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水の音  作者: さくら
25/67

足音・11

 




「はーやとっ。終わった? 帰る?」


 授業を終えたヒロが教室までやって来た。今朝、帰りにふたりでギターのカポタストを買いに行こうと約束してあった。少し遠回りすれば、商店街に小さな楽器屋があったはずだ。


「あれ、ヒロ君がお迎えに来るなんて珍しいね。隼人、にやけてるよ」

「おま、そんな、にやけてなんか。ほら、行くぞヒロ! また明日な、淳!」


 俺を覗き込んでからかう淳におどけてみせて、手を振って教室を出た。長い廊下をふたりで歩く。

 開け放たれた窓から生ぬるい風が吹き込んで、隣を歩くヒロの髪を揺らす。空には綿菓子をちぎって散らしたような雲がいくつも浮かび、西のほうには薄い灰色の雲がかかっているのが見えた。

 向かいの校舎から吹奏楽部の演奏する楽器の音が聴こえる。辿々しい不協和音が何故か耳に心地良い。どこかで聴いたような気がする曲が、やっぱり辿々しく流れた。これは、ホルンか。


「あ、アメイジング・グレイス」


 ヒロがそう言って、窓の外を見た。アメイジング・グレイス。聞いたことのある題名だ。色んなアーティストがカバーして歌っていたような。

 それに、この曲は。


「ヒロの想い出の曲かなんか?」

「うん。お母さんがね、よく歌ってたんだよ。まあ、口ずさむ程度だけど。こう、ごはんとか作りながら」

「ふーん、それでかぁ」

「それで、って?」


 名残惜しそうに窓をちらりと振り返りながら、階段の手すりに手をかける。気をつけろよ、と声をかけたら、こくりと頷いて俺を見上げた。


「それで、ってどういう意味?」


 訝しげに首を傾けて二度も訊いたヒロが何だかおかしくて笑う。これは、言ったほうがいいのか、言わないほうが楽しめるのか。まあ、どっちにしても可愛いヒロが見られそうだ。


「だってお前、歌ってたじゃん。うちに来た頃、公園で」


 先に踊り場まで下りたヒロは立ち止まって振り返り、目を丸くして俺を見上げた。みるみるうちに頬がピンクに染まって、左手で口元を覆う。ほら、可愛い。

 

「あ、え、あの、なんで、ちょっと、えええ!?」

「いや、すげー小さい声だったからよくわかんなかったんだけど、今考えたらあの曲だろ。普通に上手かったけど」

「ちょっと、隼人なんで? いたの? 公園に!?」

「いた。お前ぜんっぜん気づかなかったけど、俺木の反対側にいたの。雨宿りしてたんだけどさ」

「嘘……! うわ、嘘! ありえない!」


 ヒロは鞄を放り出して、真っ赤になってしまった顔をぶるぶると横に振って両手で隠し、壁に額をくっつけて身悶える。

 これが中学生男子が恥ずかしくなった時の反応なのか。お前は女子か。いや、女子より可愛い。


「まあまあ。見られたのが俺で良かっただろ。あん時はまさかお前が話に聞いてた”ヒロ”だとは思わなかったけどな」

「うう……。一生の不覚。もっとちゃんと周りを確かめればよかった……」


 壁にくっついて離れないヒロを引き剥がして、まあまあ、と腕を掴んで階段を下りる。ヒロはふらふらとよろめきながら、はじめは赤い顔を隠して唸っていたのが、段々となにか怒りがこみ上げてきたらしく、唇を尖らせて俺を睨んでいる。何故。


「なんでもっと早く言ってくれなかったの! ていうかそのとき声かけてよ! いまーす、って!」

「いやいや、え、俺、悪いことしたの? あの空気で、いますとか言えねえし!」

「あの空気ってなに! 意味わかんないし! ばかじゃないの! ていうか何ならずっと黙っててよ!」


 馬鹿と罵られようと、意味がわからんと言われようと、可愛いものは可愛い。怒った顔も可愛いなあなんて思いながらにやけてヒロを見下ろしていたら、ようやく息の切れたヒロは少しの間黙って息を整え、すたすたと先を歩き出した。


「まあいいか、そうだね。見られたのが隼人で良かった」

「立ち直りはやっ」


 





 商店街に着いた頃には、小さな雨が降りてきていた。

 買い物を終えた俺たちはカポタストの入った小さな袋を手に、アーケードの出口で大粒の雨が落ちてくるねずみ色の空を見上げた。

 老朽化したアーケードの骨組みとテントの隙間から、滝のような雨水が流れている。商店街の凹んだ石畳の上に、瞬く間に大きな水たまりができた。


「雨、夜からって言ってなかったっけ」


 ヒロは小さなため息を吐いて、きょろきょろと辺りを見回した。

 ヒロが小学校の頃、時間を潰すために度々足を運んでいた小さな公園が目に入る。雨に煙る木々の隙間から、今はもう水の出ていない噴水がみえた。

 今年のはじめだったか、小さな地震があった。その時に噴水の敷石がひび割れてしまったらしい。それを修理するためにいったん水を止めると書いてある説明を読んでから、一度も稼働しているのを見たことがない。

 放課後にヒロを迎えに来ると必ず、ベンチに座ってぼんやりとあの噴水を眺めていたのを思い出す。あの時のヒロは、なにを思っていたんだろう。


「コンビニなかったっけ。傘買う?」

「夕立だろ。すぐ止む。なんか飲み物でも買って待とう」

「そだね。あ、ごちそうしてくれるの? ありがとう、そんなに言うなら遠慮なく!」

「ちょ、何だそれ」


 ヒロは笑って、自販機のある角まで走って行った。

 

 ヒロにはコーラを、自分にはコーヒーを買ってアーケードの中ほど、小さな広場のベンチで蓋を開けた。

 広場は商店街の休憩所のような役割をしていて、四方に短いアーケードが伸びている。広場の中央に大きな椰子の木があって、その周りを囲むように4つのベンチが設置してある。

 俺たち二人が座ったベンチからは、カポタストを購入した小さな楽器店がみえた。人はまばらで、楽器店の他に営業しているのかどうかひと目では判りづらい古びた画材店や、のれんが出ているのを見たことがない定食屋、もう店を畳んでしまった古書店の名残りがある雑貨店なんかが並んでいる。

 座ったベンチの後ろ側に伸びるアーケードには、鮮魚店や八百屋、服屋やレコード店が並び、夕食の買い物をする主婦や学校帰りの学生たちで賑わっていた。

 

 広場の真上にあるドーム型のテントに、激しい雨が落ちる音が響く。アーケードに微かに流れる販促用のBGMも、その音にかき消されてしまっていた。

 ヒロはペットボトルの蓋を開けながら、耳を近づける。それから、ほっとしたように短く息を吐いてからまた蓋を閉めた。


「なにしてんの」


 不思議な行動に首を傾げたら、ヒロはばつが悪そうに口を歪めて笑ってみせてから、改めて蓋を開けてコーラを口に運んだ。


「この音好きなんだよ。ぷしゅっ、て」

「……へえ?」

「なんか、気が抜けるっていうか、安心するっていうか」

「はあ?」

「いいよ、もう」


 どぎまぎした様子で説明するヒロにまた首を傾げてみたら、照れたようにそう言って俯いてしまった。気が抜けるというか、文字通り気が抜けているだけじゃないのか。それがどうして安心なんだ。

 

「ちょっと貸して」

「え、なんで」

「いいから、貸して」


 訝しげなヒロに構わずコーラを受け取って、耳元に近づけてから蓋を取ってみる。ほんの僅かに、空気が漏れる音がした。


「もう、一回開けたからそんな音しないよ」

「あ、そっか。振っていい?」

「だめ」

「振る」


 だめ、と言いながら手を伸ばすヒロを制して、ほんの少しだけ振って、また同じように蓋を開けてみる。

 耳元で、気の抜ける音と一緒にきらきらと、小気味の良い音が溶けた。同時に、お腹の底にあるなにか重苦しいものがほんの少しだけ軽くなったような気がした。


「あー、あー、なるほど! あー、わかる!」

「もう、そんなに振ったら気が抜けちゃってまずくなるでしょ」

「いや、でもさ。うん。言ってることなんかわかった」

「ほんとに? ほんとにわかった? ぷしゅっ、て、わかった?」


 首を傾げて、本当に? 本当に? と繰り返すヒロが可愛くて仕方がない。笑ってしまいながら、うんうん、と頷いてみせる。


「胃のあたりがスッとするかんじ」

「そう! それ! 胃が軽くなんの」

「なにお前、胃が重くなるようなことでもあんの」

「え、いや、そんなことないけど」


 ヒロは辺りをぐるりと見回して、最後に俺を見上げてから、へらっ、と笑った。ヒロがこういう顔をするときはなにか隠し事をしている時だと思うんだけれど、だからといって問い詰めたところで簡単に口を割るような性格じゃない。こいつは誰に似たのか、頑固だ。


「まあいいけどさ。カポ買ってやったんだからちゃんと練習しろよ? ギター」

「うん。あ、忘れてた」


 ヒロはそう言って、楽器店の小さな袋から更に小さな包みを取り出して、俺に差し出した。受け取ってみると、その軽さでだいたい何なのかはわかってしまったけれど。


「え、俺に?」

「うん。カポタストのお礼。大したものじゃないけど」

「まじで? いつの間に?」

「隼人がギブソン触りまくって弦切って怒られてる間」

「ぶっ」


 店の奥の棚に並べてあったギブソンのレスポールを、店員に断って触らせてもらった。勝手にチューニングして適当に作曲していたら、弦が二本いっぺんに切れてしまった。そんな乱暴にした覚えはないんだけど。

 袋を開けると、中から出てきたのは、ギターのピックだった。


「おー、なんか三つあるし。いいの?」

「うん。ヘビーとミディアムと、シンだっけ。どれがいいかわかんなかったから、三つ買っちゃった」

「全部使う! あ、でもやっぱ飾っとこうかな、もったいないから」


 使ったら割れたり無くしたりするから、額に入れて飾っておくのもいいかもしれない。本気でそんなことを考えていたら、ヒロは楽しそうに、「使ってよ」と笑った。








「空気が美味しくなったね。きもちいー」


 ヒロは大きく伸びをしながら、雨上がりの空気を吸い込んで目を閉じて、また開けた目に薄灰色の雲間から覗く青空がうつった。


「あ! 隼人見て! 虹!」

「え、どこどこ?」

「ほら、ちょっと屈んで!」


 アーケードのテントが邪魔をして見えなかった。ヒロの言うとおりに少しだけ屈んでみると、雨で洗われたビルの上にきれいな虹がかかっているのが見えた。

 

「いいことあるかなあ」


 ヒロが呟く。


「俺、もうあった」

「えー、どんないいこと?」

「ピックもらったし、ヒロと虹見れた。超ラッキー」


 ヒロと一緒に居なかったら、屈むことだってしなかった。いつだってヒロは自分のみつけたきらきらしたものを、俺に教えてくれる。

 ヒロは少し驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。



 




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