風の音・4
ナイロンの傘にばらばらと大きな雨粒が落ちる音がする。雨が巻き上げた風が足元を冷やしていく。
十月半ばの夕暮れはただでさえ肌寒さを感じるのに、薄手のパーカーにハーフパンツという薄着で家を出てしまったことを後悔した。
今日の昼休みに六年生の教室に行って、斉藤竜二に声を掛けた。斉藤は僕の顔を見るなり眉間に皺を寄せて「何だよ、あん時は悪かったよ」と、面倒くさそうに謝った。
「そのことじゃなくてさ、教えてほしいことがあるんだけど」
斉藤は僕の話を聞くと、じっと僕の顔を見下ろしてから、いったん教室に戻った。
すこしして僕のところに戻った時、ちいさなメモ用紙を持っていた。ばつが悪そうに唇を尖らせて、指に挟んで差し出した。
「これ、花村ん家の住所。もう半年近く来てねえんだからよ。別にぜんぶお前が悪いって訳じゃねえだろうけど、声かけてやったら喜ぶんじゃねえかな」
斉藤は智也や他のみんなが言うほど悪い奴じゃないのかもしれない。ただ、自分の大切な友だちの為にいちいち大袈裟なほど体を張ってしまうんだろう。
不器用といえば聞こえはいいけど、まあ、言っちゃえば迷惑だ。もう少し抑えてくれると有難いと話すと、「うるせえんだよ、生意気なんだよお前!」と一蹴されてしまった。
インターフォンを押して出てきた母親らしき女性に軽く事情を話すと、ここで待っているように言われた。それからゆうに一時間は経っている。
はじめは小降りだった雨も次第に強さを増して、辺りは白く煙っていた。
この事を隼人に話すのはなんだか気が引けて、智也にだけ相談した。
智也ははじめは驚いていたけれど、暫く考えたあと、家に行くのがいいんじゃないかと提案してくれた。一緒に行くと言っていたけれど、わざわざ部活を休んでもらうのもどうかと思って断った。渋々僕を送り出した智也は、家には絶対に上がるなと言っていた。何があるかわからないから、と。
何があるっていうんだ、智也のやつ。
でもこんな雨なら部活も中止だろうし、ついて来てもらえば良かったかもしれない、なんて考える。今更遅いけど。
「……篠崎」
がちゃりと玄関のドアが開いて、隙間から雨の音にかき消されそうなほどか細い声が聞こえた。
「花村? あの……」
「なにしに、来たんだよ」
青白い顔を覗かせた花村は、縁無しメガネの端を持って、きゅっ、と持ち上げる。玄関に降り込む雨粒がレンズを濡らして、花村の目はよく見えない。
「あの、謝ろうと思って……、僕ひどい事言ったから」
「別に僕は君のせいで不登校になったわけじゃ、ないんだけどな。勝手に責任感じてもらっちゃ困るんだけど」
ぼそぼそと、でも一気にそう言って、ドアを閉めようとする。慌ててノブを掴んで止めた。雨で濡れたノブは冷たい。
「そりゃそうかもしれないけど。でも、僕が『意味わかんない』なんて言っちゃったから」
意味わかんない、と言ったのには僕なりの理由がある。日本に来たばかりの僕はあまりそういう事に構うような余裕はなかった。そんなとき、花村が現れた。
相談がある。そう言って放課後に僕を呼び出した神妙な顔つきの花村に、なにかとても深刻な事情があるんだろうと思い込んだ僕はじっと、花村の言葉を待った。
花村はずっと俯いたまま、しきりに地面の小石を、スニーカーのつま先で右にやったり、左にやったりしていた。
そうして待つこと一時間弱。花村の口から出た言葉は「僕と付き合って欲しい」だった。
まさかそんな話だとは思わなかったし、男から告白されるなんて思いもよらなかった僕は思わず、言ってしまったんだ。意味分かんない、と。今思えば申し訳ない事をしたのかもしれない、と思う。
「僕は!」
突然大声を出されて、驚いて傘を落としてしまった。
「僕は、本気だったんだ! それなのに君は!」
「だから謝ってるだろ! ちゃんと考えたから!」
寒くて、声が思ったより大きくなる。家の中から「どうしたの、ユウくん」と母親の声が聞こえて、花村は眉間にしわを寄せ、舌打ちをしてから後ろ手でドアを閉めた。玄関先にほんの少しだけ張り出した屋根もむなしく、僕と同様花村の全身は雨に包まれた。
「ちゃんと考えたって、何を」
傘を拾って差し出すと、花村は左手でそれを制した。仕方なく傘を畳んだら、こっち、と腕を引っ張られた。
「ここなら濡れないですむ」
家のすぐ隣にある倉庫の屋根の下。目の先十数センチ先で雨水が滝のように落ちている。
空を見上げたら、遠くの雲が強い風に吹かれて走るように流れているのが見えた。
「ありがとう……、あの」
「僕は、女の子を好きになれないんだ」
唐突に話し始めた花村はそう言って、俯く。メガネは曇って、相変わらずどんな目をしているのか見えない。
「小さな頃からそうだった。かわいい女の子より男子に目が行って、でもはじめは憧れだと思ったんだ」
「うん……」
「あんなふうになりたい、とか、あんな人と友達になりたい、とかさ。あるだろ?」
「うん、ある、と思う」
正直よくわからなかったけれど、今そんな事を言っても意味が無いと思って黙っていた。花村は満足そうに頷いて、続ける。
「憧れってそういうものだけど、僕は違ったんだ。いつも気になって、こう、胸が締め付けられて。僕のために笑って欲しくて、隣にいて欲しくて、僕だけのもので居て欲しいって、僕が幸せにしたいって、そう、思ってしまう」
「それが、恋愛感情、ってやつ?」
「そう。はじめはわからなかったけど、段々まわりが恋愛だ何だって言い出したら、なんとなくわかってきて」
僕だけのもので。僕のために笑っていて。どこか覚えのあるその感情に、胸が締め付けられた気がした。
「女の子にはそんな感情はわかなくて、こんな自分はおかしいんだってずっと思ってた」
「……」
「だけど、篠崎のこと見つけて、もう、どうしようもなくなって、抑えられなかった」
「どうして、僕?」
話をしたこともない僕に、どうしてそんな感情を抱くのか。おかしいとは思わないけれど、不思議だった。
「それは……、君いつもお兄さんと一緒にいるだろ。朝とか、よく見かけてて」
「ああ、うん」
いつも一緒に家を出て、隼人は僕に歩幅を合わせて歩く。はじめはその事に気づかなかったけれど、他の生徒が先に行ってしまうのを何となく見ていて、気づいた。
それから少しは早く歩くようにしたけれど、隼人は何も言わない。
「それで……、お兄さんと一緒にいる君が、学校にいる時とは違ってこう、なんて言うか……、すごく、優しい顔をしていて」
「そ、そうかな」
それはたぶん、隼人がいつも優しい顔をしているからだと思う。隼人が笑ってくれたら、僕も、わらう。
「そうだよ。それで僕、どうやったら君をあんなふうにできるんだろうって思ってたら、それで、気づいたら、す、好きになって」
花村はメガネを取って、真っ赤になってしまった顔をシャツの襟元を引き上げて隠した。頭から湯気が出そうだ。何だかコミカルなその姿に、頬が緩む。
「……ありがとう。その、気持ちはすごく、嬉しい。でもあの……」
「誰か好きな人がいるの!? ああでも、恋愛対象はやっぱり普通に女子なんだろうな」
花村は突然顔を上げて僕の両肩に手を置いて、斜めになってしまったメガネの上の眉をこれでもかと下げて、僕を覗きこむ。僕の前に立ったから、上から流れ落ちてくる雨水が花村の髪を容赦無く濡らした。慌てて屋根の下に引っ張りこんだら、花村は僕から離れて「ご、ごめん」と謝った。
「好きな人はいないけど、好きになるのに男も女もないってのはわかる気がする」
「じゃあ単に僕に魅力がないって事か」
「や、そういう訳じゃ」
「じゃあ何だよ」
花村はメガネを外して、シャツの裾で拭いた。切れ長の目が見えた。すぐにメガネをかけ直して、ふん、と鼻を鳴らした。
「花村に魅力があるとかないとか、そういうんじゃなくて。僕まだ恋愛とか、よくわかんないんだよ。誰かを好きになるってことがいい事でも悪い事でもあるって知ってるけど、まだ僕は、わかんない」
父は母を好きになって、隼人や涼子さんを裏切ってしまった。母は父を好きになって、日本にいる父の家族を傷つけた。
だけど僕は、隼人に出会えた。僕にわかるのは、それだけだ。
「篠崎って……、なんか大人みたいなとこあるね」
「僕はまだ、子どもだよ。わかんない事だらけで、嫌になる」
「そうかなあ」
「でもさ、花村の気持ちは、嬉しかったんだよ。ありがとう」
笑ってみせたら、花村は細い目を更に細くして笑った。
雨はいつの間にか止んで、灰色の雲の隙間から太陽の光が筋になって降りてきた。
「あ、天使の梯子」
「てんしのはしご?」
母が生きていた頃、母はそう言ってこの光を眩しそうに見上げていた。あの光をたどれば、天国へ行けるのよ。
母はあの光のむこうに行ったんだろうか。そこで、わらっているんだろうか。
「ふーん、天使の梯子って言うんだ。……いつかまた誰かを好きになることがあったら、教えてやろうかな」
花村はそう言って、笑った。笑ったあと、来週から学校行こうかな、と呟いて、家に戻った。
取り残された僕の前で、倉庫の屋根の下にできた大きな水たまりがすっかり明るくなった空をうつす。天使の梯子はいつしか消えて、遠く、大きな鳥が羽根を広げて飛び立った。