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水の音  作者: さくら
29/67

車輪の音・1

 




 ◆◆◆◆◆





 強引で、わがままで、優しくて、おせっかいで。

 よく笑って、よく怒って、だけどいつも暖かくて。

 困ったような目で僕を見下ろして、照れたように笑って目を逸らす。

 大きな手で髪を撫でて、強く僕の手を握る。

 なにも言わなくてもいつも隣に居てくれて、なにも言わなくてもわかってくれる。

 だけど時々なにか物思いに耽って僕を置いてけぼりにする。

 僕が不貞腐れていたら眉を下げて覗きこみ、わらう。

 

 名前を呼んだらその辺から出てこないかな。ひょっこり顔を出して、こんなとこに居たのかよ、って、拗ねた声で。







「ヒロ、支度しなさい。これから小西さんが家まで案内してくれるそうだ」

「僕、行くなんて言ってないけど」


 無理矢理車に押し込まれて連れてこられたのは、長野にある父の会社の保養所だった。父の勤める会社の支部が長野にあって、二棟あるうちの一棟がそこに通う社員のための社宅になっていたらしい。近年では老朽化が進んで、近々取り壊す事になってしまったらしいけれど。

 既に閉鎖されてしまっている所を、無理を言ってひと晩だけ泊まらせてもらったらしい。僕たちが着いたのはもう夜中で、それから宿を探すのは手間がかかるからという事らしい。こういう変なとこで面倒くさがりなのは、隼人によく似ていると思う。


「ヒロ。言うことを聞きなさい」

「父さんは、どうして涼子さんだけを責めるの? 自分が許してもらったくせに」

「お前はそんなことを考えなくてもいい」

「やってること、めちゃくちゃだよ」

「うるさい!」


 うるさい、うるさい。今日起きてから何度目だろう。

 ぼんやりとした色の壁紙にぽっかりと空いた無機質な窓の枠に凭れて、外の景色を眺めた。景色といっても山しかない。蝉時雨がやかましいほどに響いて、思わず耳を塞ぎたくなる。

 草の匂いを孕んだ風が頬を撫でて、思わず深呼吸をしてみた。肺が緑色に染まった気がする。空を見上げたら、薄い水色に刷毛で描いたような雲が広がっていた。


「お母さん、ここで生まれたんだっけ」


 確かそんな話を聞いたような気がする。ここで育って、父と同じ会社に入った。父は静岡の本部にいたけれど、海外に派遣されてそこで母と出会った。


「生まれたのはここかどうかはわからないんだがな。育ったのはここだと言っていた」


 母には、親と呼べる人がいない。ものごころついた頃には長野の施設に預けられていて、十八になるまでそこで育ったと言っていた。


「静かなとこだね」


 空を、大きな鳥が羽根を広げてくるくると舞う。ぼんやりと眺めていたら、支度を終えた父が憮然とした表情で僕の隣に立った。手には小さなボストンバッグを持っている。


「行くぞ」


 父の言うことなんて聞きたくはない。だけど僕には、今は父に従うしか生きて行く方法がない。

 早く、大人になりたかった。

 わざと大きなため息を吐いてみせてから、玄関の棚に置いてあった隼人のスコアを掴んだ。父より先に部屋を出る。錆びた金属製のドアが、ぎぎぎ、と音をたてて閉まった。


「コニシさんって、何もの?」


 車の助手席に乗り込み、シートベルトを締めてスコアを膝に置く。窓を開けて外を見たら、何だかそこに隼人が居るような気がする。昨日の光景が蘇って、思わず目を閉じた。


「沙智の……お前のお母さんと同じ施設で育った、親友だ。観光の仕事をやっているらしい。沙智がいつも、事あるごとに手紙を書いていた」

「そう。どんな手紙書いてたんだろうね」

「……どんな手紙だろうな」


 無駄に広い駐車場から道路に出る。かちかちと、ウインカーの音がする。他に車なんてないのに、変な所で几帳面というか。


「お父さんって、よくわかんない」


 シートに思いきり体を預けて、父の横顔を見る。父は一瞬眉を顰めて眉間に皺を寄せ、こちらを向いた。それからすぐに前に向き直ってから、どういう意味だ、と呟いた。

 それには答えずに窓の外に目を向けると、ガードレールの向こうに佇む町が見えて、その上に広がる空は思いの外広かった。


「……もう、帰らないの」

「帰りたいのか」

「当たり前でしょ。僕はここに来たくて来たんじゃない」

「お前はまだ子どもだ。親の言うことは素直に聞いておけ」

「理不尽だよ、そんなの」


 不貞腐れて舌打ちをしてみせたら、父は苦い顔をして煙草を取り出して火を点けた。ふっ、と煙を吐き出してから、くるくるとハンドルを回す。


「お前、隼人に似てきたな。舌打ちなんてするような子じゃなかった」

「半分血が繋がってるから。似てたりもするよ」

「やっぱり一緒に暮らすのは間違ってた」


 父は心底後悔しているようにそう言って、ハンドルに煙を吐き出す。煙の臭いが鼻について思わず顔の前を手で扇いだ。


「どうして、そんなふうに言うの」

「悪い影響を受けた」

「そんな言い方しないで。隼人だって自分の子どもでしょ」

「どうだかな」


 吐き捨てるようにそう言った父を睨むと、父は肩を竦めて短くなった煙草を灰皿に押し込んだ。



 やがて車はガードレールの向こうにみえた市街地に下りて、小さなファミリーレストランの駐車場に入った。父はエンジンを切ってから携帯を取り出すと、通話ボタンを押した。少しの間呼び出し音が聞こえて、ぷっつりと切れたむこうに、女の人の声が聞こえた。


 平日のレストランは人もまばらで、窓際の空いた席のひとつにその人は座っていた。仕事帰りなのか、かっちりとしたグレーのスーツを着込んでいる。スーツのデザインのせいで若く見えるけれど、父の話によると四十は過ぎているはずだ。僕と父を見つけるとゆっくりと立ち上がって、頭を下げた。父も同じように頭を下げてから、僕の肩に手を置く。振り払いたかったけれど、仕方なくそのままにしておいた。


「初めまして、小西です。あなたがヒロ君? 沙智にそっくりで驚いたわ」


 テーブルの向こう側で小西さんはそう言って、懐かしそうに目を細める。ひとつに纏めた髪が耳元のピアスを目立たせている。ゆらゆらと揺れながら、ボックス席の天井に吊り下げされているオレンジの照明にきらきらと光った。

 小西さんは大きな鞄の中から何枚かの写真を出して僕と父の前に置いた。


「施設に居た頃のだけど、沙智と一緒に写ったものがあったから」

「ああ、これは……わざわざすみません」


 父は写真を手に取って、僕に見えるように広げる。写真の中の母はとても幼く、言われてみれば僕によく似ていた。

 この頃なんか特に似てる。小西さんはそう言って一枚の写真を指差し嬉しそうに笑う。まだ着慣れない様子の制服を着込んだ母が、大きな木の下で少しはにかむように笑っていた。これは、施設の中なんだろうか。母のすぐ隣でシスターの格好をした女性が優しく微笑んでいる。


「ヒロ君が行く学校ね、バスケがとっても強いのよ。ヒロ君、バスケ好き?」

「……いえ、僕、運動はあんまり。……僕が行く学校?」


 いつの間にか僕がこの町の学校にいく算段になっていた事に驚いた。手際がいいというか、こうなることは始めから計算済みだったのか。思わず父の顔を見ると、父は咳払いをして目を逸らした。


「まあ、あれだ。興味がある事があれば何でもやってみるといい。欲しいものはないか?」


 父は引きつった笑いをどうにかほぐして、僕と小西さんを交互に見た。軽く睨んでみせたら、小西さんが声をあげて笑った。驚いて小西さんの顔を見たら、僕と目を合わせて口元を手で隠した。


「ごめんなさいね。あの、睨んだ顔が沙智にそっくりだったから。驚いたわ」

「ほんと、びっくりするほど似てますよ。気の強いとこなんかもう」


 小西さんは笑いながら、バッグの中に手をつっこんで小さな包みを取り出した。それを僕の前まで滑らせると、手を引っ込めてにっこりと微笑んだ。


「これ、ヒロ君にあげる」

「……何ですか、これ」


 そっと包みを手に取って開けてみると、小さな銀色の指輪が入っていた。銀粘土かなにかで出来た、ぽってりとした素朴なデザインのものだった。


「大袈裟にいえば、形見。沙智のね。ちょうどヒロ君くらいの頃だったかなあ。二人で作ったの。私のを沙智が作って、沙智のを私が作って」

「形見」

「お揃いで作って交換したの。ばかみたいだけどね。親友の印、って」

「じゃあ僕が持ってても……」


 親友の印なんて銘打ったものを僕が持っていても。そう思って小西さんのほうに滑らせようとした手を、そっと止められた。


「沙智のものを、これ以外に持っていないの。手紙とか、そういうものはあるんだけどね。施設にはあまり私物を置いておけなかったから。それに今住んでる家はものが多すぎて、こんな小さなものは失くしてしまいそうだから。お願い。ヒロ君が持ってて?」


 小西さんはそう言って、首を傾げてにっこりと笑った。僕は断る理由を失くしてしまった。銀に小さな透明のガラス玉を埋め込んだそれは、大きな窓の外の光をうけてきらりと光った。


 それから僕たちは軽い食事を済ませ、小西さんが紹介してくれるという古い一軒家を見に行った。


「築何年かなあ。結構古いんだけど、手入れはしてあるから。私の親戚だって名乗る人が住んでた家で、私が施設から出たら住むように言われてたんだけど、結婚したら主人が別に家建てちゃって」

「充分です。ありがとうございます」

「気に入ってもらえたら嬉しいんだけど」


 小西さんはそう言って、小さな鍵を父に手渡した。それから、僕にもひとつ。


「ヒロ君も持ってたほうがいいわよね。学校はね、ここから歩いて二十分くらいかな。お父さんにあとで案内してもらってね」

「はい、ありがとうございます」


 小西さんは、なにかあったら連絡してね、と、僕に小さなメモを差し出した。小さく畳まれたそれを開いてみると、携帯電話の番号と住所が書かれてあった。


「お父さんに言えないような事でも、こっそり相談に乗るわよ」


 小西さんはいたずらっぽく笑って、僕の頭を撫でた。

 去って行く小西さんの車を見送って、僕と父は改めて家を見上げた。平屋の小さなその家は確かに、古い。年季の入った古ぼけた雰囲気がなんとも言えず、一度だけ父と顔を見合わせた。

 

 玄関の扉を開けると、つんとした匂いが漂う。思わず顔をしかめていたら、父がさっさと上がり込んであちこちの窓を開けた。風が通る。

 最低限の照明器具はついているらしく、玄関から見える小さな和室にぶら下がった照明のひもが風に揺れていた。

 

「ブレーカーはどこにあるんだ……」


 父は奥の部屋に向かって、どんどん扉を開けては覗いていく。キッチンを覗きこんだ父は、あった、と声を上げた。


「ねえ」


 声をかけたら、父は足を止めて僕を見た。長い廊下の向こうで、暗くて顔はよく見えない。


「離婚するの」


 父は黙ってキッチンに入り、ブレーカーを入れた。家のなかに、ぶうん、と小さな音が響いた。死んでいた家が、そっと息を吹き返したように思える。

 再び廊下に出てきた父は、こんどは反対側の部屋に入って窓を開けた。


「離婚、するの」


 もう一度聞くと、部屋から出てきた父は僕の顔を見て、ちいさくため息を吐いた。


「そう、なるだろうな」


 家の前の小さな国道を走る車が、僕の、どうして、という声をかき消した。





 


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