足音・6
「ふざけてんじゃねえぞお前、ヒロに何した! 言え!」
泥水が花村の顎を伝い、落ちる。その花村を見下ろす俺も、たいがい泥だらけだ。
これ、絶対ヒロに文句言われる。泥は落ちにくいんだから、なんて言いながら迷惑そうな目を向けるヒロが容易に想像できて、ため息が出た。
「何もしてません! こ、告白しただけです!」
「は!?」
「好きだって言ったんです! それだけです!」
「それだけ……」
全身の力が抜けた。まあ、万が一にもこんなモヤシみたいな奴がヒロを襲ったり出来る訳がないし、冷静に考えたら深く追求するようなことでもなかった。
相変わらず降りしきる雨の中、全身ずぶ濡れで息を切らせて佇む俺と、泥だらけでうずくまりすすり泣く花村。何ごとかと窓を開けて様子を見守る人影もなく、ただなんだか、虚しい。
玄関に戻って、さすがに中まで入るのを躊躇った俺と花村は、三和土に置いてある簀子に座り込んだ。
花村は半泣きで眼鏡を拭きながら、ぶつぶつと文句を言う。文句を言いたいのはこっちだ。何でもないのなら始めからそう言えばいいのに。
「クリーニング代」
「……えっ?」
「クリーニング代出せこら! ばかじゃねえの!? 無駄に汚れたじゃねえか、責任取れこのハゲ眼鏡!」
「だって、そっちが追いかけてくるからじゃないですか!」
「は!?」
花村は細い目を丸くして、唇を尖らせて抗議する。どうしてさっきより強気なんだ。言いづらいことを言って、俺の反応が思ったよりも甘かったのか。じゃあどうしたら良かったんだ、俺はこいつを殴ってしまえば良かったのか。
ため息を吐いて睨んだら、花村は眼鏡をかけ直して肩を竦め、同じようにため息を吐いた。
「……ヒロに告白して、あいつ何て言ったんだよ」
ポケットの携帯は少し濡れてしまったけれど、無事だった。開いて時間を確認すると、十九時を回った所だった。雨はほんの少し勢いを失ったように見える。
「意味わかんない、って言われちゃいました」
「え、なにそれ」
「タイミングが悪かったんです。それで僕、まあ、原因はそれだけじゃないんですけど、不登校になっちゃって」
そりゃあまあ、気持ちは解らないでもない。告白なんて、それも同性にめちゃくちゃ勇気を出して告白して、そんなふうに言われてしまったら。俺が不登校になるかどうかは別として、落ち込む気持ちは解るかもしれない。
「それは、まあ、ヒロが、悪いことしたな」
「いえ、いいんです。空気読めなかった僕が悪いんですから。それに、ちゃんと後で話してくれたんです」
申し訳程度に頭を下げてみたら、花村は顔の前で手を振って、なにか遠い日の綺麗な思い出を振り返るように、雨の上がり始めた校庭を眺めて少しわらった。玄関前にある小さな外灯が、雨脚の弱くなった空間をまるく照らし出す。
「誰が。ヒロが?」
「はい。家まで来てくれて。ちゃんと考えた。気持ちはすごく嬉しかった、って言ってくれて」
ヒロは、そういう奴だ。俺が小学生にラブレターを貰った時だって、一生懸命に想いを込めて書いたんだからちゃんと返事をしろと訴えられた。
明け方近くまで起きて手紙を読んで、俺なりにちゃんとした返事を考えた。お陰で机で寝てしまった俺の髪についた寝癖は一日中治らなかった。
「なあ……、いっこ聞いていいか」
「はい。何でしょう」
花村の素直な目を見ていたら、どうしても聞いてみたくなった。
どう考えても勝算のない勝負に、どうして躊躇いもなく挑めるのか。負けてしまったときに失うものが、大きすぎやしないか。
「ヒロのこと、どんくれぇ好きなんだよ」
「ああ、だった、です。今は恥ずかしながら、違う学校に、その、お付き合いしている人が」
花村は身をよじって、わかりやすく照れてみせた。でも、羨ましいくらいに幸せそうだ。多少気持ちが悪いが、それは置いておこう。
「あ、そう。それはおめでとう」
「ありがとうございます!」
「で、な?」
「はい?」
両手で頬を挟んで真っ赤になっている花村は、にやけた顔のまま俺を見上げる。体温が一気に上がったのか、眼鏡が曇っている、なんでこいつはこう、コミカルなんだ。
「なんで、そんなリスク背負ってまで、言えるの」
もし断られれば、付き合う付き合わない以前に、その存在をうしなってしまうかもしれない。マイノリティーなその感覚に、唾を吐きかけられるかもしれない。怖くはないのか。
「なんでって……」
「そりゃ、理解してくれる人は増えたつってもさ。まだまだだろ、そういうのってさ。なんでそう、怖がんないで突っ走れるんだろうって」
花村は眼鏡を拭いてかけ直し、俺の目をじっと見上げる。一度何か言いかけてやめて、ゆっくりと瞬きをしてから、また口を開いた。
「……だって、何も保証なんてないじゃないですか」
「保証?」
「明日が必ず来るって保証も、今息をして次の瞬間もまた息が出来るなんて保証はどこにもない」
花村は泥だらけの膝を抱えて、そう言って大事そうに息を吸い込む。
「僕はいつも、怖がってるんです。こんなに退屈でつまらなくて平和そのものの毎日が、突然音をたてて跡形もなく消えて」
「……」
「目の前に広がる惨憺たる光景に息を飲んで、震える膝を引きずって泣きながら歩かなきゃいけない日が来るかもしれない」
「大袈裟だな」
ポケットに突っ込んだ携帯が一瞬だけ、震える。ヒロからのメールだった。
――どうせまだ待ってるんでしょ。今終わったから、玄関で待っててね。
「だから今、こんなふうに雨が上がりそうな時の綺麗な空気とか、家でかき氷食べたり、土手歩いたり、空見上げたり、そういうひとつひとつの瞬間が嬉しくて、泣きたくなったり、するんです」
花村はそう言って、すん、と鼻を啜る。
脳裏に浮かぶのは、雨上がりの夕暮れ。ヒロとふたり手を繋いで歩いた散歩道だった。ふたりで深呼吸して、ついでにあくびして。涙目で見上げた夕焼けが滲んで、ものすごく綺麗だった。
「そういうひとつひとつの奇跡って、次も必ず起きるなんて保証はなにもないんです。ただ、信じているだけで」
「……うん」
「だから、僕のこの誰かを好きになるっていう気持ちだって、奇跡だって思えるんです。こんな、ドキドキして、幸せで、他には代えられないこの感覚を大事にしたいんです。周りの誰が何を言ったって、そんなこと僕には関係ないんです」
だから、例えばその対象が同性であったとしてもそれは全く問題にはならないんだ、と。もしそれで理解されずに嫌われてしまったとしても、また一からやり直せばいい。そう言って花村は笑った。
「なんつうか、言ってること半分くらいしか意味わかんなかったけど、いいこと言ってるってのはわかった」
「ちょ、僕一生懸命話したんですけど!」
立ち上がって伸びをしたら、花村はまた顔を真赤にして抗議した。その時、近くのロッカーを閉める音がして、ヒロが姿を現した。手には朝持っていなかったはずの、大きな傘を持っている。
「隼人。やっぱ待ってたんだ」
「おう。お疲れ」
ヒロは俺を見るなり少し眉を下げて笑う。それから目を丸くして、隣の花村と、俺を交互に見比べてから思いきり眉を顰めた。
「……ええと、まずその泥だらけなのは、なんでかな。あと、なんで花村?」
「なんでって、ひどいなあ。傘持ってないから雨が上がるまで待ってたんだよ」
花村はそう言って唇を尖らせ、それから楽しそうに笑った。
「外で鬼ごっこでもしたの?」
「あながち間違いじゃない」
「どういうこと?」
首を傾げるヒロを見て、俺と花村は目を合わせて苦笑いした。
「じゃーね、花村」
「うん、気をつけて。篠崎先輩も」
裏門の前でそう言って手を振ると、花村はすこし間を置いて、ゆっくりと歩き出す。俺とヒロも携帯の灯りと外灯を頼りに歩き出した。雨はすっかり上がって、土の湿った匂いと草の匂いが立ち込める。
「篠崎先輩!」
俺たちとは反対の、小学校に繋がる道を国道に向かって歩いていた花村は振り返って叫ぶ。
「なに!」
「怖がったっていいんですよ! だから、大事にできるんです!」
そう言って、花村は手を振ってまた歩き出した。
「……生意気」
花村が俺の質問に、一瞬黙り込んだのを思い出した。なにか、感じ取ったんだろう。だけどあいつは何も言わなかった。
「何の話?」
「何でもねえの。腹減ったな、帰ろ」
ヒロに笑ってみせて、泥だらけの手を裾で拭いてからヒロの手を取る。ヒロは持っていた傘を肘の方に移動させてから、俺の手を握った。こんなことだって、立派な奇跡なんだろう。
「何でもないの? ね、隼人と花村っていつの間に友達になったの?」
「友達じゃねえし、別に」
「え、仲良さそうだったけど……。鬼ごっこしたんでしょ?」
「おま、ホントに鬼ごっこしたと思ってたの?」
「え? 違うの?」
土手沿いの外灯がヒロの不思議そうな顔を照らす。思わず吹き出したら、ヒロは困ったように眉を下げて俺を見上げた。
「お前その傘どうしたの。朝持ってなかったじゃん」
「なんか、先輩が貸してくれた」
「断れよ、そんなもん」
「なんでだよ。親切は受け取ろうよ」
こんなふうに、ヒロと手を繋いで歩く。こんなに綺麗な雨上がりの空気の中で。
一瞬目を閉じてゆっくりと開くと、ヒロはまだそこにいる。
怖がったっていい。だから、大事にできる。必要なのは怖がらないことじゃない。ただ、ここにある奇跡のような毎日を、奇跡なんだって気づくこと。
「花村、いいやつだな」
呟いたら、ヒロは嬉しそうに笑って、俺の手をぎゅっ、と握りしめた。




