車輪の音・9
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夜も更けて、仕事帰りの父がスーパーの惣菜を買い物袋いっぱいに詰めて帰ってきた。玄関をあけて家に入るなり大きなため息を吐いて、たった今風呂掃除を終えて部屋に戻ろうとした僕の顔を見て曖昧にわらって、ただいま、と呟いた。
「お帰り。仕事、忙しいの」
「いや、そんなことはない。ただ、なんだかな」
家に入ってすぐの四畳半の和室。ちゃぶ台の上に袋を置いて、中から半額シールの貼られた惣菜を取り出し並べながら、苦笑いを浮かべた。
「こういうものを食うのも、買うのも何だか気持ちが荒むな」
そう言ってから、手を洗ってこいと僕に声をかける。正直まだお腹が空いている訳じゃなかったけれど、頷いてキッチンに向かった。
冷蔵庫もガスコンロもない、まるで生活感のないキッチン。薄暗い電灯をつけて錆びた蛇口を捻ると、いくつもの細かい気泡を含んだ水がまっすぐに落ちてきた。鈍い銀色のシンクに放射状に広がって、細かい傷に引っかかりながらまるい排水口に吸い込まれてゆく。
次の休みには家電も揃える予定だと父は言っていた。そうなれば、ここで簡単な調理くらいは出来るようになる。料理がうまい訳じゃないけれど母の手伝いもしていたし、時々は涼子さんに料理を教えてもらっていた。真似事くらいは出来るかもしれない。
ほんの少し前に隼人とふたり、キッチンで大騒ぎしながら料理を作ったことを思い出す。あの日の隼人は朝からやけに機嫌が良くて、始終笑っていた。それで僕も、何だか嬉しくてずっと笑っていられた。それから海に行って。
不意に、夕暮れの浜辺で抱きしめられた温度が背中に蘇った。心臓が、両手で包まれたようにやんわりと苦しくなる。シャツの胸のあたりを掴んで、目を閉じた。
隼人は、迷っていたんだ。全寮制の高校に進むか、家に残るか。それで、きっとたくさん考えることがあって、ぐちゃぐちゃになって。だから僕にでも抱きついて落ち着こうなんて、思ったのかもしれない。あれは多分小さな子どもが大きなぬいぐるみを抱きしめて安心するのと、同じようなものなんだ。きっと。
「ヒロ。なにやってるんだ」
「え! あ、はい。今行く」
キッチンの入り口で父が不思議そうな顔をして突っ立っていた。いつから居たんだ。跳ね上がった心臓をこんどは手のひらで押さえて深呼吸しながら、手を洗い終えた父についてキッチンを出た。
「学校、どうだ」
惣菜の卵焼きを一口食べて「甘い!」と文句を言った父は、それを強引に僕の皿に乗せた。僕も甘い卵焼きは苦手だ。割り箸で挟んで父の皿に戻すと、父は小さくため息を吐いた。
「うん、まあ普通だよ」
「普通って。前の学校に比べて、どんな感じだ」
どんな感じと言われても。それに、前の学校、という言い方にまだ違和感がある。しかめっ面を作って首を傾げてみたら、父は、まあいいか、と呟いてからサラダを口に運んだ。
半分だけ網戸にした掃き出し窓から、雨の音が聞こえる。家の前を通り過ぎる車の水を跳ねる音が、近付いては遠ざかる。
「ねえ」
「なんだ」
「涼子さんとやり直す気はないの」
僕は涼子さんを母とは呼べなかった。だからといって涼子さんを嫌いな訳ではなかったし、どんなかたちであれ両親が揃っているという環境は有難いと思っていた。片親は世間的にも面倒なことが多い。
「ヒロ、お前にもな」
父は箸を置いて、あぐらをかいた膝に手を置いて僕を見据える。ここ二、三日でずいぶんと老け込んだように見える目元が、きゅっ、と引き締まった。
「お前にもいつかわかる時が来る。今はまだ、きっと父さんがなにを言ってもわかっては貰えないと思う。だけど、それでいい」
「わかるかもしれないじゃない。なんで、わかってもらおうとしないんだよ」
「いや、今わかってもらっちゃ困る。今は、父さんが悪者でいい。憎んでもいい」
なにを勝手なことを、と思った。親を憎まなきゃいけない子どもなんて、やってられない。そんなの情操教育に向かないとは思わないんだろうか。
「その言い方だと、お父さんは自分が悪くないと思ってるんでしょ。だったら誤解を解く努力なんかしたっていいんじゃないかな。好きで親を悪者にしたい子どもはいないよ」
父は少しだけ目を見開いて、そのまま眉を下げた。そうして、なにかを諦めたようにため息を吐きながら、笑った。
「ヒロは本当に、沙智によく似てるな」
「誤魔化さないでよ。今そういう話じゃないって」
「いや、そういう話だよ。沙智もきっと今のヒロみたいに、父さんを叱り飛ばすんじゃないかな」
煙草の火を点けて、ちゃぶ台の下に置いてあったガラス製の重い灰皿を足元に寄せた。ほそい煙が真っ直ぐに天井に向かって立ち昇る。今日は風がない。
「お前、あの家で幸せだったか?」
「うん」
即答したら、苦笑いが返ってきた。あの家で僕がどれだけ幸せだったかなんて、ちゃんと見ていればきっとわかったはずだ。だけど父はすぐに真面目な顔になって、下から覗き込むようにして僕の顔を見た。じゃあ、と一度口に出して、咳払いをする。
「じゃあどうしていつも、苦しそうな顔をしていた」
「え? 誰が、なんで」
「誰って、ヒロだよ。いつもこう、なにか思いつめたような顔をしていたように見えた」
「そんなことない。絶対、ない」
僕はわらっていたはずだ。隼人の前でいつも、幸せで、楽しくて、だからわらっていた、はずだ。
「そうか。それならいいが、父さんのせいで嫌な思いをさせてしまったんじゃないかと、気が気じゃなくてな。ちゃんと話をしようと思っていたのに、まあ、その機会もなかった」
「嫌な思いって……それ今でしょ。僕はあの家に居たかった。ここへは、お父さん一人で来れば良かったんだ」
嫌な言い方をしたと思った。だけど結局のところそれが本音だった。僕のことは気にせず一人で出ていってくれれば、隼人と離れてしまう事にもならなかった。
「それはお前、お前が……アウェイというか、なあ」
「なにがアウェイだよ。僕にとってはホームだったんだよ。アウェイなのはお父さんだけでしょ」
「……きついな」
「……ごめんなさい。言い過ぎた」
「いや、その通りだ。本当に、すまなかった」
父はそう言って、煙草を持ったまますこし、頭を下げた。何だかいたたまれなくなって、お風呂に入ってくると言い残して部屋を出た。
まるで小さな子どもみたいだと思った。僕は確かにまだ中学生だけれど、母を早くに亡くしたこともあって、いっぱしの大人だと自分で思い込んでしまうふしがある。だから時々、自分の中の子どもの部分があんなふうに顔を出して、戸惑う。
父に謝って欲しい訳じゃあなかった。ただ、元通りになればいいと、そう思っていただけだった。またあの家で、隼人とふたりでわらっていたかった。おなじ景色を見て、おなじ歌をうたって。そんなふうに、過ごしていたかった。
父を傷つけたいわけでも、誰かに迷惑をかけることがわかっていてわがままを言ってしまいたいわけでも、なかった。
わからない。僕はなにを望んでいたんだろう。そして今、なにを望んでいるんだろう。
わかるのはただ、隼人に会いたい。今、名前を呼んでいつものように髪を撫でて欲しい。それだけだった。
僕には、先のことを考える余裕なんてない。
だけど。だけど今もしあの家に帰ったとして、僕はこの気持ちを隼人に押し付けずにいられるんだろうか。隼人は優しいからきっと嫌な顔はしないだろう。僕をまた抱きしめて、笑うんだろう。
そうして困ったように目をそらして、僕から離れようと――。
はっとして顔を上げたら、顎まで浸かっていた湯船のお湯が跳ねた。
そうだ。隼人はあの家を出たがっていた。もしかしたら隼人は僕の気持ちに気づいていて、自然に距離を置こうと、思ったんじゃないのか。
だけど僕はなるべく自分の気持ちを悟られないようにしていたはずだ。綾子さんと出かけたと聞いて嫌な気持ちなっても、隼人と話す時間が短くて寂しくても、なるべく顔に出ないように、態度に出ないようにしていた、はずだ。
だけど、もしかしたら。
考えれば考えるほど想像は嫌な方向に広がって行く。のぼせてしまいそうになってふらふらしながら部屋に戻ると、間に合わせに買ってきた布団の上に一冊のノートが置いてあるのが見えた。
あの時――父に無理矢理連れてこられた時に、咄嗟に掴んでいた隼人のスコアだった。
畳の上に座って、ぱらぱらと捲る。隼人の癖のある字でたくさんのコードや詞が書いてある。
いちばん好きなページを捲って、肩にかけていたタオルを頭から被った。
曲がり角まがったら
手を繋げるかな
見上げた茜空が
やさしく街を包んだ
「Am、Dm、G、Am……」
指でコードのかたちをつくって、弾く真似をしてみる。隼人のやさしい声が、記憶の中でかさなる。学校の体育館の小さなステージの上で、ギターを片手にパイプ椅子に座って歌っていた。
まだ小学生だった僕も昼休みにこっそり学校を抜けだして、文化祭を見に行った。智也が感心したように、あいつ見かけによらずうまいな、なんて言ったのがすごく嬉しかったのを覚えている。
隼人は今頃どうしているんだろう。もし、もし僕の気持ちに気付いていたのならもうきっと、会うことはないんだろう。そう思うと無性に寂しくなって、悔しくなって、視界が滲んだ。
唇を噛み締めたままスコアを布団の下に滑らせて、綿毛布を頭から被った。噛み締めた唇を舐めたらほんの少し、血の味がした。




