足音・1
囁くように流れるジャズのBGMが四角く切り取られた窓の外の景色とリンクして、交差点を走る車の列や歩道の植え込みの小さな花が、リズムに乗って動いているように思える。
歩行者用の信号が青に変わって、横断歩道をゆっくりとこちらに向かって歩いて来る綾子さんの姿が見えて反射的に手を上げた。
「隼人ったら、よく私が見えたわね。ここから結構距離あるわよ」
「だって俺視力いいもん」
「勉強しないから?」
綾子さんは席に着くなり俺を下から見上げそう言って、短く切った髪をかき上げた手をそのまま高く上げてアイスコーヒーを注文する。上着にしていた薄手の白いシャツを脱いで畳み、隣の椅子にかけた。華奢な肩があらわになって、骨のくぼみがくっきりと浮かび上がる。
「そんなカッコして寒くねえの」
「今日、外暑くない? だってもう七月だし」
季節はもう夏で、カウンターには小さな短冊が引っ掛かったミニチュアの笹が飾られていた。真上に設置されたエアコンから吹き付ける風にさらさらと揺れる。
「外は暑いけどさ。ここ、結構エアコン寒いし。風邪ひいてもしらねーよ」
「隼人に心配してもらわなくても大丈夫でーす。ね、今日どこ行く?」
カウンターの向こうで、氷をグラスにいれる音がする。奥のテーブル席に座った初老の男が、くわえていた煙草を灰皿の端で叩いた。ゆっくりと吐き出した煙は、ヤニで黄色くなってしまった年代物の照明のまるい表面を撫でて、くすんだ天井に消えてゆく。
「外いくの? 今日暑いつったのそっちなのに。ぶっ倒れんなよ」
「大丈夫よ。今日はちゃあんと朝ごはん食べてきたから。あの時はね、仕方ないの」
仕方ないの、と言いながら唇を尖らせる。苦笑いしてみせると、綾子さんも苦笑いを返した。
出会って間もない頃、綾子さんは待ち合わせの公園でふらふらと歩いていたと思ったら、気持ち悪い、と言い出して、直後に青い顔をして倒れ込んだ。慌てて救急車を呼ぶと、ただの空腹です、と言われて帰された。
安心したと同時に怒りがこみ上げて、吉野家のカウンターで牛丼を掻きこむ綾子さんに説教をした。
綾子さんは悪びれもせず、よくあるのよ、と、おおらかに笑ってみせた。
「朝ごはんなに食べたの」
「納豆と白飯。あとねえ、たくあん」
「……まあいいか。今日はヒロも智也ん家遊びに行くつってたから遅くなると思うし」
ヒロは今年の春に、中学生になった。
部活に入るかどうか悩んでいたヒロに、どうせなら一緒にバンドやろうと誘ってはみたものの「隼人は受験があるんだからそれどころじゃないでしょ」と一蹴された。
結局こんな時期になってもヒロは部活には入らずに図書館なんかで勉強をしたり、本を読んでいたりする。
何をやらせても器用にこなしてしまうからあまり楽しくはないそうだ。羨ましい。俺もそんな悩みを抱えてみたい。
「ふうん。寂しいねえ」
「別に。俺は俺で、こーやってデートしてる訳だし?」
運ばれたアイスコーヒーを受け取ってコースターの上に置きながら意味深に笑う綾子さんに、心外だと伝わるように少し笑ってみせた。
綾子さんは「デート、ねえ」なんて言いながらストローの袋をあけた。
「あれ、ミルクない。おじさーん、ミルクちょうだい! ふたつ!」
「あー、ごめんねえ。今持ってくよー」
綾子さんはいつもコーヒーに大量のミルクとシロップをいれる。その光景を見るたびに、甘ったるいものが苦手な俺は閉口してしまう。
綺麗な琥珀色の液体が得体の知れないミルク色のどろどろしたものに侵食されてゆくのは、雲ひとつない青空に突如現れる不気味な暗雲のように思えてならない。グラスの中に広がってゆく白を見ているだけで何だか胃がもたれてくる。
ほとんど空になってしまっているアイスティーを傾けて一気に飲み干した。角のまるくなった氷がいくつも唇にくっついて、軽い音をたててグラスの底に落ちた。
「うん、あまーい」
すっかり様相の変わってしまったアイスコーヒーを、綾子さんは美味しそうに飲んで頷く。
奥のテーブルの客が立ち上がりカウンターに小銭を置いて、表に繋がるガラスのドアを開けた。通りの喧騒が堰を切ったように雪崩れ込んで、にわかに騒がしくなる。それらはゆっくりと遠ざかり、張り詰めた糸をはさみで切るようにぷっつりと消えた。
客は俺と綾子さんの二人だけになった。
「それずいぶん大事にしてるじゃない。だいぶ長いわよね。もう二年近くなるんじゃない?」
それ、と言いながら綾子さんは、俺の首から提げたピックを象ったネックレスを指さした。一昨年の誕生日にヒロが選んでくれたものだ。ひと騒動あってようやく俺の首から提がっている。
「もうちょいでそんくらいかな。十月だったから。そういやずっとこれしか付けてねえな」
「ヒロ君もずっとしてるの? ストラップにしたよね。金具外れたりしてない?」
「外れてない。すっげえ頑丈にくっついてる。綾子さん力強いから」
「人を怪力みたいに言わないでよ」
綾子さんの務める「Blue moon」でヒロが俺の誕生日プレゼントとして選んでくれたこれは、結果、ヒロとお揃いということになった。
あの時俺に「緑だったと思います」といういい加減な情報をくれたのは綾子さんで、そうしないと隼人の優しさが伝わらなかったでしょ、なんて言って笑った。お陰で気まずい思いをしたんだけど。
お揃いだからと言って嬉々として首から提げて学校に行ったヒロは、その日珍しく浮かない顔をして帰ってきた。
担任に、アクセサリー類は禁止だから付けてくるなと言われたらしい。お守りだと主張しても聞き入れて貰えなかったそうだ。
その話をすると綾子さんは、ストラップに加工してはどうかと提案をしてくれた。
お陰で小学校に通っている間、それはずっとヒロのランドセルにぶら下がって揺れていた。
「今、携帯につけてる。ネックレスもいいけど、なんかやっぱヒロにはもうちょっと華奢なやつのほうが似合うと思って。近いうちまた買いに行くよ」
「ヒロ君の誕生日近いもんね。今月の終わりだっけ」
綾子さんは、ヒロが家に来た経緯を知らない。ただ、半分しか血は繋がっていない、とは話してある。複雑な事情を話した所でなにが変わるという訳でもない。
事実は、ヒロと俺がきょうだいだと言うことだけで充分だ。
「じゃあさ、今日お店行ってみよ。新商品入ったばっかりだから」
「今日? 休みなのにいいの?」
「構わないわよ。その前にお昼どこで食べる? お給料入ったからおごってあげる」
綾子さんは小さなバッグから財布を取り出して、にっこりと笑う。
いつもは俺の小遣いの額を考えるとラーメンかファストフードくらいしか選択肢がない。初めのうちは食事代を出そうとする綾子さんに遠慮してみせていた。けれど決まってものすごい勢いで「私が食べたいんだからつきあってよ!」と怒鳴られる。
そういう訳でこんな時はいつも、素直にご馳走になることにしている。綾子さんは怒ると、めちゃくちゃ恐い。
「まじで? ゴチんなります! 肉食いたい、肉!」
「いちミリくらいは遠慮してもいいのよ、少年」
上着を羽織った綾子さんからホワイトローズの香りがたちあがる。少し前までは店で焚いているサンダルウッドのお香の香りだった。
あっちのほうが良かったな、なんて思いながら伝票を綾子さんに差し出すと、お茶くらいおごりなさい、と突き返されてしまった。