春の音・3
家の玄関を開けると、ちょうどリビングから出てきた母と出くわした。ずぶ濡れの俺を見て苦笑いして、玄関のすぐ脇にある洗面所からタオルを持ってきて俺の頭をぐしゃぐしゃと拭く。
「ちょ、痛い」
「なんで傘持って行かないのよ。今朝天気予報で雨降るって言ってたじゃない」
「見てねえもん。つか、シャワー浴びていい?」
「ご自由に。もうすぐお父さん帰るって」
「……ふうん」
”お父さん”と言っても、物心ついた頃にはもう家に居なかった。年に数えるほどしか家に帰らない父を、俺はずっと親戚のおじさんか何かだと思っていた。母はそれじゃいけない、と、俺に父の写真を見せては、お父さんだよ、と繰り返し教えた。何度顔を合わせてもちっとも懐かない俺に、父ははたして愛情を抱けたんだろうか。
シャワーに頭から潜りこむと、暖かさがじんわりと身体中に広がる。飛沫が浴室の床に落ちる音で、公園に降る雨と少年の歌声が脳裏に甦った。常緑樹の葉にさらさらと落ちる雨。そこに少年の優しい声がふわりと乗って、灰色の空に吸い込まれていくようだった。歌い終えた少年の横顔はなにかを思いつめたように苦しげで、真一文字に結んだ唇は、その意志の強さを窺わせていた。……ような気がする。
ついさっきの事なのに、一秒ごとに曖昧になってゆく記憶が妙に腹立たしい。
浴室を出る頃には既に、少年の歌声と、去ってゆく後ろ姿くらいしかはっきりと思い出せなくなっていた。
頭からタオルを被って水滴を滴らせながらリビングへ向かうと、ドアの向こうから父の声が聞こえた。続いて母の、これまでに聞いたことがないようなヒステリックな声。
ノブに運びかけた手が止まる。冷たい水滴が頬をつたって、裸足の足の甲にぽたりと落ちた。はっとして視線を下ろしたとき、父の「涼子」と母を呼ぶ声が聞こえた。
「なんでそういう事になるのよ! 今まで私たちがどれほど寂しかったか、あなたにはわからないの!?」
「だから、すまないと思ってる。この通りだ、許してくれ」
部屋に入ろうかどうしようか考えあぐねているうちに、がちゃりと派手な音をたてて母が出てきた。俺の姿を見ると、はっとして顔を背ける。手の甲で目元をごしごしと擦ってから、そそくさと洗面所に篭ってしまった。
「……母さん、どうかした?」
声をかけていいのか一瞬ためらったけど、できるだけ声をおさえてドア越しに呼びかけてみた。
「きっと、ばちが当たったのよ」
ばしゃばしゃと顔を洗う音と一緒に、そう吐き捨てる涙声が聞こえた。
恐る恐るリビングに入ると、窓際に置いたソファーで項垂れる父の姿があった。なにがあったのか推測しようとしても何も出てこない。あれこれと考えを巡らせてみるけど、真っ白な思考が糸になって頭の中でこんがらがっている気がする。目の前の重苦しい空気に、訳もわからず押しつぶされそうになった。
ドアのすぐ横に置いてあるサイドボードの上、数少ない家族写真のなかの一枚が白いフレームに収まってある。そこに肩が触れて、小さな音をたてた。息を呑む。
それまで項垂れていた父がその音に気づいたからなのか、ゆっくりと顔を上げた。
「隼人、大きくなったな」
ぎこちなくわらい、自分の隣をぽんぽんと叩いて、座るよう促した。だけどこの空気の重さに耐えかねて隣に座るのを躊躇った俺は、ローテーブルを挟んだ向かい側に置いたオットマンに、浅く腰を下ろした。革張りの座面が、ぎゅっ、と音をたてた。
「どうだ隼人、中学は楽しいか?」
「……え? 中学? ……ああ、まあ、うん。……ってかさ、母さん泣いてたけど」
父は深くため息をついて頭を垂れ、膝に置いた自分の両手を眺める。
重い沈黙に耐えられず、挙動不審になってしまう。自分の家なのにきょろきょろと辺りを見回して、壁のカレンダーで、その必要もないのに今日の日付けを確認する。今更、携帯のパンフレット見るの忘れてたな、なんて考えた。
「お前にも話しておかなきゃな」
父は以前会ったときよりも歳をとっていた。前に見た父はもっと生気に溢れていて、友達の父親たちよりずいぶん若く見えた。けれど今の父は。
「話すって、なにを」
「隼人、父さんな」
父の話は、今の俺にはとうてい理解できるものじゃなかった。
父には、赴任先で愛する人ができた。
父の部下であり、父と同じように日本から派遣された人で、名前はサチさんといった。サチさんは海外生活の心細さからか、ことあるごとに父を頼った。いや、心細かったのは自分のほうか。父はそう言って、自嘲ぎみにわらう。
そのうちにふたりは惹かれ合い、愛しあうようになった。サチさんは父に家庭があることを知っていたけれど、そのことには一切触れることはなかった。そして十年前。ふたりの間に子どもができた。サチさんは一人でも育てると言い張ったけれど、父は認知した。俺や母に申し訳なく思いながらも、俺や母と同じようにサチさんの事を大事に思っていた。
サチさんはやがて男の子を産み、父と三人で一つ屋根の下、ほんとうの家族のように過ごした。
「十年。一緒にいたんだ」
やがて父の帰国が決まった。父はそのことをサチさんに打ち明ける機会を窺っていた。日本に帰って離れ離れになっても、これまでと同じように生活に必要なぶんだけの費用は負担するつもりだった。せめて息子が成人するまで、と決めて。
やっとの思いで気持ちを固め、自宅近くのレストランにふたりを呼び出した。改めて話したい事がある、と言うとサチさんは覚悟を決めたように、あなたには帰るところがあるんだから、もし私と息子を愛しているなら、私たちにくれたものよりもっと大きな愛情で、本当の家族を守ってね、とわらった。父はサチさんを愛してしまったことを後悔して、そして感謝した。
父は会社に仕事を残していたため、そのままレストランでふたりと別れた。父がサチさんの生きている姿を見たのは、それが最後だった。
突然の事故だった。父と別れ、レストランの前をふたりが歩いているとき、大型のトレーラーが歩道に突っ込んだ。息子をかばったサチさんはトレーラーに跳ね飛ばされ、即死した。
「それで……?」
声がうまく出せない。喉が乾いていた。心なしかふらつきながらキッチンに立って、コップに水を注いで飲んだ。ばりばりと、喉の奥が剥がれる音が聞こえた気がする。
じぶんの感情をどこに置いたらいいのかわからない。怒っていいのか、同情すればいいのか、呆れ返ってここを去ってしまえばいいのか。どのみちこの悪夢は終わることはないんだと、どこかでわかっていたけれど。
「たった十歳の子どもを海の向こうに一人残して帰るなんて、できなかったんだ」
それでどうするの、と言うセリフを飲み込んで父の言葉を待った。冷蔵庫が、氷を落とす音が響く。母はどうしたんだろう。まだ洗面所で泣いているんだろうか。
「隼人。父さんはな、決してお前たちを愛していない訳じゃない」
「言い訳は聞きたくない」
「言い訳じゃない」
「母さんは!」
キッチンのカウンターにコップを置きながら、思わず大きな声が出た。頭に血が上る。叫び声のような自分の声に戸惑いながら、こみ上げてくる言葉を抑える事ができない。そうだ、怒ればいいんだ。頭の中で、脇目もふらず祖母の世話をしていた母を思い出す。
寝たきりになってしまった祖母を見放せず、父についていく事ができなかった。それでも母は愚痴ひとつこぼさなかった。
小学校六年の運動会の日、祖母の容態が悪化して母は病院に駆け込んだ。運動会を見に来ることができなかった母は、通夜の席で俺を抱きしめて、ごめんね、ごめんねと繰り返した。俺はちっとも寂しくなんかなかったのに。
「母さんはずっとあんたを待ってたんだ! たった一人でばあちゃん介護して……毎日、毎日! だけど、ばあちゃんの葬式だってあんたは帰って来なかった!」
「隼人……」
「母さんに味方してくれる人だっていなかった。なのにあんたは俺たちの知らない間に、……か、家族つくって幸せに暮らしてました!? ばかじゃねえの!?」
言いたいことは山ほどあるはずなのに、ろくに言葉が出てこない。歯痒くて、カウンターに置いてあったテレビのリモコンを父に投げつけた。リモコンは父の手にあたって、落ちた。裏の蓋がはずれて、ちいさな電池がふたつ、父の足元に転がった。父は一瞬顔をしかめて呻く。
「すまない……」
「俺はあんたがいなかったからって寂しいなんて思ったことねえよ。けど、母さんは違う」
「ああ……」
「愛していないわけじゃない、ってなに。それらしいこと言えば俺が納得するとでも思ってんの?」
「隼人、それは違う」
「何が違うんだよ! 言ってみろよ!」
冷静になれない。冷静になんかなれない筈なのに、ここにきて母の浮気を匂わせるような事は言っちゃいけないと、頭のほんの片隅が冷たいままなのに驚く。心のどこかにいる冷静な自分が、母を庇う。例え母が道を誤った事をしていたとしても、それはこいつのせいなんだ、と。
「隼人、すまない」
父の、喉の奥から絞り出すような声を聞きながら、リビングを出て自分の部屋に篭った。わけのわからない感情に羽交い絞めにされる。悪者は、誰なんだ。父さんか、母さんか。でも、こんなふうに母を庇う自分もきっと。
大きな音をたてながら椅子に深く腰掛ける。古くなった金具がぎいぎいと音をたてた。スタンドの灯りをつけると、水滴の残る窓ガラスに、思っていたよりもずっと頼りない自分の顔がうつった。