足音・9
夕暮れの砂浜は、少し肌寒い。
「夕陽が水平線に沈むとこ、こっからは見えないんだね」
ヒロはほんの少しだけ後ろを歩く俺を振り返って見上げる。白いシャツが潮風を孕んで揺れた。
ヒロと一緒にもう少しここに居ると言うと、皆が俺の肩をぽんと叩いて、にやりと笑って帰って行った。まあ、恋人同士にはいいシチュエーションなのかもしれないけれど。
「ああでも、水平線の向こうから夜がやってくるって思えばかっこいいかもしれない」
「かっこいいとか、かっこよくないとかそういう問題?」
「そういう問題」
ヒロはそう言って何故か得意気に笑う。砂浜に、後ろ向きの足跡が等間隔で残る。引き潮だから波が消してゆくこともない。
静かな波音がやさしく耳に届く。遠くで船の汽笛が聞こえた。
「隼人、隼人」
「んー?」
ヒロは背を向けてしゃがみ込んで、なにか探している。暫くごそごそとやっていたと思ったら振り返って俺を見上げ小さな貝殻を指先に挟んで掲げて、わらった。
「見て、桜貝!」
どうしたらいいんだろう、今俺はヒロを思いきり抱きしめてしまいたい。心臓を素手で鷲掴みにされたような気がして、どうにかして自分を落ち着かせようと深呼吸をした。
「……え、可愛くない? こんなちっちゃいのに綺麗でさー」
ヒロは立ち上がり、俺の顔の前まで桜貝を持ち上げて見せる。
「可愛いよ」
ヒロが。そう言いそうになって、飲み込んだ。
「なんでそんな怒ったみたいな顔してんだよ」
「え、怒ってないし」
頬が緩んでしまうのを何とか抑えようとして仏頂面になっていた。ヒロは不満そうに唇を尖らせて、桜貝を波に向かって投げた。微かに残った夕陽が貝に反射してきらりと光った。
「隼人」
「……うん?」
ヒロはまた歩き出して、ゆっくりとそのあとに続く。ヒロの、俺のより少しだけ小さな足跡を辿ってみる。
「家、出るの?」
この話が出てくることは想定していたはずだ。それに自分から話を切り出すつもりでもいた。けれどこうして目の前に突きつけられると、息ができなくなってしまいそうだった。
黙りこんだ俺を、振り返ったヒロが見上げる。逃げてしまいたい。だけどそんな訳にもいかない状況に、少しずつ冷静になる。
「迷ってる」
今の気持ちとリンクする言葉を正直に口にしてみたら、ヒロは目を丸くして、右を見たり、左を見たり。考えているんだろう、俺にどんな言葉をかけるのがいちばん俺のためになるのか。ヒロはいつも、そうだ。
「隼人の将来のことだからね。隼人は僕のことを考えてくれて迷ってるんだろうけど、気にしなくてもいいから」
「ヒロ」
「涼子さんとだってうまくやっていくし、それにほら、智也だって、淳やコウも居るし。僕、大丈夫だよ」
ヒロは自信たっぷりな表情でそう言い切った。そんなふうに言われてしまうと、何だか寂しい。自分勝手この上ないけれど、自分がいなくなって困り果てるヒロをなにがなんでも想像しようとしてしまう自分がいた。
寂しいって言えよ。嫌だって言って、止めろよ。
「迷ってる理由ってそれでしょ? 隼人には隼人のやりたいことがあるなら迷わないで欲しいし、僕なんかのことで台無しにしてほしくない」
「違う」
言わなければいいのに、思わず「違う」と言ってしまって後悔する。ヒロは不思議そうに俺を覗き込んで、なにが違うの、と首を傾げた。
「違うことないでしょ」
「ヒロ」
「あのね隼人、僕、隼人のつくった歌たくさん覚えたんだよ。コード進行はまだちょっと、指が言うこときかないけどさ。そのうち隼人みたいに弾き語りなんかできちゃうと思うんだ。音源もあるしね」
ヒロは俺の言葉を聞く気がないらしく、くるりと向こうを向いたかと思うとさくさくと歩いて勝手に喋り続ける。
「隼人の書く詞、好きだよ。そりゃ寂しいけどさ、隼人の歌があるから平気だよ」
「ヒロ」
「でも、時々は帰ってきてよ。やっぱちょっと……」
「寂しい?」
「……寂しくない」
後ろを向いたままのヒロと、その背中を見つめる俺のあいだに、潮風が吹く。拗ねたように「寂しくない」と言ったヒロの言葉がまるで超えられない大きな壁みたいに立ちはだかった気がした。このまま離れてしまったらヒロが見えなくなりそうで、こわい。
「嘘つけ。寂しいくせに」
寂しいのは、俺だけど。ここで無理矢理ヒロの言葉を引き出そうとしてしまう俺は、ずるい。寂しいんだと言わせて、そう思い込ませようとしているんだ。俺は、ずるい。だけど言って欲しい。
ヒロは一度だけ振り返り唇を尖らせ、眉を下げる。そうしてむこうを向いて右足で砂を蹴った。湿った砂は何の音も立てずに、ちいさな山になった。
「……寂しいよ」
「え、ほんとに?」
「うるさいなあ、もう」
「ほんとに?」
「……寂しいってば」
ヒロがそう言い終わらないうちに、後ろ向きの背中を抱き締めた。ヒロは一瞬、肩を揺らす。ヒロのやわらかな髪が頬を擽る。ヒロの体温が、腕の中にある。息遣いが、きこえる。
「……隼人、苦しい」
「ごめんちょっと、このまま」
「隼人……?」
ヒロが振り返らないように両腕を後ろから掴んだ。今俺はどんな顔をしているんだろう。わからないけれど、今見上げられたら全部伝わってしまいそうな気がした。いや、伝わればいいんだ。
この鼓動の速さでこの気持ちが伝わってしまえばいい。
ヒロが今振り向いたら、唇をかさねてしまえばいい。
「隼人、どうしたの」
「……ごめん」
お前を好きになってしまって、ごめん。
いつか傷つけてしまうかもしれない。
「なにが? 家を出る事?」
「ごめん」
今すぐこの手を放してやりたいけど、出来なくてごめん。
……抱きしめて、ごめん。
「隼人……、泣いてるの?」
「泣いてない」
俺はこんな気持ちを、どうやったら失くしてしまえるんだろう。
花村の言うように、好きになるという気持ち自体が奇跡で大切なものだと言うのは理解できる。だけどここで気持ちを伝えてしまえば、俺もヒロも、どこにも居場所なんかなくなってしまうんだ。
ヒロがやっと手に入れた居場所を奪ってしまうことなんて出来ない。ヒロが守ろうとしているものを俺が奪ってしまう権利なんか、ない。
「あ、陽が沈む。見て」
そう言ってヒロが指さした山の端。濃いオレンジの光がゆっくりとその姿を消してゆくのが見えた。陽は沈むけれど、明日もまた同じ太陽が姿をみせるとは限らない。どこかで耳にしたその言葉が脳裏を過る。明日俺は今日と同じようにヒロの隣に居る事ができるんだろうか。明日もまたヒロは俺の隣で笑っていてくれるんだろうか。
「太陽が沈む瞬間なんてそうそう見ないよねえ。夕焼けは見てるのに、不思議」
ヒロは呑気にそんな事を言って、振り返る。柔らかな前髪が俺の鼻先に触れた。ヒロの髪の香りがふわりと鼻腔を擽る。心臓がまるで大きな手で掴まれてしまったように、痛い。痛いけれど、どこか夢を見ているような心地良さに酔ってしまいそうになる。視線を少しずつ下げたら、未だになにかをしきりに喋っている唇が目に入る。ふと身を屈めそうになって、息を飲んだ。
「帰ろう」
ヒロから離れて、荷物の置いてある場所に向かって歩いた。ヒロは納得のいかない顔をして追いかけてくる。
「隼人、待ってってば。なんか切り替え早過ぎない?」
「早過ぎない。ああ腹が減った」
「なんか棒読みなんだけど」
「気のせいだ」
言えるわけがない。キスしそうになったなんて。ヒロの髪の香りにつられて、僅かにしか残っていなかった理性を完全に失いそうになった。きつい。こんなこと、そう長くは持たない。




