」

「アキラがうまくやってくれただろ」

「山下っていいやつだよね。見た目あんなだけど」

「あんなだけどな。いいやつだ」


 こうしてヒロと言葉をかわす。それだけで満たされていく気持ちがある。


「公園で拾われたんでしょ」

「まあな。飯食わしてくれた」

「犬みたいだね」


 わざとぶっきらぼうに、吐き捨てるように言うその声でさえ、やわらかく耳に届く。


「アキラに飼われたらめっちゃ散歩連れてってくれそう」

「朝晩行くよね」

「朝晩な」


 そうしてこんなふうに笑い合えば、もうそれだけで他になにもいらないくらい幸せだと思える。そうしていつもここで、ひとつの言葉が腹の底からせり上がってくる。

 喉の奥まで出かかったその言葉を、いつもここでぐっと飲み込むんだ。

 だけど。


「ヒロ」

「なあに」

「……俺」


 お前が好きだよと、言ってしまえばいい。言ってしまって、そうして後悔すればいい。そうだ。だってもし、もう二度と会えないんだとしたら。


「隼人?」


 背中越しなら言える気がする。いや、だけど。

 煮え切らない俺に、どうしたの、とヒロが笑ったその次の瞬間。急に自転車のタイヤがぐにゃりと曲がって、バランスを崩した。


「うわっ!」

「えっ! どしたの!」

「ちょ、勘弁して!」


 ハンドルを取られたままタイヤはアスファルトをはみ出し、体勢を戻す間もなく草の上に踊り出る。やばい、落ちる。

 必死で体勢を戻そうとしたけれど、その努力のかいもなく土手を滑り落ちた。自転車は土手の下に広がっていたススキの群生している手前で動きを止め、俺とヒロを草の上に叩きつけた。自転車の車輪は俺の頭の上でからからと回って、ゆっくりと止まった。

 幸い、柔らかな草がクッションになってくれた。慌てて起き上がって振り返ると、身体中に枯葉や緑の草をくっつけたヒロがむくりと起き上がって、目を白黒させていた。


「びっくりしたあ……」


 ヒロは口の中に草が入ってしまったのか、舌を付き出して苦い顔をする。指で拭おうと手を見たら土がついていて、結局、ぺっ、と吐き出した。


「ヒロ、怪我してない?」

「大丈夫。隼人は?」


 ヒロは一応自分の腕のあたりを見てから頷くとすぐに顔を上げて、シャツで拭いた手を伸ばし、俺の髪に絡まってしまった草を指先で取り除きはじめた。ヒロの顔をよく見ると、頬をほんの少し擦り剝いている。


「ここ、血ぃ出てる。ごめんな」

「ほんと? でも大丈夫だよ。隼人の顔の傷には負けるから」


 おどけたようにそう言って、わらう。


「あ、俺、絆創膏持ってた」

「絆創膏? そういえば鞄に入ってたね。どっかで買ったの?」


 鞄をあけて絆創膏を取り出す俺に、ヒロが不思議そうに首を傾げる。智也の足の傷に巻くためにコンビニで買ったものだった。これまで俺が絆創膏はおろかハンカチすら持ち歩いた事がないことを知っているヒロからすれば、こういうものを俺が持っている事を不思議に思うのもまあ仕方がない。


「ちょっとな」


 言いながら、貰い物のティッシュに消毒液を含ませてヒロの頬を拭いた。

 いつだったか、似たような事があったことを思い出す。ヒロはまだ小学生だった。あの頃はこんな事になるなんて、どうして想像ができただろう。

 絆創膏を頬に貼り付けて懐かしい気分に浸っていたとき、ヒロが俺を見上げてすこし、わらった。


「前にもあったね。こうやって隼人が僕に絆創膏貼ってくれたこと」


 こうやって同じタイミングで同じ事を思い出しているとき、長く同じ時間の中で過ごした事を思い知らされる。だけどこれからはもうそんな事もなくなってしまうのかと、複雑な気分になった。


「……懐かしいな。お前まだ、ちっちゃかった」

「ちっちゃいって程ちっちゃくもなかったよ。一昨年とかだもん」


 そうしてこんなふうに何時のことだったかを正確に思い出した時、一緒に過ごした時間が如何に短かったのかを思い知らされる。まだ、たったの二年とすこしだ。それくらいしか、一緒に居なかった。


「一昨年か。なんか、すげぇ昔の事みたいなんだけど」

「そうだね。僕もそう思う。隼人とは生まれた時から一緒に居たんじゃないかって」


 それが普通の兄弟だ。生まれたその時から一緒に過ごして、同じ時間のなかを少しずつ成長しながら一緒に歩いて行く。だけど俺とヒロはたったの二年前までまったく別の道を歩いていた。ヒロの母親との死別がなければ、決して交わることのない人生だったはずだ。


「なんか、不思議だねえ」


 ヒロが感慨深げにそう言って、草の上に寝転んだ。寝転ぶヒロの頭のすぐ横で、自転車のひしゃげたタイヤが横たわっている。

 これじゃあもう、走れない。


「不思議って」

「うん?」

「どゆこと?」

「えっと……、だから、僕たちがこうやってここに、こんなふうに自転車から投げ出されて草まみれになって、空を見上げてることとか」

「うわ」


 ヒロは、草まみれになって、と言いながら俺の腕を引っ張って無理矢理寝転ばせる。抵抗しようと思えば出来たけれど、素直に引っ張られて空を見上げた。眩しくて思わず、一瞬だけ目を閉じた。次に目をあけた時、暮れかけた西の空から灰色の薄い雲がゆるゆると風に乗って近づいているのが見えた。


「……縁、っていうのかな。僕がここにいて、隼人がここにいて、そんなことがものすごく不思議」

「縁、か。まあ、よくわかんねえけど。偶然っていうか」

「偶然でもなくて本当は、必然なんだろうね」

「偶然にみえる事はぜんぶ必然で、運命で決められてるって?」

「……わかんないけど。そういう説もあるし」

「そんなん解んねえよ」

「僕にも解んないけど」


 ヒロはくすくすと笑って、目を閉じる。空が眩しかったのか、なにか考えているのか。わからなかったけれど、その横顔が何故か懐かしく思えた。たった二日離れていただけなのに。


「な、俺たちさ、こんなに連絡取らなかった事今までなかったって知ってた?」

「え、そうだっけ」


 ヒロの修学旅行の晩でさえ、携帯のテレビ電話の機能を使ってふたりで話した。その時ヒロや智也には思いきり呆れられてしまったけれど、現地まで駆けつけるつもりだった俺からすればかなり譲歩した連絡手段だった。そのために母に、ヒロに携帯を買ってやってくれと頭を下げた覚えがある。


「毎日ヒロが居て、毎日話して、毎日一緒に飯食ってさ。それが当たり前だったし」

「……うん」

「なんで大人って、すぐ自分の都合だけで子どもを好きなように動かそうとするんだろうな」

「……そうだね。でも、子どもを不幸にしようとか、そういうのじゃなくてさ。たぶんどこの親も、子どもには幸せになってほしいって思ってるんだよ。僕らが言ってるのは結果論で、その過程をちゃんと理解してあげなきゃいけないんだよ。きっと」

「言ってることはわかるけど、納得したくない事だってある」


 納得出来ないんじゃない。今回のことだって、わかる。父の気持ちも母の気持ちも、たぶん。きっと俺たちには見えていない事情だってあるんだろう。

 けれどここで納得してしまえば、俺はいつまでもどこまでも、親の名を借りた支配欲に飲み込まれたまま、周りを見る事も知らず歩いて行かなきゃならなくなる。そんな気がする。


 隣でヒロは、うーん、と声を出して唸り、暫く押し黙ったかと思うとゆっくりと上半身だけ起こして俺に背中をみせた。相変わらず、ほそい背中だ。


「隼人はさ」


 ヒロの声が遠く聞こえる。どこか、パトカーのサイレンが聞こえた気がして身を竦めた。ヒロはそんなことには一瞬も構わず、話を続ける。声をひとつ出すたびに、喉のあたりが動くのが見えた。そんなことで、生身のヒロがここにいるんだと実感する。


「だから、ここへ来たの。父さんのやり方に納得したくなくて、だから、来たの?」

「どういう意味?」


 首を捻りながら上半身を起こして、ヒロと肩を並べた。ヒロは一瞬だけ俺を見上げて、すぐに反対側を向いてしまった。その向こう、鉄橋をわたる電車がみえた。風向きのせいか、音は殆ど聞こえない。


「どういうって、だから。隼人がここに来た理由だよ。単に父さんに反発したくて来たとか」

「なに言ってんのお前。そりゃ、納得したくないとは言ったけどさ。そういうんじゃねえよ」

「じゃあ、なに」


 なに、と言いながら俺を振り返って、見上げる。黒目がちなふたつの目が、なにか迷っているかのように小刻みに揺れた。こんな顔ははじめて見た気がする。


「隼人は、だって」


 俺の言葉を待つ気がないのか、なにかを聞くのが怖いのか、俺が口を開くよりはやく息を吸い込んで言葉を続ける。俺は吸い込んだ息をそのまま吐き出して、口を閉じるしかなかった。


「寂しくないの。隼人は。こんなふうに離れ離れになって、きっとすぐにまた離れないといけないのに、なんていうかこういうのって、余計寂しくなるっていうか」

「そりゃ、わかるけど、俺まだ」


 だって俺はまだヒロに言ってない。好きだって、伝えていない。




 




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