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水の音  作者: さくら
16/67

足音・2

 







「もう外、暗いね」


 薄暗い部屋のベッドの上で、綾子さんがむくりと上半身を起こす。薄手の綿毛布が胸元からするりと落ちて、ふたつの綺麗なふくらみが露わになった。隣に寝転んだままそこに手を伸ばすと、その手を片手でぱちん、と叩かれた。


「痛い」


 綾子さんはいつもこんなふうに、ことが済んだらさっさと他人の顔に戻る。確かに俺と綾子さんの関係では穏やかにピロートークという訳にはいかないのはわかるけれど。


「さっさと服着なさい。早く帰らないと、おかーさんとヒロ君が心配するわよ」


 綾子さんはゆっくりとベッドを出て、瞬く間に服を着てしまう。キッチンに入り小さな冷蔵庫の扉を開けると、その周りがぼんやりと明るくなった。暗闇にうかぶ光が、まるで夏祭りの灯りみたいだと思った。夢中になって遊んだあとの、最後の出店の灯りが消える頃の切なさが蘇る。


「……じゃ、家の近くまで送ってよ。どうせ今日も行くんだろ? あいつんとこ」


 がさごそとジーンズを探し当て片足を通して顔を上げると、冷たい感覚が額にぴたりとくっついた。ブラウンの薄手のカーテンから漏れる外階段の灯りが綾子さんの複雑な表情を浮かび上がらせる。ペットボトルを受け取って蓋を開けると、微かな音が漏れた。


「子どもがそんな事いちいち言わなくていいのよ」

「また子ども扱いして。いま抱かれた男に言うセリフじゃねえよな」

「やるだけなら子どもにだって出来るわ」


 綾子さんは隣に腰掛けて、母親が小さな子どもにするように俺の髪に右手を差し込みゆっくりと撫でた。その手を頬に滑らせて止める。


「隼人は、きれいね」


 下から俺を見上げ、囁くように。頬に置いた手の指先がこそこそと動いて、くすぐったい。


「男にきれいってのはどうだろう。綾子さんは美人だけど」

「そういう意味で言ったんじゃないわよ」


 じゃあどういう意味なんだと言おうと口を開きかけたところで、唇を塞がれた。やわらかな吐息が漏れて、脳の奥が無意識に反応する。肩を抱きしめようと両手を広げたら、綾子さんの体があっさりと離れてしまった。

 所在なくなってしまった無様な両手はそのままかたまって、ため息を吐くと、ぱたん、と降りた。カーテン越しの光の帯に、ちいさな埃がふわふわと舞い上がるのが見えた。


「さ、忘れもんしないでよね。ほら、ヒロ君に買ったあれ。ちゃんと持って帰ってよ」

「あー、うん」


 シャツを拾って頭からかぶると、もう鍵のキーホルダーの小さな金属がぶつかる音が耳に届いた。






 綾子さんと俺は、ヒロが綾子さんの務める店でネックレスを買ったのがきっかけで出会い、意気投合した。なし崩しと言っては言葉は悪いけれど、そんなふうに体を重ねるようになった。

 だからと言って恋愛感情があるわけじゃない。先にそれを言い出したのは綾子さんだった。初めて一緒に過ごした夜。帰り際に、カーラジオから流れるアップテンポの曲にあわせてうたうように「誤解があるといけないから言っとくね」と切り出した。

 綾子さんはもう長いことたった一人の人を想い続けているそうだ。その相手には家庭があって、綾子さんはそれを承知で会いに行き、なにも期待していないよとわらってみせる。

 二十代後半にもなって親にも心配かけちゃってるけどね、と、こともなげに言ってのけた綾子さんの目はわらっていなかった。


「そいつと結婚したいとか思わないの」


 一度だけそう尋ねたことがある。綾子さんは暫く黙り込んだあとおもむろに口をひらいて「思っちゃいけない」とだけ言って、苦笑いしてみせた。


「じゃ、またね」


 綾子さんはそれだけ言って、あっさりと車を走らせて行ってしまった。

 あとに残ったエンジン音が、夜の闇に溶けていった。手にした小さな包みの端を持ってぶらぶらと揺らしながら、家まであと数メートルという距離を歩く。この包みを開けたときのヒロの笑顔が浮かんで自然と頬が緩む。

 玄関の取っ手に手をかけたとき、少し思い直して包みをうしろのポケットにねじ込んだ。大袈裟な包装をしてもらわなくて良かった。


「ただいまー」


 リビングを覗き込んで、夕食を囲んでいる母とヒロに声をかけてから階段を上る。椅子が床を滑る音がして、うしろからヒロの声が追いかけてきた。


「隼人……おかえり。ごはんは?」

「食う。すぐ行くわ」

「了解」


 ヒロは笑って、了解、と言いながら敬礼のジェスチャーをしてみせる。

 部屋に入って机の引き出しにプレゼントを押し込んだら、奥のほうでぐしゃぐしゃになったプリントが、ぎゅっ、と苦しそうな音をたてた。



 食事を終えてリビングを出たら、ソファーで雑誌を読んでいたヒロが後ろからくっついてきた。階段を半分ほど上ったところで、ヒロがちいさく呟く。


「サンダルウッド。あのお店の匂いがする」


 目ざとい。今日の綾子さんはホワイトローズの香りだったはずなのに。店に行ったとはいえかなり時間がたっている。驚いて振り返ったら、ヒロが三段下から俺を見上げる。一瞬押し黙ったかと思うと、へへっ、と笑って部屋に引っ込んだ。なんだ、何がしたいんだヒロは。


「ヒロ? なした?」


 部屋のふすま、化粧縁を叩くと中から「べつにー?」と、気のない返事があった。

 がらりとふすまを開けて中に入ると、机の上に鞄を乗せて教科書を詰め込むヒロがいた。ちらりと俺を見て、また机の上に視線を戻す。

 ベッドの背板に立てかけた、少し前まで俺が使っていたアコースティックギターが目に入る。新しいものを買った時にヒロが欲しいとせがんで、しぶしぶ譲ったものだ。

 それからというものヒロは初心者用の教本とにらめっこしながら辿々しく弦を爪弾いたりしている。

 時々ヒロの部屋から俺の作った歌を流しながら合わせて歌う声が聴こえてきたりして何だか気恥ずかしい。


「どした、ヒロ。なんかあった?」


 ヒロのすぐ後ろに立って覗き込もうとしたら顔を逸らされてしまった。結構、寂しい。


「綾子さん、だっけ。可愛い人だよね」

「あー、可愛いか? こえーぞ?」


 ヒロもあの後何度かあの店に足を運んで、綾子さんに面識はある。俺と綾子さんが度々会っているのも特に隠す気はないからわかっているはずだ。


「綾子さんのこと、好きなの?」


 ヒロは顔を逸らしたまま、椅子に座る。引き出しからノートと参考書を取り出してシャーペンを握った。

 風が強い。机の前にある窓ががたがたと音をたてて、顔を上げる。カーテンを引いていないことに気づいたヒロは立ち上がってカーテンに手をかけた。


「いや、好きとか嫌いとかそういう……」

「あ、ごめん。立ち入ったこと聞くつもりじゃなくて」

「は?」

 

 再び椅子に座ったヒロはそう言ってノートを広げる。かち、かち、と、芯を出す音が響く。どんな顔をしているのか見ることが出来たら、何となく考えている事もわかるんだけれど。俯いてノートに顔を近づけているヒロの表情は読めない。


「……まあいいけど、今日智也んとこ行ったんだろ?」

「うん。淳に勉強見てもらってた」

「あいつ頭いいもんな」

「隼人、僕」


 僕、と言ったあと咳払いをして黙りこむ。机の横に回って覗きこんだら、やっとこっちに顔を向けてなにか言いたそうに俺の目をじっと見つめた。淳に会ったってことは、あの事を聞いてしまったのかもしれない。


「どした。どっかわかんねーとこある? 多分俺もわかんねーけど」


 おどけてみせると、ヒロは少しだけわらった。わらったあと眉間にしわを寄せて、逡巡するように目だけ動かして「やっぱりいいや」と呟いた。


「え、なにそれ。そりゃわかんねーけど、わかんねーなりに努力するからさ」

「大丈夫。それよりさ、隼人だって勉強あるでしょ。受験生なんだからさ」


 部屋を今すぐ出ていけと言われた気がして、肩を竦めてすごすごと退散した。部屋に帰ったって勉強をやる気にはならないけれど。

 それにしたってヒロの様子がおかしい。いつもなら、わからないところを無理やり探してでも俺に聞いてくれるのに。

 俺があのことを話しているのは、淳と綾子さんだけだ。母さんや父さんにも話してはいるけれど口止めしてある。ここ最近ヒロと淳の接点がなかったから油断していた。

 淳にその事を話したとき、淳はえらく考え込んでいた。それから、じっと俺の目を見て言ったんだ。


「それ、ヒロ君には話してあるんだよね?」


 俺は淳のただならぬ気迫に圧されて、今日話す、なんて言ってしまった。もうひと月も前の事だけれど。

 母も父も特に反対はしなかった。息子の将来につながる事だからと、俺に選ぶ権利を与えてくれた。色々と問題のある家族ではあるけれど、肝心なところでちゃんと一人前として扱ってくれるのはありがたかった。

 綾子さんは俺の話を聞いて神妙な顔つきで黙り込んだ。それから俺の髪を優しく優しく撫でて、つらいねえ、なんて言ったんだ。

 綾子さんはもしかしたら、自分と境遇の似た俺に同情したのかもしれない。綾子さんに戦友のような親近感を抱くのはそのせいかもしれない。


 だけど綾子さんと淳の言葉の奥に隠されたたったひとつの結論はどう考えても理不尽なものだし、こんなものは捨ててしまわなければと思えて当然のものだ。俺はだから、二人には何も言えないでいた。もちろん、ヒロにも。



 


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