車輪の音・13
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「はい、住所と名前と。電話番号もね。あと、学校名書いて。親御さんには連絡するよ」
「黙秘権ないんすか」
「君ねえ」
警察署の事務所の奥、保健室で見るような布製の仕切りに隔てられた小さなスペースに俺は居た。エアコンが程良く効いている。壁にかけられた何の飾り気もない時計の針は、午後十二時半を指していた。
細目とその子分たちにやられた傷は婦人警官が丁寧に手当してくれた。顔も腕も足も、包帯や絆創膏だらけだ。こういうのは何て言うんだっけ。ああ、満身創痍、か。
若い警官は俺をぎろりと睨んでから、手にしたボールペンの先を机に刺さるくらいの勢いで突き立てた。
「……書きゃいいんでしょ。あ、個人情報保護法は適用され」
「いいから黙って書け!」
「すんませんした」
一瞬、嘘の住所と名前を書こうかとも考えたけれど、後が怖いからやめておこう。ようやく俺が書き終えた調書を面倒くさそうに指先だけで摘んだ警官は顔を傾け、俺の名前を見て眉を顰めた。
「お前ずいぶん遠くから……、篠崎、隼人。篠崎……」
警官はぶつぶつと呟きながら立ち上がり、小さな引き出しをいくつか引き出しては閉めてを繰り返し、やがて一枚の紙を取り出した。俺の書いた調書と照らしあわせて、んん? と、顰めていた眉を更に顰めた。眉間の溝が深くなる。
「おかしいな。お前、昨日家に帰った事になってるぞ」
「は?」
「捜索願いが出されていたんだが、取り下げられている。なんだこりゃ」
そう言われて、智也の顔が浮かぶ。智也は、智也の母親が捜しているのは自分だけだと言っていた。あいつ、俺も纏めて捜索願いを出されているのを知っていて、取り下げてもらうために帰ったのか。あいつはそんな事ひとことも言わなかった。あいつらしいと言えばあいつらしいけれど。
帰ったら、ラーメンくらいおごってやろう。まあ結局こうして無駄にしてしまった訳だけれど。
「何でしょ。俺わかんないっす。てか、もういいっすか? 書いたし」
そもそも、どうして被害者の俺がこんなもんを書かなきゃいけないんだ。あいつらただの勝ち逃げじゃないか。今度会ったらただじゃすまないぞ。
「ばか言うな。これから親御さんに来て頂いて、お前を引き取ってもらうんだ」
「ええ……父さん……? うっわ、めんどくさ」
「親御さんの連絡先くらいわかるだろう。ほら、書いて!」
空欄になっていた保護者の連絡先の欄を、指で示される。渋っていたら、またボールペンの先を机に突き立てる音が響いた。これって、恐喝には当たらないんだろうか。
それから二時間ほど待たされてようやく事務所に入ってきた父は俺の姿を見るなり眉を顰め、警官に深く頭を下げた。
「うちのばか息子がご迷惑をおかけして申し訳ありません!」
「ちょ、違うって」
「まあまあ、お父さん。この子は被害者なんですよ。一方的にやられたんです」
さっきまで俺を鬼のような形相で睨んでいた警官が、一転して菩薩のような顔で父と俺を見て微笑む。すごい演技力だ。こんなものを見せられたら、他人の笑顔を信じられなくなりそうだ。
父は警官の言葉を聞いても俺に謝る事はせず、もう一度警官に頭を下げた。
警察署の前にある小さな駐車場で車に乗り込んだ父は、俺に助手席に乗るように促した。
入道雲をちぎって散らしたような雲が浮かぶ空に、飛行機雲。通りから吹き付ける熱い風で、息苦しさを覚えた。
助手席に乗り込んだ俺に、父は長いため息を吐いて一瞥をくれる。エンジンをかけてから煙草に火を点けて、窓を開けた。
「どうしてここへ来た」
喋りながら煙がハンドルにぶつかって広がる。たまらず助手席側の窓を開けて、わざとらしく咳をしてみせた。
「どうしてここへ来たのか聞いてるんだ。答えろ」
「あんたに関係ねえだろ」
「隼人!」
答えろと言ったから答えたのに、胸ぐらを掴まれた。父は、こんなに血の気の多い人だったのか。改めて、父のことをよく知らないという事実を突きつけられた気がした。
「お前はまだ子どもだ。親の都合に振り回される事に不満を抱くのは間違ってる」
「何だよそれ。俺もヒロも、あんたの飼い犬かなんか?」
「そういう事を言ってるんじゃない」
じゃあどういう事を言っているんだ、と口に出す前に父は俺から手を放し、アクセルを踏んで警察署の敷地を出た。
父は大袈裟なため息を吐いて、煙草を灰皿にねじ込む。エアコンのスイッチを入れてから、両側の窓を閉めた。途端に閉塞感で満たされた車の中、残った煙草の臭いが鼻についた。気分が悪くなりそうで、助手席の窓を少しだけ開けた。風の音と熱気が、滝のように流れこんでくる。
車は赤信号で止まって、サイドミラーに、歩道のアスファルトに揺れる陽炎がうつった。
「あんたさ、自分が他に家族まで作っといて、なんで母さんを許せねえんだよ。自分勝手だろ、そんなの。お互い様って言葉知らねえのかよ」
「うるさい。お前にはわからんだろうがな、大人には大人の事情ってもんがあるんだ」
「……わかりたくもねえよ」
「隼人」
斜め前に見える歩行者用の信号が、点滅する。ドアの取手に手をかけて、父を睨んだ。父は目を丸くして、俺の腕を引っ張ろうと手を伸ばす。その手を思いきり引っ叩いて助手席のドアを開けた。ひとつ前の車のブレーキランプが消える。
「俺はあんたを父親だと思ったことなんて一度だってねえよ!」
「隼人!」
車から降りて勢い良くドアを閉め、父の車の進行方向とは反対に、走る。サンダルが脱げそうになって、変な走り方になってしまう。一瞬サンダルなんか脱いでしまおうかと思ったけれど、夏の日射しに灼けたアスファルトは熱した鉄板のように熱い。諦めて、ぺたぺたと間の抜けた音をたてながら走れる所まで走った。汗が、滝のように流れる。体が重い。足が、痛い。
――そうだ、こんなふうに。
こんなふうに、無理にでも途中で引き返す事は出来たはずだ。チャンスはいくらでもある。だけどヒロは、戻らなかった。
そうだ、戻らなかったんだ。
全身を重い絶望感が包む。もしかしたらヒロは、望んで俺の前からいなくなったのかもしれない。今更過ぎるけれど、そんな事を思ってしまった。思ってしまって、突然足元が覚束なくなった。
昨日は優しく俺を受け入れてくれているように見えた長野の街並みが、急に他人然として俺を拒んでいるように見える。国道を走る車の見慣れないナンバープレートも、フロントガラスに跳ね返る刺すような陽も、みんな。
ぐらぐらと視界が揺れた気がして、小さな路地に入って高いブロック塀に寄り掛かった。心臓の鼓動と荒い呼吸音が頭の中で響く。乾いた地面に汗が落ちて、一瞬で消えた。
このまま帰ってしまおうかとも考えた。けれど、鞄はアキラの家に置いてきたし、財布も公園で落とした。電車に乗る事も出来ない。ポケットを探ったら指先に、かたい携帯の感触があった。
「あ……」
立ち止まって携帯を引っ張り出し、開く。その途端にけたたましい音が鳴り響いて、心臓が口から飛び出るんじゃないかとわりと本気で思ってしまって、片手で口を押さえた。
ディスプレイに表示された名前を見て更に心臓が跳ねる。電話の相手はヒロだった。どうしてヒロが。ヒロの携帯は俺の鞄の中にあって、鞄はアキラの家にあって。
「あ、そうか。アキラが」
きっとアキラが行方のわからなくなった俺の鞄を、連れてきたヒロと一緒に開けて見たんだ。それで、ヒロはその携帯から俺に。
通話ボタンをすぐに押せばいいのに、躊躇う。もし、ヒロが俺から離れたくて自分の意志でここに居るんだとしたら、俺はヒロになにを言えばいいんだろう。ここまで来ておいてこんな気持ちになるなんて思いもよらなかった。
ただひたすら真っ直ぐに、ヒロに会いたかった。けど。
「……っ」
躊躇っているうちに着信音は鳴り止み、辺りに行き交う車のエンジン音やクラクション、それからどこからか聞こえてくる電車の音や街の喧騒がかたまりになって耳に届いた。