車輪の音・2
◆◆◆◆◆
「……お前、なに考えてんだ」
「うるせぇ。隼人だけじゃ見つけらんねぇかもしんねぇだろ」
「そんな訳あるか。お前なんか来ても足手まといなんだよ」
「そんな事言ってあとで泣きつくなよ」
長野行きの列車の中で、何故か隣に座っているのは、智也。
淳と智也、それにコウの三人は俺を見送ろうとホームまで来ていた。
はじめに一緒に行くと言い出したのは淳だった。それなら一緒に、と智也が言い出して、じゃあ自分も行く、とコウまでもが手を上げた。俺は一人で行くと主張するも虚しく、三人は自分が自分がと言い合いをはじめ、じゃんけんで決めようという事になった。結局はじめに言い出した淳が勝って、争いは落ち着いたかに見えた。
淳は電車の中で飲む飲み物を買ってこようと、窓越しに、自販機の前で俺になにがいいかジェスチャーをしてみせた。唇を尖らせる智也を宥めながら、発車のベルを聞いた。
けれど閉まりかけた電車のドアに滑り込んだのは、智也だった。
ホームには腹を殴られうずくまる淳と、転がり落ちたペットボトルが二本。それから、目を白黒させて淳を支えるコウの姿があった。
「淳、腹押さえてたぞ」
「そんな強く殴ったつもりはないぞ。コンタクトでも落ちたんじゃね?」
智也はことも無げにそう言って、ポケットから携帯を取り出してマナーモードに切り替えた。
かわりに俺のポケットの携帯がけたたましく音を立てて、他の乗客に軽く頭を下げながらポケットから取り出し、開いた。やっぱりというか、淳からのメールだった。マナーモードにしてからメールを開く。
――智也がごめん。迷惑かけるね。なにかあったらすぐに連絡ください。
開いたまま智也の目の前に持って行くと、智也は小さく舌打ちしてから自分の携帯を開いてなにかせっせとボタンを押し始めた。
「携帯電話のご使用は他のお客様の御迷惑となりますので」
「うるせえ、すぐ終わる。てかお前が言うな」
耳元でよく耳にする注意事項を囁いてみたら、智也はそう言って顔を顰め、また舌打ちをした。
電車は乗り換えの駅に向かってゆっくりと速度を上げて行く。車内には俺たち二人の他に何組かの乗客が居て、それぞれに本を読んでいたり、小さな子どもをあやしていたりする。
智也は俺の隣で体を捻って、窓の外をぼんやりと見ていた。
四角い窓の向こうで、傾きかけた日射しを受けた建物の窓ガラスがきらきらと光る。ヒロだったらこの景色を見てなんて言うだろう。隣で俺の肩を叩いて街を指差し眩しそうに目を細めるヒロが思い浮かんで、頬が緩む。
ポケットに手を突っ込んで、ヒロにプレゼントするつもりで買ったネックレスを取り出した。
駅に来る前に一度家に戻って、机の奥からこれを持ちだした。電車の時間が迫っていたから着替えることも出来なかったけれど、これだけは持って行こうと思った。
結局ストラップになってしまったあのネックレスとは違って、華奢なデザインのものを選んだ。トップには、小さなリング。石もなにも入っていないシンプルなものだけれど、ヒロにはこういうものが似合う気がした。
誕生日にはまだ早いけれど、渡す機会もなくなってしまうのなら。そう思ってしまって、胸の奥が痛んだ。
「なにそれ。お前っぽくない感じだな」
窓の外を眺めていた智也が振り返ってネックレスを見て首を傾げる。
「これ、ヒロに渡そうと思って」
「ああ、そういう事。あいつ華奢だからなあ。こういうの似合いそう」
「だろ」
なくさないようにネックレスを首に提げて少し笑ってみせたら、智也は一瞬だけ眉を顰めて、それから仕方なく笑った。智也も、きっとわかっている。これが最後のプレゼントになるかもしれないという事。いや、そもそも俺はこれを本当に渡すことが出来るんだろうか。
智也はまた窓の外を見る。遮断機の音が一瞬で通り過ぎた。
もうすぐ乗り換えの駅に着く。智也のぶんの切符を買わないと。
「お前、金持って来てんだろうな」
考えてみたらこいつは入場券しか持っていなかった。あとで精算してもらえと言おうとしてまず、そう声をかけた。けれど智也は眉を顰めて唇を尖らせ、抗議するような目で俺を見上げた。
「持ってるわけねえだろ。俺のぶんはいつも兄貴が出すんだよ」
「は!?」
智也は、なにいってんだよ、と吐き捨ててから、また窓の外に目を移した。
「ちょっと待て。俺、持ってねえぞ。往復でぎりぎりの金しか入ってねえよ」
「……は?」
「は? じゃねえよ、お前どうすんの」
「ふざけんなよ隼人、お前余裕ぶっこいてサクサク乗ってたじゃねえかよ! 持ってるかと思うだろ!」
「人のせいにすんなボケ! おまわりさんこいつ無賃乗車……ぶっ」
手を上げて大声を出そうとしたら両手で口を塞がれて、その勢いで後頭部を窓にぶつけてしまった。痛い。
それにしても自分の金は持たないなんて、くそ生意気なガキだ。いや、もしかすると智也に持たせると際限なく使ってしまうのかもしれない。いつだったか淳と智也を連れて買い物に行ったとき、智也は好きなものを好きなように買っていた。淳はそんな智也に辟易してさいごは不機嫌になっていた。そうか。俺が淳でもこいつに金は持たせたくないかもしれない。
取り敢えず俺の口座にお年玉貯金がいくらか入っていたような気がする。乗り換えの駅で下ろして、こんど三倍くらいにして返してもらおう。
「どうしよう……。兄貴にはあんなことしたから言えないしなあ……」
「そりゃそーだ。どうすんの。この次で降りて帰る?」
「えっ……」
珍しく弱気になった智也が面白くて思わずからかってしまう。いつも俺をばかにして楽しんでいる罰だ。ニヤリと笑ってみせたら、唇を尖らせたまま下を向いて黙り込んでしまった。
ヒロがこれをやると可愛くて仕方ないのに、智也がやっても何とも思わないどころか何だかむかつくのはどうしてなんだろう。
「……貸してやってもいいけど。どっかで金下ろして」
「まじで? それほんと? じゃ貸してもらお! ラッキー」
「……トイチな」
「トイチってなんだ?」
「……」
乗り換えの駅に着いてすぐに、改札口の側にあるATMに向かった。
ちょうど学生たちの下校時間らしく、見慣れない制服の集団があちこちに固まって動いている。
「あの制服かーわいい! スカート超短くねえ?」
機械に向かって慎重に暗証番号を押す俺のすぐ後ろで、智也はばかみたいにはしゃいでいる。さっき見かけた制服姿の女子高生は確かに可愛かった。長い足がやたらと短いスカートから伸びていて、カモシカかと思った。だけど俺の心はそそられない。ヒロのすらりとした足に比べればあんなもの。
「うるせえ。ちょっと黙ってろ。ええと、普通預金……残高照会」
「ブレザーいいなあ。セーラ服も捨てがたいけど、やっぱ、なんて言うかこう……」
「えっ」
タッチパネルの残高照会を押した俺は、絶句した。俺の短い呻き声を聞いた智也は、俺の隣に回って機械を覗き込む。
「こらっ、見んな!」
「うわ……お前マジ? なにこれ。残高二円って……。俺、ひと桁の残高とか初めて見たかも」
「……そうだった……、貯金ぜんぶ下ろしてギター買ったんだった……」
そうだ、ちょっと値の張るギターを買おうと母に泣きついたら、お年玉貯金があったわよね、とあっさり見捨てられたのを思い出した。お年玉でも少し足りなかった分は出してもらって、それは今の小遣いから少しずつ引かれている。再び貯金を始める余裕は、なかった。
「どうすんだよ……。帰る? 帰る分くらいはあるだろ……」
「あるけど、ここまで来といて?」
「そうだよなあ……」
一瞬、歩いてでも行くかと思ったけれど、到底無理だ。一体何日かかる。どうしよう。どうすればいい。頭の中でなにかいい方法がないか、ぐるぐると考えを巡らせるけれどなにも思いつかない。
待合室のベンチに腰掛けて、携帯を開いた。着信履歴をスクロールして最初に見つけたのは淳の名前。だけど出来たら友達に金を借りるような事はしたくない。コウはそもそも金欠だと言っていたし、母に頼るのもなにか癪に障る。そんなことを言っている場合じゃないのはわかっているけれど。
「腹減ったなあ。あ、コンビニ発見! な、パン買うから金ちょーだい」
携帯を持っていないほうの手で智也の頭を思いきりぶっ叩いて、気を取り直してもう一度携帯の画面を見る。ふと目に止まったのは、綾子さんの名前だった。
不器用な笑顔が脳裏に浮かんで、最後に交わしたキスの温度が、唇に灯る。上を向いたらあの日の空が広がっているような気さえした。
愛してた、と囁いた声はまだ耳たぶに引っかかっている気がする。思わず目を閉じ、ゆるゆると心に蘇りかけた心地良い感傷を振り払うように電話帳をスクロールさせた。綾子さんの名前は指一本で瞬く間に遠くへ行ってしまう。その様子に、背中がひやりとした。
このまま帰って何事もなかったように過ごしていればいつか、ヒロと過ごした日々も。ヒロの名前をこうやって指一本でスクロールさせてしまえば、いつか思い出になるんじゃないのか。そうしていつか思い出したときに少しだけ胸に痛みが走る、そんな思い出になって、それだけなんじゃないのか。
俺は、何をしようとしているんだ。
考えれば考えるほど冷静になって行く。落とした視線の上はんぶん、たくさんの靴が行き交う。それぞれに現実を見てなにかを諦め、なにかに妥協して、そうして生きている。
そんなふうに思えて来ると、どこか心の中に大きな隙間ができたように感じる。それはきっとヒロと俺の距離でもあって、俺はその隙間をなにか他のもので埋める事が出来てしまうんじゃないかと思えてきた。
本当はそういう事なのかも、しれない。
瞬く間に足の力が抜けていく。俺はこのまま引き返すのか。帰って、やっぱりやめといた、と笑って。智也も淳も、仕方ない事だと笑ってくれる。コウだって心のどこかでほっとするんだ。やっぱりこんなの間違ってたんだよ、って。
ヒロだってそのうちに俺と過ごしていた事なんか忘れてしまって、いつか大人になった時に、妙に甘やかされて過ごしたこんな日々があった事を思い出して、苦笑いをするのかもしれない。
――それでいいのかも、しれない。
その時ふと、駅の喧騒のなかに聴き覚えのある音を聴いた気がして顔を上げた。
行き交う大勢の人の群れがたてる足音と、ひとかたまりになったざわめき。その向こうにロータリーの車のエンジン音やドアを開け閉めする音。その間を縫うように聴こえてきたそのメロディーに、ヒロの真っ赤になって拗ねたように俺を見上げた顔と、はじめて公園で見たヒロの真っ直ぐに前を見つめていたまだあどけない横顔が脳裏にはっきりと浮かんだ。
ヒロがあの時反対していれば一緒に暮らす事にはならなかった。
――ヒロは承諾してくれた。一緒に暮らし始めて少しして、はじめてちゃんと話した時に父はそう言った。ヒロは向こうに残りたかったんじゃないのかと父に尋ねたんだ。そうしたら父はすこし困ったように笑って。ヒロが反対すれば別の道もあった。そう付け加えて、申し訳なさそうに母の顔を見たんだ。
ヒロはあの時、決意したんだ。遠い場所で過ごしたやわらかな日々を過去にして、新しい家で暮らして行くことを。そうして俺たちは出会った。
そうだ、あの時きっとなにかが動き出していたんだ。
まだ、終わってなんかいない。
終わらせない。
意を決して通話ボタンを押すと、一度だけ鳴った呼び出し音。すぐに聞き慣れた声が耳に届いた。
『隼人?』
「あの、俺だけど。ちょっと金貸してくんない?」
『なにそれ、オレオレ詐欺? ちょっとその手口は古くないかしら』
「や、古いとか新しいとかじゃなくてさ」
昨日の今日で、何も言わずに飛び出した手前気まずさは拭えない。変に緊張して、声が強張る。
「仕事、終わったの」
『ちょうど今帰ってきたとこよ。ほっぺた、どうしたのっていろんな人に訊かれちゃった』
「昨日……、ごめん。何も言わないで出てって。コウん家泊まったから」
『知ってるわよ。コウ君のお母様から電話があってね。心配しないでくださいって。私が言うことじゃないかもしれないけど、あんまり人様に迷惑かけちゃだめよ』
「……わかってるよ。だからその、母さんになら迷惑かけてもいいかなって……」
電話の向こうで、母が小さく笑う。泣いているようにも聞こえた。すん、と鼻をすする音が聞こえて、喉の奥の辺りがぎゅっと詰まった気がした。
リビングのソファーで小さくなって背中を丸めて携帯を握り締める母が脳裏に浮かんで、胸が締め付けられる。ごめん、と心のなかで呟いて、ゆっくりと息を吐き出した。
『ヒロ君に会いに行くんでしょ。気をつけるのよ。お母さんなにも言ってあげられないけど』
「なんでわかるの」
『ばかねえ。あんたの考えてる事なんか筒抜けなのよ』
「筒抜け……って」
筒抜けというのは、どこまで筒抜けということなんだろう。まさか俺のヒロに対する気持ちまでも筒抜けだったとしたら。
背中がひやりと冷たくなって、遠ざかっていた駅の構内の喧騒が一気に耳に入ってきた。
目を白黒させている俺の隣で、智也は携帯を弄り倒している。余裕ぶっこきやがって、このガキ。
『筒抜けは筒抜けよ。お母さん立場的に応援はしてあげられないけど、隼人には幸せになって欲しいと思ってるのよ』
「うわ……。俺そんなわかりやすいのか……」
考えてみたらコウにも淳にも智也にも、まあ積極的に隠していたつもりもなかったとはいえ、筒抜けだった。という事はもしかするとヒロにも。いや、それはないか。あいつは自分の事となると極端に鈍い。
『もちろんヒロ君にも幸せになって欲しいと思ってる。最後までお母さんって呼んでもらえなかったけどね』
「……それは、たぶん母さんのせいじゃなくて」
『いいのよ。脳内変換してたから平気』
はじめのうちヒロに「涼子さん」と呼ばれる度に複雑な顔をしていた母を思い出す。そう言えば最近はそう呼ばれても平気な顔をしていたような気がする。頭の中で「お母さん」に頑張って変換している母を想像して何だかおかしくなって笑った。
『笑わないでよ。そうでもしなきゃ、やってらんないわよ』
「ごめんごめん」
『よし。あんたの口座に振り込んどいたからね。むこう三年分のお年玉』
「さ、三年分」
『じゃあ、ヒロ君に会えたらよろしく伝えてねー』
携帯からはすぐに不通音が聞こえて、ため息を吐きながら携帯を閉じた。
「三年分……」
「お金、何とかなったんだろ?良かった、良かった」
落ち込む俺の肩に手を置いた智也が、そう言ってにこにこと善人ぶった笑みを浮かべる。なんだそれは。そもそもこいつのせいで計画が大幅に狂ったって言うのに、どこからその笑いが出てくるんだ。
「トイチじゃねえ。トゴだ。一日でも遅れたらお前の耳ひっぺがしてやる!」
なるべくドスの効いた声を出しながら智也の両耳を掴んで上に引っ張りあげたら、智也は、トゴってなんだよ、と楽しそうに言った。
「耳は揃えるもんで、引っ張るもんじゃねえだろ」
「うるせえよ。だいたいお前が無理について来なきゃこんな事にならなかったんだよ!」
早速お金を下ろして智也のぶんの切符を買って、駅にあるコンビニで智也のパンと飲み物を買ってから改札を通り、ホームに向かう。本気でむかついてはいたけれど、ちょっと冷たい言い方をしてしまったかもしれない。気になって智也を振り返ると、案の定肩を落としてつま先を見つめながら歩いていた。しまった。
「あー……、違う、そうじゃなくて。いいんだよ、でも」
「そうだよな……。俺のわがままだもんな。なのに俺すげえ偉そうな態度で、ほんとに……」
「そりゃ、そりゃ偉そうだけどそれはほら、お前はほら、俺の為を思ってついてきてくれたんだろ?だから」
そこまで言った所で智也は嬉々として顔を上げ、満面の笑みでさっさと俺の前を歩いて行った。
「……糞ガキ!」
吐き捨てたら、智也が振り返って楽しそうに笑った。




