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水の音  作者: さくら
24/67

足音・10

  





「悩んでるねえ」


 白くペイントされた木製の小さなテーブルを挟んだ向かい側で、綾子さんが楽しそうにそう言ってラムネを啜るように飲む。

 日曜日のショッピングモール。中庭のテラス席は家族連れでいっぱいだ。すぐ隣の席では小さな女の子が買ったばかりのアイスを地面に落としてしまって泣いている。


「俺どうしたらいいんだろ。なんか、そういう感情をがっぽりすっきり消してしまう機械とか欲しい。ドラえもん落ちてねえかなあ」

「隼人ってさあ」


 そう言いかけて綾子さんは席を立ち、近くの露店でアイスを注文する。すぐに受け取って、隣の席の、泣きじゃくる女の子に手渡した。女の子はしゃくりあげながら驚いたように目を丸くしてそれを受け取る。一緒にいた小学生くらいの姉が、綾子さんに頭を下げた。


「隼人ってそんだけ顔も良くて背もそこそこあって、口だって悪いし、なあんも悩みなさそうな顔してるくせにさ。意外と何でもぐだぐだと悩むの好きだよね」


 綾子さんは席に戻るなりそう言って、いかにも可笑しそうに笑う。


「……どう返せばいいの、それ」

「褒めてるのよ」

「そうは聞こえなかったけど」


 にっ、と笑って女の子に手を振る。女の子は姉にぐしゃぐしゃになった顔を拭いてもらいながら、綾子さんにちいさな手を振った。


「ねえ隼人、私ね」


 ショッピングモールのすぐ側にある国道を、轟音を響かせながら大型のダンプが通りすぎる。一台、また一台。この辺りは少し前までは何もなかった場所で、最近になって急ピッチで開発が進められている。たくさんのテナントが入った低い建物の向こうに、建設中の大きなマンションがいくつも見えた。


「結婚するの」


 遠くで、鉄筋をぶら下げたクレーンが慎重に上がっていくのが見える。金属を打ち鳴らす甲高い音が響いた。


「お見合いなんだけどね。良い人みたいだったから速攻で決めちゃった。式は来月」

「ちょ、なにそれ聞いてないし」

「言ってないもん」


 綾子さんは手に持ったクレープの包み紙をテーブルに置いて小さく小さく折りたたみながら、顔も上げずにそう言って笑う。

 ラムネの瓶の飲みくちに引っかかっていたビー玉が、からん、と音を立てて落ちた。


「結婚……、するの」

「うん、する」

「どっか、行っちゃうの」

「うん、九州にね。田舎のほうだけど、すごくいいとこみたいよ。冬もあったかくて」

「九州」

「そう。方言きつくなかったらいいなあ」

「どんな、人」

「うん、どんなって。優しい人だよ。園芸が趣味で、邦画が好きで、あと、動物が好きなんだって」

「そう」

「うん、そう」


 話している間も綾子さんは顔を上げず、クレープの包み紙は更にちいさく折りたたまれて小さな豆みたいになった。そこでようやく顔を上げた綾子さんはそれでも視線は落としたまま、目を閉じてゆっくりと息を吐いた。


「あいつは、どうすんの」


 もう何年も愛情だけを求めて毎日のように会っていたあの男とは、どうなったんだ。顔も知らない見ず知らずの男に歯がゆさを覚えた。


「あれねえ、嘘なの」

「は!? 嘘!?」


 綾子さんは頬杖をついて俺を見上げ、まるで小さなイタズラがばれた子どものような顔で、えへへと笑った。

 嘘って、嘘ってどういう事だ。今まで散々俺に、不倫相手の話をしたじゃないか。いや、それでも俺がしつこく聞いた時だけだった気もするけれど。


「ぜーんぶ嘘。ごめんね。私は奥さんのいる人に興味はないんですー」

「な、ちょっとどういう事? 意味わかんねえんだけど。なんでそんな嘘ついてたの」

「なんでって。だってそうでもしなきゃ」


 遠くでパトカーのサイレンが響く。綾子さんは一瞬音のするほうを見て、小さく息を吐き出す。


「そうでもしなきゃ、隼人とおなじ気持ちになってあげられなかったから」

「……は?」

「軽蔑してくれていいよ。だけど」


 綾子さんは、だけど、と言ったきり押し黙って、なにか逡巡するようにぐるりと辺りを見回した。


「私はさ、今の隼人の背中を押してあげられる程子どもじゃないんだよ。無責任に、叶えばいいねなんて言えない」

「綾子さん」

「それで、例えば隼人の想いが叶ったとして、周りの誰かを傷つけてしまったとき、そんな隼人を慰めて包んであげられる程大人でもないのよ。今だってどっかで、叶わなきゃいいって願っちゃってるし」


 俺は綾子さんにはっきりとヒロのことが好きだとは言ってはいない。けれど、散々ヒロの事ばかり口にする俺を見ていた綾子さんにはわかったはずで、俺もだから、そんなことは今更言うまでもないなんて思ってしまっていた。だけどこうして改めてそれを前提として話をされると、妙に戸惑う。

 そして何より、本当に想いが叶う叶わないにかかわらず、これまで密かに応援してくれていたように見えた綾子さんの口からそんな事を言われて、ずいぶん勝手だけどショックを受けている自分もいた。


「俺……わかんねえ。俺はだって、ヒロに何も言う気はねえよ。ずっとこのまま、でいい。背中押すとか押さないとか誰かが傷つくとかそういう……」

「嘘つきねえ、隼人も」

「は!?」


 そういえばこの前智也もそんな事を言っていた。なにが、どれが嘘だって言うんだ。だって、俺はずっとこのままで居る為に色々と策を練っているわけで。いや、だけど俺が本当に望んでいるのはそういう事じゃないだろうって、そういう事なのか。だけどそんな願望を言葉にしてしまえば後戻り出来なくなりそうでこわい。本当は、言葉にするとかしないとかでも、ないんだろうけど。


「大好きな人の隣にいて手も出せなくていいの。海で抱きしめて、あんたはヒロ君にキスしたくなったんでしょ? だけど何も出来なかった。それはどうして? ヒロ君の気持ちを考えたのはわかるけどそれだけじゃないでしょ? あんただって傷つくのが怖かったんでしょ? 例えば世界中にヒロ君以外誰もいなかったとしたらあんたはどうするの! どうせひん剥くんでしょうが!」

「ひん剥くって……ちょ、綾子さん声がでかい!」

「おっと、頭に血がのぼった。失礼」


 綾子さんの声はわりと通りにくいけれど、さすがに今のは誰かに聞かれたかもしれない。幸い校区外だからあまり影響はないとしても、もし知り合いなんかが居たらどうしてくれるんだ、この人は。

 いそいそと綾子さんの手を引いてショッピングモールの裏に位置する大通りに出た。ここならあまり人は歩いていないうえに、車が行き交う騒音で声もかき消されてしまう。


「勘弁してよ……」

「悪かったわ、つい。でもね隼人。自分の欲望を押し付けるのは良くないことだけど、自分の欲望を知る事は大事なのよ。自分くらいは自分の事を知ってあげなくちゃ」

「欲望って……ね、俺を獣みたいに言うのやめてくれる?」

「だって怖いんでしょ、隼人は。もしかしたら自分はあるとき理性を失ってヒロ君を襲ってしまうかもしれない。ひん剥いて、あれしてこれして……」

「ストーップ! ちょっと、おかしいから。言ってることおかしいから」

「おかしくなんかないわよ。好きな人とセックスしたくなるのは自然な事だわ」


 変なことばかり言わないで欲しい。家に帰れなくなる。キスしたくなっただけで抑えるのに必死だったのに、そんなことになったら俺はもう二度とヒロに顔を合わせられない。いや、正直考えた事がないわけじゃあ、ないけど。


「わかった。わかったからさ。あんま、多感な少年をいじめるのはやめて」

「いじめるわよ。だって、私は振られ続けたんだもの」


 行き交う車が綾子さんの声を吸い込んでゆく。アスファルトに落ちた街路樹の影がゆらゆらと揺れて、前に伸びる俺と綾子さんの影と混ざる。

 まるで俺たちは色のない絵の具のようで、いつの間にか世界に溶けてしまいそうで怖くなる。太陽が沈んでまた昇っても、誰も俺たちのことは覚えていない。だけど世界は続く。


「出会ったその日からずうーっと、隼人はヒロ君しか見てなくて」

「……まあ、そりゃ」

「口開けばヒロヒロヒロヒロああうるさいなこのガキは! って」

「……」

「だけどさあ。そんなふうに誰かを一生懸命思ってる隼人が、すごく何だか大切に思えて」


 一匹の蝉が、すぐ目の前の木にとまる。じりじりと声をあげて鳴き出したと思ったら、力尽きてぽとりと地面に落ちた。

 綾子さんは立ち止まり、しゃがみ込んでその蝉を見つめる。


「蝉の七日間と人間が誰かを想う時間の長さは一緒だと思うのよ」

「……え?」

「蝉って何年も土の中にいて、地上で生きられるのはたったの一週間でしょ? そのたったの一週間で命をかけられる程の相手を、大声で求めるのよ。人間だって赤ん坊の頃なんてなんにも考えてなくってさ。あれは土の中に居るのと一緒よ。目が覚めて、自分よりも誰かを大切に思う時間なんて人生の長さに比べればほんの少ししかないのよ」


 綾子さんは指先で、息絶えてしまったかのように見える蝉をつつく。蝉は思い出したかのように手脚を動かし、あっという間に飛び立っていった。


「こんなに大声でヒロ君を求めてる隼人は、私の愛なんて拾ってる暇はないでしょ」

「……綾子さん」

「それに私、今年もう三十になるのよね」


 子どもだって欲しいし、産むならそろそろタイムリミットだから。綾子さんはそう言って、仕方なく笑った。


「だけど楽しかったよ。隼人に会えて良かった」

「それ、もう会えないみたいな言い方だし」

「もう会えないわよ。……会わない」


 綾子さんは立ち上がって、真っ直ぐに俺を見上げた。生ぬるい風が、俺と綾子さんの間を吹き抜けて行く。


「ごめんね。愛してた」


 一瞬、唇にやわらかいものが触れた。


「ばいばい、隼人」


 ゆっくりと離れた綾子さんは不器用に口を横に広げ、にっ、と笑った。そうして俺のすぐ横を通り抜けて、今きた道を振り返りもせずに歩いて行った。


 






 家に帰り着いて玄関の戸に手をかけたとき、後ろからヒロに声をかけられた。図書館へ行った帰りらしく、手には本が数冊入った鞄を持っている。


「隼人、意外と早かったね。デートじゃなかったの?」

「まあ、うん」

「あれ……隼人、泣いた?」


 玄関で靴を脱いでいるとき、先に小上がりに立ったヒロがそう言って俺を覗きこむ。小上がりの高さは十センチもないけれど、こうするとヒロと俺の目線はほぼ同じ高さになる。思わず目を逸らして、ヒロのわきを通り抜けた。


「なんで。泣いてねえし」


 電車を降りてすぐに駅のトイレで顔を洗って、涙の跡なんかないはずなのに、こいつにはわかってしまうんだ。

 綾子さんと別れて、その姿が見えなくなるまでぶつぶつと文句を言っていた。ただ文句を言っていただけのはずだったけど、気がついたらばかみたいに泣いていた。

 後悔とか自責の念とか、そういうものを綾子さんはきれいに持って行ってしまった。最後に、自分だけを責めて。


「隼人、なんかあった?」

「なんもねえって」

「……そう、じゃあいいけど」


 じゃあいいけど、と言った割には未だ心配そうに眉を下げるヒロに仕方なく笑ってみせる。大丈夫。小さく呟いたら、ヒロはやっぱり眉を下げたまま少しだけわらった。








「ね、隼人。僕こういう本借りてきちゃった」


 部屋の窓を開けたところでヒロが本を片手にノックもせずに部屋に入る。振り返ったら、ヒロは得意気な顔をして『やさしいギターの弾き方』と書いてある本を掲げてみせた。


「言ってくれればこういうの俺いっぱい持ってんのに」

「なに言ってんの。隼人の持ってるのは目が痛くなるくらいおたまじゃくしが踊ってるやつでしょ。僕はこーいう基礎から入んないとだめなの」

「おたま……まあいいけど、貸してみな」


 ヒロが言いたいことは何となくわかる。俺の持っているのはコードの一覧とバンドスコアだけだ。初心者そのもののヒロには、スコアなんか、おたまじゃくしが踊っているようにしか見えなくても仕方ないのか。


「結構覚えたんだけど、頭で考えるのと弾くのとはだいぶ違ってさ」

「そらそーだろ。こんなもん頭じゃなくて体で覚えんだよ。ギター持ってきな」

「今持ってくる」


 ヒロが部屋を出てギターを持ってくる間に、机の側の壁に立てかけていたギターを手に取る。安物だけど、小遣いを貯めて買ったお気に入りだ。練習も本番もこれ一本だから不安といえば不安だけど、まあ仕方がない。高校生になったらバイトでもしてギブソンくらいは手に入れたいけど。


「やっぱりね、FとBがね」

「押さえてみな」

「うん、ほら、指に力入んなくて」


 ベッドに座ってコードを押さえるヒロを後ろから支えるように座る。距離が近い気もするんだけれど、この場合仕方がない。

 懸命に理性を前面に押し出して感情を封鎖。なんてことが出来れば苦労はしないんだけれど。幸い今は綾子さんとの別れが効いていて、そういう欲は出てこない。何というか、怪我の功名。


「手首を使うんだよ。もうちょい曲げて」

「痛い痛い痛い」

「腕から、こう」

 

 ヒロの左腕に手をかけて、ぐっと前に押す。意外と手首が硬い。下手なことをすると痛めてしまう。押すのをやめて、自分がコードを押さえて手本を見せてみる。


「こう?」

「違う違う。もっとこう、柔らかく。ここ押さえなきゃ変な音になるから」

「無理だよー」

「諦めんなよ……。こんどカポ買ってやるよ」


 ヒロは自分の左手をじっと見つめて、それから俺の左手を眺める。


「なに」

「いや、僕、手小さいかも」

「関係ないって。女の子だって弾いてるし」

「それもそうか。でも隼人、手大きいね」


 そう言って、俺の左手を持って、自分の手を上から重ねた。ヒロのちいさな手はひんやりと、冷たかった。


「隼人、指ながーい。なんで?」

「なんでって。ヒロ、手ちっちゃ」

「でっしょ。むかつくなあ。僕、アルトリコーダーも苦労してんだよ。信じられない」

「ぶっ」


 大きなアルトリコーダーを手に四苦八苦しているヒロを思い浮かべて、思わず吹き出した。ヒロは眉間にしわを寄せて俺を睨み上げた。


「笑うなって。これ、死活問題でしょ。色々不便なんだよ」

「色々って、例えば?」


 左手を合わせたまま話を続けるヒロに、気づかれないようにそっと手を返して指先を握ってみる。冷たい皮膚の下に、暖かい体温を感じる。


「ええと、例えば? うーん、だからこういうギターとか、リコーダーでしょ。それからほら、バスケのボールとか、片手じゃ絶対無理だし」

「無理だろうなあ、あれは手大きくないと。バレーボールだったらいけるだろ」

「……まあ、なんとか」

「なんとか、なんだ」


 また吹き出したら、こんどは唇を尖らせて睨み上げられた。斜め下から、しかも振り向きざまだから迫力がある。下手をすれば呪われてしまいそうな勢いに、思わず笑ってしまいながら謝っておいた。


「いいなあ、隼人の手」


 背中越しのヒロの声はどこか大人びて聞こえて、声をひとつ出すたびに伝わる振動が心地良い。ヒロは俺の手を取って、両手で手のひらや指を弄んだ。心臓の鼓動が伝わってしまうと、やばいかもしれない。不意に綾子さんの言葉が頭の中で再生されて、色々と想像してしまいそうになってぶんぶんと頭を振った。

 伸びをするふりをしてヒロから離れて、ヒロの持ってきていた本を手に取った。ヒロは名残惜しそうに俺の手をちらりと見てため息を吐いた。ため息を吐きたいのは、俺だ。


「ヒロ、コードはいいの」

「あ、忘れてた。もういいや、僕才能無いみたい。隼人、歌ってよ」


 諦めの早いところはヒロのいい所でもあるし、悪いところでもある。まあ、そんなことを言って陰で努力しちゃう奴だから、ここは俺が口出しをするところじゃない。


「いいけど、なに」

「あのほら、バラードっぽいやつ。夏に公園でどうこうって」

「……てめ、覚えるならちゃんと覚えろよ。『夏の日』だろ」

「それそれ。はい、さーんはい」

「さんはいって、お前ね」


 苦笑いして、ヒロの持ってきた方のギターを手に取る。この曲なら、アコギのほうがいい。

 『夏の日』は、他の曲とは違って綾子さんをイメージして作った曲だった。どうして今この曲なのか気になったけれど、理由を聞くのもどうかと思ってやめた。

 最初のコードを押さえて弾いたら、めちゃくちゃな音が響いて体中の力が抜けた。


「待てお前これ、チューニングしてねえじゃん。ちょっと待って」

「えー。こないだ合わせたんだけどなあ」

「使う前に毎回合わせんの。特に夏は湿気で伸びるだろ」

「ふーん、そんなもんなんだ」


 チューニングを済ませて最初のコードを弾くと、ヒロは勉強机の椅子に移動した。いつもこんなふうに、俺がギターを弾き始めるとヒロは椅子に座って、目を閉じる。俺がギターを始めた頃から、ずっとそうだ。二年前のヒロときれいに重なって、思わず口元が緩んだ。


「なあに笑ってんの」

「べつに」


 ゆっくりと歌い始めたら、ヒロはまた目を閉じる。

 この歌を綾子さんに歌ってみせた時、綾子さんはそれまでに見たこともないくらい幸せそうに笑っていた。歌を作ってもらえるなんて、私は幸せものね。そう言って照れたように微笑んだあと、開け放たれた窓の外を見つめて、そうだよね、と呟いたんだ。

 この歌の歌詞には、愛だの恋だのという単語は使っていない。だって先に綾子さんがそう言ったんじゃないか。心のなかで言い訳をして、同じ空を見上げた。

 求めた誰かに愛されなかった悲しみと、愛してくれる人を愛せなかった悲しみは、どっちが大きいんだろう。俺はこの先この歌を口ずさむたびに、綾子さんが最後に見せた不器用な笑顔を思い出すんだろう。

 サビに差し掛かったところでヒロが、なにかを思いついたように目を開けて、ねえねえ、と遠慮がちに俺を見上げた。


「ここ合わせて歌っていい? 上覚えてる。淳のパート」

「まじで? じゃあよろしく」


 緩やかなギターの音色と、ヒロの声。のびやかで繊細な声が、俺の歌に沿う。きれいなハーモニーがうまれて、何だか泣きそうになった。


「うわー、めっちゃ気持ちいいね」


 歌い終えたヒロは上機嫌で、他のもやろうと言い出した。言い出した所で、ドアがノックされて母が入ってきた。苦笑いを浮かべている。これは、苦情の申し立てだ。間違いない。


「すごーく気持ちよさそうに歌ってるとこ申し訳ないんだけど、ごはん。それとね、もう夜だからそろそろ……」

「わかった、わかりました。今すぐやめます!」

「えー、やめちゃうの」


 ヒロがわざとごねて見せて、母がヒロを軽く睨んでみせる。ヒロは楽しそうに笑って、ギターを手に部屋を出た。


「ヒロ君歌うまいねえ。淳君よりいいんじゃない? なんで一緒にバンドやらないの」

「な。うまい。びっくりしたわ。でもやんねえんだってさ」

「もったいないわねえ」


 母はそう言って、ヒロが持ってきていた本をぱらぱらと捲って目頭を押さえた。部屋から出てきたヒロは廊下で俺の部屋を覗きこむ。


「おたまじゃくし苦手……」


 そう呟きながら階段を下りる母に、俺とヒロは顔を見合わせて笑った。

 部屋を出たときヒロは俺の隣で、ちいさく呟く。


「僕じゃ頼りになんないかもしれないけどさ……」

「え?」

「つらいこととか、話せることあったら、僕、聞くから」

「ヒロ……」

「なんて、僕、偉そうだね。おなかすいたから行こっか!」


 ヒロは眉を下げて笑って、階段を一段、下りた。


「ヒロ」

「んー?」


 手すりを掴んだヒロは、俺を振り返り見上げる。少し伸びた前髪が、さらりと耳におちた。


「さんきゅ」

 

 笑って見せたら、ヒロは照れくさそうに笑って、頷いた。



 



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