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水の音  作者: さくら
27/67

足音・13

 




「うわ……、お前その顔なに!」


 ドアを開けて俺の顔を見るなりコウは目を丸くして、玄関前に立つ俺の腕を掴んでドアの内側に引っ張りこんだ。

 

 コウから受け取ったメールを、すっかり日の暮れた町を歩きながら開いた。今日の放課後に楽器店に行くことを知っていたコウは、どんな様子だったか気になったらしい。

 いいのあった? それだけ書かれたメールに、どうしてだか気が緩む。そうして気づいたら、コウの家の前に立ってインターフォンを押していた。


「あれ? ヒロは?」


 コウは俺の周囲をきょろきょろと見回して、いま閉めた玄関のドアまで開けて外を確かめている。


「え、なんでヒロ来てねえの? 留守番?」

「……コウ。俺どうしたらいいんだろ」

「……なにが、あった?」


 玄関の小上がりに座り込んだら、全身の力が抜けた。コウは後ろ手でドアを閉めてから俺の正面に中腰になって座り、眉を顰めた。






「……なんか飲む? あ、お前甘いのだめだっけ。お茶持ってくるわ」


 ともかくまず落ち着けとコウの部屋に通されて、ベッドの側に置いた大きなクッションを背に床に座り込んだ。

 ベッドサイドの小さなテーブルの上に、小ぶりの鏡が置いてある。手に取って覗き込むと、殴られた頬が赤く腫れていた。髪をかき上げたら、こめかみの少し上に貼った絆創膏が血で赤く膨らんでいるのが見える。指先で触れると、ずきんと痛みが走った。よく見たら唇も切れている。ため息を吐いて鏡を置いた所で、コウが戻ってきた。


「お前飯食った? 母ちゃんが、たいしたもんねえけど食ってなかったら下りてこいってさ」

「あー……、腹減ってねえわ。ごめん」

「そっか。いや、気にすんな。かーちゃん! 腹減ってねえって!」


 お茶の入ったジャーと空のグラスをふたつ手に持ったコウは、階下に向かって声を張り上げる。遠くで、はーい、と返事をする声が聞こえた。


「で、話せる? もうちょい時間いる?」


 コウは麦茶の入ったグラスを手渡しながら、そう言って首を傾げる。

 夕方に降った雨のせいで、とっぷりと日が暮れてしまった今の時間でも少し蒸し暑い。じんわりと滲んだ汗が額の傷に染みた。


「それ、誰にやられたの」

「……クソ親父だよ」


 わけもわからないうちに殴り飛ばされ、なにも出来ないうちにヒロを連れて行かれてしまった。結局俺はなにも出来なかった。守りたいなんて、何度も飽きるくらい頭の中で繰り返したくせに。悔しくて、情けなくて、自分が嫌になる。

 近くで、鉄橋を渡る電車の音が聞こえた。あの電車はどこへ行くんだろう。ヒロは、どこへ行ってしまったんだろう。

 コウは俺の隣にクッションを置いて座り、ベッドに背を預けた。木製の枠が軋む音が静かな部屋に響く。


「俺……、なんも出来なかったんだよ。ヒロのこと守るなんて意気込んでたのに、いざとなったらこのザマ」

「ヒロに、なんかあったのか? ヒロも怪我してんの?」

「いや、ヒロは少なくとも怪我はしてない……と思う。父さんが、連れてったから」

「連れてった? どこに」

「わかんねえ。どこいったんだろう……」

「帰って……来るんだろ?」

「……いや。ヒロ連れて出て行くつってたから」


 コウは複雑な顔をして短いため息を吐く。あぐらをかいて、頬杖をついてじっとなにかを考えているようだった。

 アナログの時計の音が、床を這うように流れる。風で、机の上に置いてあるノートのいちページが、音をたてて捲れた。どこからか、蚊取り線香の匂いが漂う。 

 どれくらい時間が経っただろう。コウはようやく顔を上げて、ゆっくりと口を開いた。


「俺さ……、すげえ前の事であれなんだけど、小学校んとき同じクラスに、居たんだよ」

「なにが」


 視線を床に落としたまま、独り言のようにぼそぼそと話し始めたコウに視線を送った。コウは苦笑いを浮かべた顔をほんの少しだけ上げて、ちらりと俺の顔を見てまた下を向く。


「男子なのにさ、男子のことが好きでどーしようもなくて、悩んでる奴」

「うん……」

「そんでさ、俺、あんまわかってやれなくて。俺、普通に女の子が好きだし、初恋はすげえ早かったし。幼稚園の時だったんだよ。おなじ組にすげえ可愛い子居てさ。ま、そりゃいいんだけど」


 コウは遠い想い出をたぐり寄せるように視線をあたりに漂わせて、ちいさくため息を吐く。ちいさなコウが可愛い女の子に無邪気に言い寄っている姿が容易に想像できて、少し笑ってしまった。


「だから、そういう……同性を好きになるってのがどーしても理解できなくて、そいつに、頭おかしいんじゃねえの、って、言っちゃって」

「まあ、わかるよ。言っちゃう気持ちも」

「んでもやっぱ、だめだろ、言っちゃ」


 コウは自嘲気味に笑って、床に置いたトレイからグラスを持ち上げ、ひとくち飲んでからまた口を開いた。グラスを置いていたあとに丸く水の跡が残っている。コウの膝に、水滴がぽとりと落ちた。


「冷てっ。……それでさ、そいつそれ以来口きいてくんなくなっちゃってさ。わりと仲良かったんだけど、もう翌日から一切目も合わしてくんねえの。そんで、ああ俺、傷つけちゃったんだなあって」

「そんで、仲直りできたの」

「いや。そいつ中学に入る前に遠くに引越しちゃってさ。ほんとにそれ以来」

「うわぁ」

「うわぁ、だろ。ほんと、悪いことしたなあって。悩んでるの、知ってたのにな」


 コウはグラスをトレイに戻して、立ち上がった。窓を閉めて、机に置いたリモコンでエアコンのスイッチを入れる。それからゆっくりとベッドに座って、長い長いため息を吐いた。


「だからもし次にそうやって悩んでる奴がいたら、ちゃんと話聞いてやろうって。俺が、出来ることはとりあえずやっちゃおうって、そう思ったんだけど」

「うん」

「いざとなったら、なあんも出来ねえのな。お前のことだって、ただ見てるしか出来なくてさ」

「ばかかお前は。俺は別にそんなこと期待してお前と付き合ってるわけじゃねえし」

「そりゃわかってんだけどな」


 正直俺だってヒロに出会う前は偏見のかたまりみたいなものだった。身近に居たわけじゃなかったけれど、メディアに登場する同性愛者に対して密かに冷たい目を向けていたのは事実だ。だからこそ、自分に向けられるであろう好奇の目や非難が理解できてしまうし、ヒロが感じるであろう痛みをリアルに想像できてしまうんだ。


「お前がその友達の事で罪悪感を持つ必要はねえよ。当たり前の目だ。自分がおかしいかもしれないってのは自分がいちばん良くわかってるし、理解されなかったからって誰かのせいにしたりはしねえよ」

「そうは言うけどな」

「小学生じゃまだわかんなかったかもしれねえけど、そいつだってさ。お前のこと恨んでるわけじゃねえよ。ただ、どうしていいかわかんなくなっただけだろ」


 わかってもらえない悔しさや苦しみは自分にしか解らないということが、いつかわかってくる。理解されないからといって誰かを恨んでいい訳じゃない事も、理解しないのにも理由があるんだってことも、わかってくる。


「淳だって智也だって、完全に丸呑みは出来てねえと思うし。ただ、理解したいって思ってくれてるのはすげえ、伝わる。だから、それで充分だと思ってる」

「……そっか。いや、俺もね。理解したいって思ってんのは、思ってんだよ。お前のことも、ヒロのことも親友だと思ってるし、お前がそういう事簡単に諦めちゃうような奴じゃねえって事も知ってるし。それに、なんつーかさぁ」


 コウはそう言ってやっとコップをトレイに戻して、なにかを思い出そうとするかのように視線を辺りに巡らせて、それから自分の手元をじっと見つめた。


「なんか、いいなって。そうやって、誰かのことを一途に想い続けるって、簡単そうに見えて実はなかなか出来ねえだろ。相手に自分の理想押し付けちゃったり、そんで見てるうちにイメージ違うなんて勝手なこと思ったりして」

「イメージ、ねえ」

「そんでお前の場合これがまた、相手がヒロだろ。何つうか俺の勝手な想像だけど、色んな葛藤があったんだろうなって、思うわけだよ。俺だったら途中でもういいやって投げ出しちゃうんじゃないかなって」

「違うよ、俺は投げ出さなかったんじゃなくて、投げ出せなかったんだよ」


 何度だってやめてしまいたいと、こんな気持を消してしまいたいと思った。けれどそれは叶わなかった。ただそれだけだった。


「どっちにしろ、さ。お前がヒロを想う気持ちを、俺は、素直に……いいなって、思ったわけだよ」

「なんか、単純なとこに落ち着いたな」

「悪かったな。俺、難しいことよくわかんねえんだよ」


 コウはそう言って笑う。階下から、お風呂が沸いたから入りなさい、と声がした。


「どうせ泊まって行くんだろ。俺の服じゃ少し小さいけど、まあ我慢しろ。荷物は朝取りに行きゃいいか」


 クローゼットから適当な服を見繕って俺に差し出す。礼を言って、風呂場に向かった。

 ヒロの居場所さえわかれば今すぐにでも飛んで行きたいけれど、手掛かりがない。父に電話をしてもきっと教えてはくれないんだろう。


 風呂に浸かりながら、コウの話を思い返す。コウは単純に、ちゃんと理解してやることは出来ないかもしれないけれど、応援はしているんだということを伝えてくれたんだ。考えたらこれまでコウと二人でこのことでちゃんと話をしたことがなかった気がする。コウはコウなりに考えていてくれたことが、何だか嬉しかった。

 だけど、だからと言ってこの想いを貫いていいという理由にはならない。そんな事も、わかっている。

 ヒロの居場所がわかったとして、会いに行ったとして。俺になにが出来るんだろう。俺は、このままここでヒロを忘れていくべきなんだろうか。




「さんきゅ。さっぱりした」

「おー。やっぱ服小せぇな」


 コウの貸してくれたパジャマは手足がだいぶ短かった。寝るには支障ないと言うと、それもそうだと頷いた。

 部屋の灯りを消して、コウの敷いてくれた布団に入る。

 今頃ヒロも眠りに就いているんだろうか。どこか痛い思いはしていないだろうか。泣いてやしないか。ヒロのことだから、父と大声で言い争っているのかもしれない。ヒロは母には遠慮がちだったくせに、父に対しては言いたいことを言っていた。だから余計な事を言って、俺と同じように殴られたりしてはいないだろうか。考えれば考えるほど心配になってきて、眠れない。


「なあ、隼人」

「え?」


 寝息をたてていると思っていたコウが、ベッドの上でもぞもぞと動く音がする。咳払いをしてから、息を吸い込む音が聞こえた。


「もしヒロが何処に居るのかわかったら、連れ戻しに行くのか?」

「連れ戻しは……無理だろ」

「……だよな」


 コウは長いため息を吐く。それから少しの間、かちかちと時計の音が響いた。


「早く大人になりてえな」


 コウが俺の気持ちを代弁するように呟く。大人になんかなりたくないと思っていた。けれどここへきて、自分がまだ子どもだという事実に振り回されている。


「大人、か」

「……大人っていろんな意味でがんじがらめだけど、自分の責任で自由にやれる」


 大人はきっと、俺たちが思っているよりもっと窮屈で退屈だ。だけど、羽根を持つことが出来る。その大きさは人それぞれだけれど、自分の行きたい場所を目指す事ができる。きっと。


「いつかさ、いつか大人になったとき、お前とヒロが一緒にいられたらいいなって。思ってるよ」

「コウ」

「俺が言えるのは、そんだけ。許せ」


 コウはそう言ってもぞもぞと音を立てて、やがて静かな寝息をたて始めた。


「さんきゅ」


 ぽつりと呟いた言葉は、すぐに闇に紛れて消えてしまった。




 



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