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水の音  作者: さくら
28/67

足音・14

 





 翌朝早くにコウの家を出た俺は一旦家に帰り、いつもポストの中に入れてある鍵を使ってこっそり上がり込んで制服に着替えた。幸い、母は出かけているらしい。

 鞄を持って部屋を出ようとドアノブに手をかけたら、ベッドの脇に落ちているヒロの携帯が見えた。昨夜コウの家に向かいながら何度も鳴らしてみたけれど応答がなかった。こんな所にあったのならそれも仕方がない。手に取って電源を落としてから、鞄の奥に突っ込んだ。


 玄関の鍵を閉めて道路に出たら、昨日のタイヤ痕が朝日に照らされてくっきりと浮かび上がっているのが見える。蛇行したその黒がヒロと見た虹と重なって、思わず目を閉じた。

 いいことあるかなあ、なんて言いながら嬉しそうに虹を見上げていたヒロを思い出す。あの時もう少しゆっくりと歩いていれば良かった。あの時家に居なければこんな事にはならなかったのかもしれない。言い争う二人に先に気付いてこっそりと家を出て、ヒロとふたりどこかへ行ってしまう事も出来たのかもしれない。

 今更考えても仕方のない、それもきっと叶わなかったような事を思ってしまっている自分に内心舌打ちをして、重い足を踏み出した。





 教室には、コウと智也が来ていた。淳は自分の席に座って俺の顔を見るなり眉を顰め、智也が目を丸くする。クラスメイトたちは、喧嘩したんだろう、とか、女にやられたんだろう、なんて勝手なことを言っている。適当に相槌を打ちながら自分の席に座ると、智也が俺の前に回って顔を覗きこんだ。


「なに」

「なに、じゃねえだろ。聞いたぞ。どこ行ったのか見当もつかねえの」

「つかない。今んとこ」


 開け放った窓の桟に凭れ、逆さまの空を見上げた。やけに濃い青だ。暑苦しい入道雲を集めて今にも落っこちてきそうだ。

 教室のざわめきがまるでひとつのかたまりみたいになって、近づいたり遠ざかったり。目を閉じてしまえば、一瞬でその外側に弾き飛ばされてしまいそうだった。

 結局あれから、一睡も出来なかった。ヒロがどうしているのか考えれば考えるほど目が冴えて、居てもたってもいられない気持ちを抑えるのに必死だった。だけど冷静に考えてヒロの居場所もわからないうちに闇雲に動きまわるのは得策じゃない。そんな結論に至ったのはもう夜明けの淡い光が町を包む頃だった。


「どうすんだよ、これから」


 智也が俺の前の席に勝手に座って、振り返り頬杖をついて唇を尖らせた。


「今はどうしようもないだろ。誘拐されたってわけじゃないんだから、慌ててもな」

「そりゃそうだけど」


 智也が不貞腐れたようにそう言ったところでチャイムが鳴って、コウと一緒に渋々教室を出ていった。

 

 教室の中は未だ騒がしい。今日は小テストのある日だから先生が準備に手間取っている、なんて声が聞こえた。その隙に少しでも復習しようと、教科書やノートを捲る音があちこちで聞こえる。

 窓を閉めてガラスに凭れ、目を閉じて教室の音だけを聞いていると、なにひとつ昨日と変わらない世界が続いているように思える。

 ヒロが居なくても、きっと俺が居なくなったって、今日は続いて終わり、また明日が来る。

 ヒロの世界は昨日と今日でどんなふうに変わったんだろうか。俺が居なくても、あいつはきっとうまくやっていける。それが確信できるだけに、悔しい。


「無事なんだね、ヒロ君は」

「ああ。クソ親父だけどヒロには乱暴な事はしねえよ」

「……原因、訊いてもいい?」

「……母さんの浮気がばれた」

「そっか……。隼人も大変だね」

「散々だよ。そのうちいいことあるかな」

「どうだろうね」

「こういう時は思ってなくても、あるって言うもんだろ」

「そう願ってる」

「そっか」


 淳は俺の肩を軽く叩いて、先生来たよ、と耳元で囁く。目を開けたら、大量のテスト用紙が目に入って胃の奥が重くなった。

 





 

 言うまでもなくテストは散々だった。それから六時間目までの授業をどうにか熟して、机に突っ伏した。

 帰る準備をして机で項垂れていたら、廊下で誰かが俺を呼ぶ声が聞こえたような気がした。


「今誰か呼んだ?」


 声のした方に顔を向けると、淳は後ろで、なんか聞こえたね、なんて言って同じように廊下を見る。


「篠崎君、ちょっと」


 呼んでいたのは、ヒロの担任の佐藤だった。ヒロが、若いんだからもうちょっときれいにしとけばモテそうなのに、とぼやいていたのを思い出す。淳と顔を見合わせて、廊下に出た。佐藤はなにか深刻な顔をして俺に近づいて、声を潜めた。


「聞きたいことあるんだけど。今いい?」

「何すか? ヒロなら今日は休むって朝連絡したけど」


 無断欠席にならないように、朝学校に来てからすぐに職員室で欠席だと報告した。とりあえずそれで問題はなかったはずだ。


「そのヒロ君の事なんだけど、たった今お父さんから連絡があってね」

「え」

「急だけど転校が決まった、って。あなた何も聞いてないの?」

「転校……。転校って、どこに!」


 場所くらい聞いているかもしれない。いや、聞いているはずだ。思わず佐藤の腕を掴んで詰め寄ったら、ものすごく苦い顔をされてしまった。はっとして手を離したら、佐藤は掴まれていた腕をこれ見よがしに摩って苦笑いした。


「まだあまりはっきりしたことは決まってないって聞いたけど……。長野市内って言ってたのは確かよ」


 長野。そうだ、長野には父さんの会社の保養所があったはずだ。小学生の頃に家族で行ったことがある。俺たち家族が宿泊した棟とは別の棟が住居としても使われていると言っていた。そうだ。

 心臓が跳ねて、手足の先がずきんと痛んだ。心拍数が上がる。

 行けるかもしれない。いや、行かなきゃ。

 足の爪先に力が入って、すぐにでも学校を飛び出して駅に向かおうと息を吸い込んだその時。不意に、廊下のスピーカーから大音量のチャイムが鳴り響いた。


「――!!」

「うわっ!」


 スピーカーを音が出るほどの勢いで見上げた俺に、佐藤はもっと驚いたらしく変な声をあげた。


「……ど、どうしたの」

「……あ、あ、いや、なんでも。ええと、ヒロのことは、俺今全然わかんないんで。あれだったら、家に電話して聞いて」

「ああ……、そうなのね。連絡があったのがお父様からだったし、あなたはここに居るし……ご両親になにかあったのかと思って。また後で詳しく聞かせてね」


 佐藤はそう言って首を傾げると、じゃあ後でね、と軽く手を上げてそそくさと教室に向かった。


「篠崎、なにやってる。教室に入れ!」


 佐藤と入れ違いでやってきた担任が、俺の腕を掴んだ。後ろ向きに教室に引きずり込まれて、既に席についているクラスメイトたちの視線を浴びた。


「痛いって! わかったから!」

「あれ、お前その顔なんだ。ん? 女にでもやられたか?」

「うるせえよ!」


 どいつもこいつも、人の気も知らないで。心の中で文句を言いながら自分の机に戻ったら、淳が、なんだったの、と小さな声で囁く。


「……ヒロの居場所がわかった」

「えっ! どこだったの」

「こら! 篠崎、中原! 私語は慎め! ホームルームを始める! 日直、号令!」


 淳は肩を竦めて、俺に前を向くよう促した。

 

 ホームルームの最中携帯を開いて長野行きの電車を調べた。いちばん安いルートでざっと六時間。財布の中身と顔をつき合わせて相談しても、そのルートを選ばざるを得ない。

 頭の中で、朧気な記憶を思い起こす。幼い頃に父と母と、長野に行った。あれは冬だった。父が海外に赴任して何年目だったろうか。あの頃にはもうヒロは居たんだ。父の、もうひとつの家族として。


 ――父の車で、東京から長野まで。車の中で眠ってしまった俺は、目が覚めたら辺りが銀世界だったことに興奮してはやく車から降りたいとせがんだ。母はそんな俺を宥めて、今日はもう遅いから明日ね、と頭を撫でた。

 夕陽に照らされた雪景色がやけに綺麗で、きらきらと光って。

 運転席の父はひたすら前を向いて、雑音だらけのカーラジオから流れる歌に耳を傾けていた。そうだ、あの曲は。

 アメイジング・グレイスね。

 母が言ったんだ。父はただ、頷いた。あの時の父は今にして思えば、きっと心のなかでヒロの母親であるサチさんを思い出していたんだろう。ヒロの言っていたようにキッチンで夕食を作りながら口ずさむその歌声を、俺と母を乗せた車のハンドルを握って。

 


「今日はこれまで! 明日、今朝の小テストの点数が悪かったものは居残りで再テストをするから、そのつもりでな!」

「ええー! 聞いてねえ!」

「先生勘弁してよー!」


 ざわめく教室の中、生徒たちの不満の声が上がる。担任は満足そうにニヤリと笑って、教室を出た。


「隼人」


 鞄と携帯を手に立ち上がった俺の肩をうしろから叩かれた。


「行くの?」


 振り返ったら、複雑な顔をした淳がそこに居た。何人かのクラスメイトが俺と淳に、また明日、と声をかける。淳は軽く手を上げる。視線は俺の方を向いたままだ。


「止めたりはしないけど、無茶はしないで」

「わかってる」


 しゃぼん玉が弾けたように、教室のざわめきが消える。途端に風が通って、廊下で笑っていたヒロの横顔が脳裏に甦った。




 


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