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水の音  作者: さくら
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春の音・4

  



 胃が重い。いや、気分が重いのか。

 薄水色のカーテンの隙間から、ぼんやりとした空がのぞく。小一の頃から使っているパイプベッドはスプリングなんかなくて、ゆっくり体を起こしてもみしみしと壊れそうな音をたてる。のそのそと布団を抜けだして、昨晩のうちに母が乾かしてハンガーにかけておいてくれた制服に袖を通す。床の隅に放り投げたかばんを拾い上げて、荷物の確認。昨日の雨で早速曲がってしまったノートの端を気休め程度に撫でてから、詰め込んだ。


「あらおはよう、隼人。お父さんもう会社行ったわよ」


 椅子に座ると母は、いつものように用意した朝食を俺の前に並べる。いつも通りだ。いつもの朝みたいだ。もしかしたら昨日のあれは、夢だったのか?


「おはよう」


 あっけに取られながら向かいの席に座った母をよく見ると、瞼が赤く腫れていた。やっぱり夢じゃない。

 あれから父とふたりでどんな話しをしたのか、俺にはわからない。そしてやっぱり、どんなふうに考えたらいいのか、どんな感情を持てばいいのか、わからないでいた。


「早く食べないと冷めるわよ。あ、牛乳いる?」

「……いる」


 はいはい、と言いながら席を立ち冷蔵庫に向かう母。母の動きにつられて視線を動かすと、サイドボードの上の、位置がずれたままの写真立てが目に止まる。けれど母は、昨日の事なんかなかったことのように、いつも通りだ。


「あー、もうちょっとしかないわ。帰りに買ってきてくれる?」

「あー、うん」

「でねえ、ヒロ君って言うんだって」

「は? ひろ……? なにが?」


 牛乳パックを逆さまにしてコップにコンコンとあてながら、母はそう言った。何の話が始まったのかさっぱりわからず、聞き返す。母は牛乳が半分ほど入ったコップを俺に手渡しながら、あはは、とわらった。


「今日からうちに住むからね。優しくしてあげてね。十歳っていったら、小学校の五年生かなあ」

「ちょ、ちょっと、ちょっと待てって」

「だって子どもに罪はないじゃない?」


 母の、昨夜とは打って変わって妙に明るく振舞うその態度に違和感を覚える。だけどこんなふうに何かを決意してしまった母には、逆らえないことは経験上よく知っている。一度気持ちを固めてしまった母は、誰が何と言おうと岩のように動かない。その性格が災いして今のこの状況を招いたとも言えるんだけれども。

 祖母をホームに入れて父について行けと指示した義母や義姉の言うことを素直に聞いておけば、少なくともこんな状況にはならなかったはずだ。今更そのことについてどう思ったからって、後の祭りではあるけれど。


「隣の部屋、片付けておくから」

「……あー……、俺の荷物も結構置いてる。適当に俺の部屋に運んどいて」

「はいはい。ついでに隼人の部屋も掃除しとくね」

「いいって。自分でやるから」

「なによ、エッチな本でも隠してるの?」

「は!? ねえよ! そんなん、見たことねえし!」


 母はにやにやしながら視線をななめ上に動かし、壁掛けの時計を見る。わざとらしいくらいに目を丸くして、あら!と声をあげた。


「ほら、時間、時間。急がなくていいの?」

「えっ」


 時計に目をやって、慌てて立ち上がったらコップを倒した。僅かに残った牛乳がとろりと溢れ、生成のランチョンマットに丸いしみをつくった。



 

 教室の窓ガラスの向こうに広がる空はやっぱり靄がかって、ぼんやりとしている。グラウンドの隅にある銀杏のてっぺんが揺れて、真っ黒なカラスがばさばさと飛び立った。巣でもあるんだろうか。カラスは卵から孵った雛が自分の子どもじゃなくても育てるんだっけ。いや、あれはカッコウだったか? 何にせよ、母の”ヒロ”の面倒を見るという決意は揺るがない。自分の生んだこどもでなくとも、愛情はうまれるものなんだろうか。


 ずっと一人だと思っていた俺に、片親とはいえ血の繋がりがある弟ができる。仲良くしてね、と母は言ったけど、ヒロは俺を兄貴だと思ってくれるんだろうか。俺を憎んではいないだろうか。次々とわきあがる疑問符に内心閉口して、思わず短いため息がでた。

 出掛けに母は、「ヒロくんは、私たちの事を知らなかったの。お母さんが亡くなってはじめて、お父さんに、私と隼人が居るってことを聞いたの。だからすこし難しいかもしれないけど……」そう言って眉を下げたのだった。思い出してまた、ため息がでた。

 子どもに罪はない。あっけらかんとそう言ってのけた母は、自分や父には罪がある、とそう言いたいんだろうか。誰かに頼りたいと願い、自分以外の人間が傷つくことはわかっていても、ほんの少しの温もりを求めてしまう事が罪だと言うのなら、母のしたことは罪になるんだろうか。  


「篠崎」

「!!」

 

 片手で教科書を広げ威圧的な態度で教壇に立つ数学教師の岩尾が、俺の名前を呼んでじろりと睨む。条件反射で立ち上がったら、椅子ががたんと派手な音をたてて倒れた。後ろでコウが「うおっ」と小さな声をあげる。教室中の目という目が俺に向けられた。視線が痛い。そっと椅子を立てなおしてから、恐る恐る前に向き直った。


「篠崎。春だなあ」


 岩尾はそう言って、いかにも眩しそうに目を細め、窓の外を見る。気持ちの悪いほど大きな目が弓型に引き上げられて、そのままゆっくりとこちらに向き直った。


「はぁ」


 間の抜けた返事を返すと、弓型はぎゅっと押し広げられ、その大きさの割には面積の少ない黒目がぎらりと光った。


「春はとにかくぼーーっとしたくなる。ため息もでる。わかるぞ。わかるけどな、もうすぐ実力テストがあるんだぞ? お前が数学で満点をとれるというのなら俺はなにも言わない。だが、お前にその自信があるのか?」

「そんなもん……ないですけど」


 数学は苦手だ。いや、数学といわず英語だってなんだって、得意な教科なんて生まれてこの方存在したことがない。正直に「ない」と言ったのに、岩尾は俺の正直さを一ミリも評価する気配を見せずに呆れかえった表情で俺を見下ろし、そしてにやりと笑った。不気味な笑みだ。


「篠崎。そんなもん、とは何だ、そんなもんとは。お前は将来の夢はないのか?」

  

 そんなもんとは、と言いながら俺に「座れ」と顎で指示して黒板の前に回り、黒板に大きくチョークで「夢」と書いた。岩尾の後頭部、丸刈りに近い頭髪の下で段になった首元がぐねぐねと曲がる。

 一体なにがはじまるんだ。クラスのあちこちからひそひそと声が聞こえる。アツいよね、とか、うざい、とか。


「篠崎、お前の夢はなんだ。何になりたい」

「え。や、そういうのまだ全然っす」

「ははぁ。まだ!」

「え、はい」


 だってまだ中一だし。と続けようとする俺に、岩尾は更に呆れたような視線を投げかけた。思わず、ぐっ、と息を飲む。


「それじゃ、中原! 中原淳一」

「はい」


 淳が呼ばれた。淳は音もたてずに立ち上がり姿勢を正した。


「中原、将来の夢はあるか」

「はい。医者になります」

「ええっ」


 思わず声が出て、岩尾に睨まれた。コウが後ろから指先で背中をつついて、耳打ちする。


「淳とこな、両親が病院経営してんだよ。岩尾あいつ、ぜってー知ってて淳あてたんだよ」

「マジっすか」


 教室がざわつく。そうだ、当然の反応だろう。岩尾は満足気に二度大きく頷いてから、淳に、手で「座れ」と指示した。


「なぁ、篠崎。将来の夢というものを持つのは、早すぎるなんて事はないぞ」

「いや、でも」

「どんな場合でも!」


 教卓を、両手のひらで叩いて大きな音が響く。ざわついていた教室が一瞬でしんとなった。


「いつなんどき夢がうまれるか、それは誰にもわからん。その、来るべきときの為に、日々の努力を怠ってはならんのだ。わかるか? 篠崎」


 なんで今名指しなんだよ、と内心嘯きながら、渋々頷いた。





「あいつ、やり方が気に入らねぇ」


 昼休み、机の上で広げた携帯のパンフレットを三人で囲む。コウは隅に書かれた異様なまでに縮小された文字に目を細めて見入っている。


「岩尾先生はああいう人だよね。まあ、熱心っていうか、熱心にみえるであろう自分を事あるごとに再確認して悦に入るタイプだよね」


 淳は腕組みをして、自分の意見に納得するように、うん、うんと頷く。なんだその中学生らしからぬ細かい分析は。 呆気に取られて淳の顔を見つめていたら、淳はいかにも不思議そうに首を傾げてみせた。


「つかお前ほんとに医者になんの?」

「さあね。今のところはそのつもりだけど」

「え、今のところは?」

「そう」


 淳はこともなげにさらりとそう言ってのけて、机の上のパンフレットを飾る今はやりの女優を指さして「この子可愛いよねえ」なんて言ってわらう。


「淳とこはさ、母ちゃんも父ちゃんも、将来は淳に自由に選ばせたいって言ってんだよ」


 コウはそう言って、大きく伸びをした。

 チャイムが鳴った。廊下に出ていたクラスメイトたちがだるそうに教室に戻る。淳は俺に軽く手をあげて、自分の机に戻った。


「コウは?」


 椅子に横座りしてパンフレットをかばんに戻しながらそう言ったら、コウは「俺?」とじぶんを指さす。


「俺はそうだなあ。はっきりとは決めてねえけど、会社とか興せたらいいなあ」

「へえっ」


 変な声がでた。コウは一瞬きょとんとして、苦笑いしてみせた。

 こうなってくるとクラスの全員がなにかしらの将来の目標を持っているように見えてくる。まだなにも決められないのは俺だけか。妙な焦りがおなかの底からわきあがって、背中がひやりとした。



 大人になるなんてまだ先のことだと思っていた。大人になるということは、母や、父と同じステージに立つということに他ならない。

 俺は父や母と同じように、大切な誰かを裏切ってまで自分の欲しいものを手に入れるんだろうか。父や母と同じ道をゆくとは限らないけれど、自分にもその血が流れているということはもうわかりきったことで、この先何年たとうがそれは変わらない事実で。

 

 俺はたった一人の誰かを最後まで愛せるんだろうか。たった一人の誰かを死ぬまで大切にして、それで自分も幸せだと思うことが出来るんだろうか。考えても仕方のない疑問がまた浮かんできて、英語の教科書を出すのも忘れて悶々と頭を抱えた。



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