車輪の音・14
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「なにかトラブルに巻き込まれたのかも。隼人、血の気が多いから」
「まあ、血の気は多いな。あいつが行きそうな場所……わかんねえな」
ここに来たばかりの隼人に土地勘があるとは到底思えないし、そう遠くへは行っていないと思ったんだけれど。自転車のペダルをいくら漕いでも、隼人の姿は見つからなかった。
後ろで篠崎が不安そうにため息を漏らすのが聞こえる。
「……大丈夫だって」
「でも、お財布も持ってないんだよ。携帯も通じないし……カツアゲされたとかじゃないよね?」
裏の公園を見て回った時に、篠崎が隼人の財布を見つけた。現金は入っていなかった。もとから入っていなかったのか、持っていかれてしまったのか。幸いカード類は無事だったけれど。
「あいつがカツアゲされるようなタマかよ。逆だろ、逆!」
篠崎の不安を拭おうとしてそう笑い飛ばしたら、ものすごい剣幕で怒られてしまった。隼人はそんなことをする人間じゃない、だそうだ。
「ごめんって。そんなつもりで言ったわけじゃなくて」
「……僕もごめん。そんなつもりで言ってないの、わかってたのに」
篠崎は思考回路が少し変わっている。何というか日本人特有の、自分を良く見せようとか、体裁を繕うとかそういう思惑が全くと言っていいほど、ない。自分の非は即座に認めて謝って、正しいと思えば相手が納得するまで説得にかかる。だけど相手の話もちゃんと聞く。
「お前、少し変わってるって言われない?」
「どんなふうに?」
「どんなって……なんか日本人ぽくない」
「そうだろうね。帰国子女だし」
「知らなかったな、それは」
「僕も忘れてた」
思わず笑ったら、後ろで小さく笑う気配がした。
午後三時を過ぎたこの時間、ちょうど目線の高さにゆらゆらと留まる太陽の光が目に刺さる。額にじんわりと浮かんだ汗が頬を伝って落ちた。
ペダルを漕ぎながらハンカチを取り出して汗を拭いたとき、うしろで篠崎が小さな声を漏らして俺のシャツの裾を引っ張り、自転車から飛び降りた。お陰でバランスを崩しそうになった。左足で何とか踏みとどまって文句を言おうと後ろを振り返ると、今通り過ぎたばかりの小さな路地に駆け込む篠崎の背中が見えた。
「チンピラに絡まれたあ!?」
はじめに隼人を拾った公園で、隼人と篠崎は並んで木陰のベンチに座った。すっかり温くなってしまったお茶を隼人に手渡すと、躊躇いもせず一気に飲み干した。殴られて切れた唇に染みたのか、顔を顰めて舌打ちをした。母が隼人に貸したのか、隼人の着ている俺の服のあちこちに泥がついている。これは、洗濯しても落ちないかもしれない。
「あいつらめんどくせえ……寄ってたかって人のこと殴りやがって」
「まあ、運が悪いとしか言いようがねえな」
「運、ねえ」
国道で隼人を見つけてからここへ来るまでにそう距離があった訳じゃなかったけれど、その間篠崎と隼人は会話らしい会話を交わさなかった。
俺が篠崎の消えた路地に辿り着いたとき、ブロック塀に寄り掛かって地面に座り、困ったように眉を下げて篠崎を見上げる隼人がいた。俺の頭の中では感動の再会の典型的なシーンが繰り広げられていた訳だけど、妙によそよそしいその雰囲気に、こいつらが兄弟なんだって事を改めて思い知らされた。
ベンチの上、時々お互いの目を合わせては気まずそうに逸らす。それでも隼人は篠崎の手を握りたいのか、さっきから膝の上で開いたり握ったりしている手が右にいったり左にいったり、落ち着かない。
いや、これは俺のほうが落ち着かない。ここは気をきかせるべきなんだろう。
「俺、家帰ってるわ。二人でゆっくり話したら。あとでまた声かけて」
「え……」
「あー、アキラ。お前が居てくれて助かった。色々、ありがとな」
隼人は立ち上がって、俺の方に手を伸ばす。こんなふうに俺には躊躇いもせず手を伸ばせる隼人が何だかおかしくて、笑った。
「なに笑ってんだよ」
「いやいや。ま、会えて良かったな。俺のおかげで」
「はいはい。アキラ様のおかげ様。ありがたい、ありがたい」
そんなことを言いながらわざとらしく手を合わせて頭を下げてみせる隼人に、ベンチに座ったままの篠崎が苦笑いを浮かべる。
「てめ、わざとらしいんだよ。食ったもんぜんぶ吐け!」
「あ、おばさんにも礼言っといて。煮物うまかった」
「おま……! あれ食ったのか! 俺が夕食に食おうと楽しみに取ってたのに!」
「全部食ったぞ。また食いに来るって言っといて」
隼人はそう言って、腹のあたりをぽんぽんと叩いてみせた。なんという事だ。あれは俺の大好物で、しかも気が乗った時にしか作ってもらえないというレアな代物だったのに。思わず本気で頭に来て、隼人の胸ぐらを掴みにかかった。隼人は軽々と俺の腕を掴んで、楽しそうに笑った。
「隼人、僕」
篠崎が、小さな声で呟く。隼人は掴んでいた俺の手を離してから、振り返った。
その次の瞬間だった。
公園の入口に白いセダンが急ブレーキをかけて停まり、中からサラリーマンふうの男が降りてきて、一目散にこっちに向かって走ってきた。ブレーキの音で振り返った隼人はその様子を見て目を丸くして、慌てた様子をみせる。
「やっべ! ちょ、アキラ自転車借りるぞ!」
「え!?」
そう言ったかと思うと隼人は、同じく目を丸くしている篠崎の手を取って、ベンチのすぐ横に停めてあった俺の自転車に跨った。
「ヒロ、早く乗れ!」
「なんでお父さんが」
「いいから早く! アキラ、悪いけど時間稼いで! あいつ足止めして!」
「は!? 意味わかんねえし! 説明しろって!」
「そんなヒマねえよ! じゃあ頼んだぞ!」
隼人は言いながらペダルを漕ぎ出し、目を白黒させている篠崎を後ろに乗せて、ものすごいスピードで公園を出て行った。
ひとり取り残された俺は、状況を把握できずに立ち竦む。なにが、なにがどうなっているんだ。時間稼ぎって。混乱した頭で考える。
篠崎は「お父さん」と言った。と言うことはあの、今走ってきているあのオヤジが篠崎と隼人の父親ってことか。隼人の様子から察するに、どうもあいつは、敵だ。よし。
「こらー! 隼人! ヒロ! 待てっ!」
血相を変えて走るオヤジは既に息も絶え絶えだ。俺はオヤジの前に立ちはだかって、手を左右に広げてみせる。オヤジは荒い息を吐きながら立ち止まって怪訝な顔で俺を見下ろし、無言で首をひねる。俺の脇をすり抜けようとするオヤジの腕を掴んで、その正面に回った。
「……何だ、君は。そこをどきなさい」
「嫌だ。どかない」
「……どうして」
「どうしても。あんたのこと、今行かせる訳にはいかない」
「君に関係ないだろう。君は一体、誰だ」
「あんたに関係ない」
「だったら話は終わりだ」
オヤジはそう吐き捨てて、俺の手を引き剥がす。車に戻ろうと踵を返したその足に、右足を引っ掛けた。オヤジは呻き声をあげて見事に転んだ。その拍子に顔を打ち付けたらしく、唸りながら起き上がった頬にはべったりと砂が貼り付いていた。
「……何のつもりだ、貴様」
「いや、ごめん、ちょっとやりすぎた」
まさかそこまで見事に転ぶとは思わなかった。もう少し受け身とか、あっただろうに。そんな事を考えていたら、オヤジが砂を払ってまた車に向かって走り出した。今車で出ていかれたらすぐに追いついてしまう。
「だから、今だめだって!」
「ぐあっ!」
後ろからタックルをかますと、オヤジはまた転んだ。ついでに俺も転んで、砂の上で掴み合いになってしまった。こんなはずじゃ。
「貴様、いい加減に……!」
「だめって、言ってんだろ! 少しは言うこと聞け!」
「どうして俺が貴様の言うことを聞かなきゃいけないんだ!」
「どうしてって、どうしてもだよ! 今あいつらんとこ行かせる訳にはいかねえんだよっ!」
「だから、どうして……!」
「あんた、あいつらにちゃんと話させたのかよ! 勝手に離れ離れにさせて、こうなることはわかってただろ!」
ざらざらとした砂の上で揉み合いになって、胸ぐらを掴み合う。殴る訳にはいかないから、ひたすら服を引っ張ることしか出来ないけれど。オヤジも手加減しているのか、俺を殴ったりはしない。
俺の言葉を聞いたオヤジは動きを止めて、俺の目を見つめた。眉間に皺が寄る。眉の下がり具合が隼人にそっくりだ。
オヤジは抵抗をやめて、深く長いため息を吐く。そうして、両手で顔を覆って、目を閉じた。
「……あいつらはまだ子どもだ」
「子どもだからって、親の好きなようにしていい訳じゃねえよ」
「子どもの好きなようにさせていたら、何をするかわからん」
「だからってがんじがらめにしていい理由にはならない」
「そんなことをした覚えはない」
「してんだろ、実際」
上半身だけ起こして、力を抜いて寝転んでしまったオヤジのシャツを掴んで見下ろした。オヤジは胸の上で手を組んで、ふん、と、笑ったような呆れたような声を出した。
「……貴様になにがわかる。俺がどんな思いでここへ来たか、何も知らないだろう」
「じゃああんたは篠崎がどんな気持ちでここに居るのか、わかってんのかよ」
「……」
「偉そうなこと言う前に、ちゃんと相手のこと理解しようとする姿勢くらい見せろよ。いい大人だろ」
オヤジは眉間の皺を更に深くして、ゆっくりと上半身を起こした。俺の手を払いのけて立ち上がり、ベンチの側にある水道に向かう。蛇口を捻って、顔を洗った。
「汗拭いたやつだけど、使う?」
「いらん」
汗で湿ったハンカチを差し出したら、ものすごく嫌な顔をされた。それもそうか。
「……心配しなくても、隼人は篠崎を連れて帰ろうなんて思ってねえよ」
「当たり前だ」
このオヤジは、隼人の気持ちを知っているんだろうか。隼人の話によればあまり家には寄り付かなかったらしいけど。
「なあ、訊いていいか?」
「……目上の人間には敬語を使え」
「訊いてもいいですか」
「何だ」
オヤジはベンチに座り、俺を見上げる。少しだけ頬を擦り剝いている。ぷつぷつと小さく血が滲んでいるのが見えた。
「あんたにとって二人は、大事な息子だろ?」
「敬語を……、まあいいか。当たり前のことを聞くな。ただ、隼人は……」
一瞬顔を顰めて、諦めたように視線を落とす。隼人は、と言ったきり黙り込んで、背中を丸めた。それからゆっくりと息を吸い込んで、一度吐き出す。そうして、ようやく口を開いた。
「隼人は……、大事な息子には違いない。それは本当だ。だけど、離れている時間が長すぎた」
わかってやりたいけれど、どう接していいのかもわからないままだった。そう言って、長いため息を吐いた。それから胸ポケットを一度叩いてから辺りをきょろきょろと見回し、なにかを見つけて立ち上がった。視線の先に、煙草の箱が落ちている。拾って差し出したら、すまん、と小さく呟いた。
ライターを取り出して煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吸い込んで吐き出した。吹く風に、一瞬で煙が散って行く。
「夫婦のことはさ、仕方ないと思うよ。だけど、親子だろ。生きてて、話が出来て、何処に居るかもわかってて。それで解り合おうとしないのは間違ってると思う。最終的に解り合えるかどうかは別として、努力はしなきゃだめだろ」
オヤジは苦虫を噛み潰したような顔で俺を見上げて、それから仕方なく笑った。フィルターぎりぎりまで煙草を吸い終えると、地面で火を消してから水道の水をかけた。吸い殻を持ったままもう一度ベンチに座り、俺を見上げた。砂が絡まったままの髪が、風に揺れる。
「子どもが生意気な事を言うんじゃない。お前がどんなふうに生きてきたのかは知らんが、自分の経験で得たものだけが正しいと思うなよ。ほかにも正解はある。そしてそのどれもが、少しずつ間違っているんだ」
オヤジはそう言うとゆっくりと立ち上がって、車に向かって歩き出した。
「あいつらのこと、捜すの」
背中に向かってそう問いかけたら、オヤジは首を小さく横に振った。
「気が済んだら戻ってくるだろう。……まだ、子どもだ」
今頃二人はどの辺りだろう。空を見上げたら、白い雲の浮かぶ青空のむこうに、薄い灰色の雲が迫っているのが見えた。




